怒りの日(即興について)

私にとってのジャズの原点であるピアノトリオに立ち戻って約1年半。
トリオのドラムが育休に入って以降、ベースとデュオでリハを続けている。
よく考えたらデュオでの「ライヴ」というのはまだやっていない。

最近は完全即興による演奏を期するようになった。
どうとでもなる1人での即興ではなく、お互いが刺激やきっかけにもなり、あるいは縛りにもなる、複数人での完全即興。
ドラムがテンポキープしているわけでもない、主旋律が別にいるわけでもコード楽器が複数いるわけでもない、ピアノとデュオという自由度の高い編成。

先日、ここ数ヶ月出入りしている芸術サロン「無光虹」にて、衆人環視のもとで即興を行う試み、題して「怒りの日」というものを行った。

怒りの日(いかりのひ、ディエス・イレ、Dies irae)とは終末思想の一つで、キリスト教終末論において世界の終末、キリストが過去を含めたすべての人間を地上に復活させ、その生前の行いを審判し、神の主催する天国に住まわせ、永遠の命を授けられる者と地獄で永劫の責め苦を加えられる者に選別するとの教義、思想。または、それが行われる日。(Wikipediaより)

つまり、もはや滅びを迎えているジャズを、純粋な(ジャンルとしてではなく姿勢としての)ジャズとして生みなおそう、という試みである。

これはライヴではなく、純粋に芸術家としての生産活動である、とした。

私として今回心がけたことは、

  1. 説明しないこと
    怒りの日の口上はwebと紙で用意し(てもらっ)たものの、それ以上のその場に居合わせた人に向けた前説は行わない。

  2. 奏者間での言語コミュニケーションは最低限にすること
    語るなら呼びかけるなら音でそうする。
    ふり返りは終わってから。

  3. 自分が思うようにやる
    1と2をあわせるとそういうことになる。というかそうするしかない。
    もちろん演奏の呼吸、音や場が語ることに耳は向けるが、自分が出す音・出したい音を信じる。そしてそれに返ってきたもの、あるいは自己の発信に関係なく入ってきたもの(合奏者の主張含め)に、音で応える。

というようなことを、無光虹の主人にも、合奏者にも、誰にも言わずに演奏した。
言葉で伝えることにより場における自分の意図が大きくなることを恐れ、自分の意図外のことが起こるのを期待して。

こういうのが私のわるいところである。
結果的に、私の無言の主張が強く出過ぎた感はあった。
が、こういうものはやってみないとわからないのである。
言わずにやると起こることの一例がわかった。

結果的に、だが、40〜50分ほどの3ステージ(ステージ?)になった。

1stステージは完全即興。曲はやらないしよくある曲らしいコード進行は避けた。
そして、61鍵のキーボード(GO:PIANO)に加えて用意した37鍵のキーボード(Reface CP)のデジタルディレイを利用して、ループらしきものを即時的に作り変化させるなどした。
コード進行に関しては、少なくとも”合わせる”には耳だけで伝わる範囲に留まらざるを得ない、という不自由さを(逆に)感じた。しかし同時に自分が出した進行を合奏者が無意図に異なる進行に受け取ったとき、自分の意図外の演奏になるという可能性を覚えた。

2ndステージはジャズスタンダードナンバーから入った。
完全即興と謳いながらも、曲をしたらダメというのでは"完全"即興にはならない。禁止してはならないのである。
また、自分たち自身と場・聴衆の緊張を取り除きたいという意図を私は持った。
ここでやったスタンダードは、1stの曲のない即興よりも自由になった。
Nardisではそのコード進行を素材に、それを単純化したりスケールを変えたり、尺をなくしたり。
Nardisはとても好きな曲だがコード進行とテーマ(というよりBill Evansの演奏?)が強過ぎて、最近少々苦手意識(自由に演奏し切らない/説得力のあるハーモニーを出し切らない)があったが、このセッションにより克服した。たぶん。
これを受けて臨んだ完全即興には、スタンダードで得た自由を還元できたように思う。

3rdステージは、スタンダードもオリジナルも完全即興も入れた。
曲をやろうとしてやめたり、やるつもりのない曲の触りを弾いたら拾われてそのままその曲をやったり、ということが起こった。
疲れも相まってか、1st・2ndよりも何も考えずに演奏できたし、鍵盤のタッチもよくなった。
力が抜けてないと、どの音も同じようにしっかり弾いてしまうし、サスティーンペダルが多くなってしまう。
フォルテでもピアノでもしっかり弾き切ることは重要だが、同時に弾くか弾かざるかの音を、弾くこと、弾かないことと同様・同列に発せられるのは、よく脱力して楽器に・音楽に向かえているときである。
正直、この日にこの状態まで至ったのは、3rdステージになってからだった。そうなれば、もう何をしてもいい。
重要なのでもういちど言う。弾くこと、弾かないこと、弾くか弾かざるかの音を弾くこと、は全て同様・同列にあるべきである。

この日は疲れ果て、翌日は自宅に引きこもってしまった。
今回の試みが成功だったかどうかの評価は現時点ではできないし、意味もない。
というのはこれは過程だからである。
この毎回が完成品であるならば、「表現者の表現者のための芸術サロン」である無光虹で行う意味がない。パフォーマンスとしてのライヴなら他所でやればいいのだから。

次は、言語コミュニケーションを、相談も議論も振り返りも衆人環視のもと、この「怒りの日」に組み入れようか。


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