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夕やみ


 きつい階段だった。ひどく長くて、傾斜が急で、一段上るごとに息が切れた。夕やみの中、隣を歩くきょうだいの輪郭はぼやけ、ほとんど影に近い。周りのものすべては夕やみと同じ色で、自分の存在すらも定かではなかった。
「後ろを振り向いたらねえ、影が襲ってきて、食べられちゃうよ」
「登りきるまで、絶対に振り向いちゃだめだよ」
 姉と私は、二人の間に手をつながれた弟をからかいながら歩いた。そうしていないと、自分たちまでもがその影の存在を信じてしまいそうで、いったん信じてしまったら、取り返しのつかないことになるような気がして、怖かった。 
 姉と私は笑った。階段をのぼりながら、息を切らしながら、きついきついと言って笑った。 
 住宅地全体を見渡せるという展望台。そこにたどり着くための街はずれの丘の中腹で、私たちの笑い声は空虚に響いた。それでも笑っていなければいけなかった。溶けてしまいそうだった。迫りくる夕やみの中、三人一緒くたになって、区別さえつかないまま互いの境界を失い、私達はこの世から消えてしまうのではないか。とりとめのないその恐怖が、二人の笑い声を駆き立てた。笑うことだけでしか、一切の境界を溶かし込み失わせる、眼の前の夕やみに傷をつけようともがくことでしか、自分たちの存在を、この世のものとしてとどめておくことができないような気がしていた。
 そんな私たちの間で、弟は黙々と階段を上がっていた。恐怖なのか期待なのか、繋いだ手から伝わる感情は、私たちにはわからなかった。
 弟は、静かだった。まるでもう声も言葉も失ってしまいでもしたかのように。あの夕方だけなんかじゃない。あの頃の弟はいつもそうだった。弟は、静かに立ち尽くすようにして私たちの隣りにいた。幼い両目が言葉を超えたさみしさを込めて、私たちを見上げていた。喋らない弟。から笑いするお姉ちゃん。その真ん中にいる私。私たちはあの頃、互いを失うことを恐れていた。手を離したら、見失う。薄やみの中に溶けてしまう。あらがいえない恐怖に震え姉と私は弟の手にしがみついた。あの日も変わらず、あの階段で、きょうだいたちは熱くて柔らかい手のひらを三人一緒に握り続けた。

 階段はあまりに長かった。足が震えて、汗がぬるりと首筋をつたった。三人握りあった手のひらも、汗で滑っては私達を引き離そうと反発しあう。
 目をあげると少し先には頂上が迫っていた。弟の歩調が速くなる。まるで比例するかのように、不気味な影の存在もまた、刻一刻と濃さを増す。息が切れた。初夏の風は爽やかでここちよいはずなのに、私の肌にはぬるく、ひどく気持ちが悪い。追いかけてくる影の吐息がうなじに吹きかかるようで怖い。いやな汗が背筋を冷やす。
 はっきりとした影の息遣い。背後に迫る確実な恐怖。手と手が汗で滑りあい、姉と私はがむしゃらになって、弟の手にしがみつく。放さないよう、失わないよう。躍起になって、爪を立てて。
 次の瞬間だった。私の爪は弟の指の皮を抉った。絶え間ない息切れと汗の生臭さ、膝の震えに感覚を支配されて、ただ必死で、それでも他人と自分の境界を抉り取る瞬間は鮮明だった。「はなれないで」私の声がきんと張り詰めた夕やみに吸い込まれる。
 同時に弟は、私たちの手からすっとすり抜け、一人で階段を上り始めた。縋り付く二人の姉の手をさらりと剥がし、幼い足で階段を踏みしめる。振りかぶるように頭を回して、弟は後方を振り返る。私達は立ち尽くした。
 影が迫る後方を、弟は静かに見渡した。固まった私は動けない。握るもののなくなった手のひらに、空気が当たって冷たかった。私はがむしゃらに手を伸ばす。手のひらが凍りそうな思いだった。あたたかい、柔らかい握り慣れた彼の手に触れていないと。本当に影に飲まれてしまう。
 弟はお構いなしに、姉たちを振り払って駆け出した。「食べられちゃう!」私と姉は悲鳴をあげた。あげたけれどもその声は、笑い声より無力だった。夕やみに一切の傷すらつけず、私達の声は飲み込まれた。後ろからくる影に、膨大なる夕やみに、もっと大きな、恐ろしいなにかに。
 私たちは弟を追った。弟は駆けた。後ろから影が来る。さもなければ、私たちはこの夕やみの中に溶けてしまう。その思いが三人の足を必死で走らせた。
 段々が目の前に迫った。階段はぼやけて、歪んで、大きくうねった。
 私たちは斜面から逃れるようにして、頂上の平地に転がり込んだ。吸う息も吐く息も、右腕にのしかかる弟の細い肢体も、姉の長く乱れた髪も、すべてが熱を持ち、赤く光って見えた。
 夕やみは刻々と迫り、辺りの風景を、辺りの境界を飲み込んだ。姉と弟、隣にいる二人の、汗で湿った柔らかい肌の感触だけが、私と夕やみとの境界を形作っていた。その境界だけが頼りで、私はそっと顔をあげた。二人の存在を確かめた。彼らの肩はうごめいていて、熱くて、確かで、生きていた。

 どれくらいそうして横たわっていただろうか。きょうだいたちの肩の動きはしずまって、徐々に静けさが舞い戻り始めた。姉が膝を抱えて頂上の地面に座り直したのをかわぎりに、ひんやりとした地面の感触も得られ始めた。私は手をつき、ゆっくりと体を起こして後方を振り返った。思わず息をのんだ。
 そこには亀の甲羅の模様のように、住宅地の光景が、窓から漏れる明かりの粒たちが、転々と広がっていた。家々の間を通り抜ける道路にはちゃんと街灯がともっていて、誰も迷わないように、夕やみに同化して消えてしまったりしないように、己が存在を現実世界から見失ってしまうことのないように、この世を照らし出してくれていた。遠くの信号が赤に緑に点滅してそっちに行っちゃだめだ、そっちに行っちゃだめだと手を振っていた。
 心の中に、ずっと張っていた糸が、すっと緩んだような気持がした。なんだかほっとした。
 そっと、弟がスカートの端を握ってきた。その顔を覗き込んで私は言った。
「もう大丈夫だよ。ほら、だって街が、パチンコ屋の、コンビニの、いろんな光が、私たちのこと見てるもん。ずっと見守っていてくれてたんだよ。」
 弟は何も言わず、スカートを握る手に力を込めた。
「みて。ほら、みて。」姉がいつもの声で、明るい声で遠くを指した。
「学校が見える。いつも通ってる通学路。ほら、あっちは私の学校。」
 けれど、そんなに遠く、まるでうすい靄がかかったよう。私にはよく見えなかった。ただ街の光たちがポヤポヤと、いろんな色に光って見えるだけだった。

 けれどもそれはとても素敵な光景だった。赤に黄色にオレンジに。それらの光は地上で見るよりずっと元気に、表情豊かに、陽気なダンスを踊っていた。隣で姉も弟も、じっとポヤポヤを眺めていた。私も見つめ続けた。  そしてふと、足元を見て驚いた。
 空にしろ、海にしろ、人の顔や文字だって、ずっと見つめていると―見つめれば見つめるほど―その正体をつかめなくなることがあるが、この時もそうだったのだ。ふと気づくと、自分の位置するところがわからなくなっていた。まるで自分たち自身が色とりどりのポヤポヤになって上空を漂っているかのように……。
 そう、私たちはこのとき、紛れもなく、夕やみの一部分と化していた。弟は青色、姉は赤色、私はオレンジ色の淡い、小さなポヤポヤであったのだ。
 私たちは笑いながら、遠くほのかなポヤポヤたちと色とりどりのパスを交わした。濃さを増していく闇の中で、虹色に溶けあい、混じりあい、時に離れて手をつなぎ、陽気なダンスは心地よかった。心に張っていた糸は、今度こそ、大きな音を立ててはちきれた。私はうれしくて、ポヤポヤのままとびはねた。  その時だった。かすかな、かすかな、吐息のようなつぶやき声が私の耳をくすぐった。 「ここにいて。ここにいて。」
 か細い、消え入りそうな声を姉と私は確かに聞いた。弟の口元は、ひそかに、ひそかに動いていた。
 それはあまりに頼りなく、ほとんど聞き取れないような声だった。姉と私は一生懸命に耳を澄ませた。食い入るようにその口元を見つめ、その動きを確かめた。
 そうして一緒につぶやいた。三人一緒のつぶやき声は、三色の柔らかなポヤポヤになってふわりと上空を漂った。三人の声は互いに溶けあい、混じりあい、今となっては、誰のものかの判別もつかない。「ここにいて」というつぶやきは、いつしか一緒くたになって、「行かないで行かないで」「帰ってきて帰ってきて」と形を変える。ポヤポヤと互いを抱きしめあう。
 弟の手がすっと伸びて、私の手を握った。そっと、撫でるように、慰めるように。その指にできた小さな傷が私の皮膚と軽く触れあう。私の目から涙がこぼれた。喉と目頭が熱くなる、その感触が私にはわかった。姉の手が、私と、弟の手を握りしめた。包み込み、慈しむかのように、やさしく。

 私は両の手のひらをゆっくり閉じた。閉じた先にはきょうだいたちの指先があった。あたたかくて、柔らかくて、それでいて確かだった。私の薄い手のひらに確かな確かな境があった。どうしようもないさみしさが、私達の境を結びつけた。私達は手のひらを介して繋がっていて、それなのにこの丘を降りれば、ポヤポヤのように溶けあい、混じりあい、一緒くたになることはもう許されない。私はそれを鮮烈に悟った。さみしさが高まって、かなしさに変わって、そのかなしさがきょうだいたちと私との境目、手のひらの薄い皮膚をふわりと照らし出した。それは私にはきれいに見えた。眼下に広がる夜景のように、目の上に広がる星空のように、うつくしく、ここにあって、確かだった。私はしっかり目をあげて、きょうだいたちと目配せを交わした。

 いつの間に真っ暗になっていたのだろうか、お姉ちゃんと、弟の目は街の光、星の光の明るさを受けてキラキラと輝いていた。
 三人きょうだいはうなずき合って、それから上ってきた階段を見つめ返した。そこにはもう、彼らを怖がらせた夕やみは存在していなかった。ただ夜が、しんと腕を広げて家々の屋根を包んでいた。明るさのない闇の中に、影は潜んでいなかった。頬に当たる初夏の風は涼しくてここちよかった。
 私たちはしばらくして、階段を引き返した。丘の頂上を、誰も振り返らなかった。








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