見出し画像

(2023.08.18 追記あり)アメリカ法思想史と原意主義



1.背景~連邦最高裁の思想動向~

 2020年10月、トランプ大統領がエイミー・バレット(Amy Barret)を連邦最高裁判事に指名し、物議を醸しました。連邦最高裁判事の社会的影響力は高く、エイミー・バレットの判事就任に反対する人が反対運動を行いました。エイミー・バレットはアメリカの法曹ですが、憲法解釈の流派の中で、彼女は原意主義者(Originalist)と呼ばれる人達の中の一人です。原意主義は日本ではあまり知られていない言葉ですが、近年の米司法界で原意主義(Originalism)という思想が隆盛しています。反対運動を行った人は、連邦最高裁判事に就任するエイミー・バレットが原意主義者であることを理由にトランプ大統領の決定を非難しました。
 原意主義とは、憲法はあくまでその原義(文理と制憲者意思)に従って解釈するのが原則であるとする憲法解釈の流派です。文理とはアメリカ合衆国憲法の条文の言葉を、英語の文章の言葉の意味と文法通りに解釈するという事です。文章を率直に読み、それ以外の解釈を許しません。また、制憲者意思とは、合衆国憲法を制定した人達の考え方や意思の事です。制憲者とはまず憲法の条文の文章を書いた憲法起草者達のことです。憲法起草者とはワシントンやハミルトンやフランクリンやマディソンなどの人物のことです。彼等が憲法草案の内容を社会的に提案した新聞への寄稿『ザ・フェデラリスト』は、原意主義における制憲者意思を知る上での一次的な参照文献です。また、制憲者達の当時の日記・手紙・言行録や1700年代後半の西洋世界の流行思想(例えばルソーのエミールなど)を参照するのも原意主義思想ではよくあるパターンです。
 2000年代に、残虐なシーンが出て来るゲームを子供に買い与えていいかどうかが争われた裁判で、原意主義者のトーマス裁判官は、合衆国憲法制定当時の人々の教育観はルソーの『エミール』やロックの「タブラ・ラサ(生まれた瞬間は人間は白紙の状態である)」という考え方に依っており、子供に悪影響な表現を見せるはずがないという意見を述べました。
制憲者に女性はいません。制憲者達の時代の常識を考えると当然、LGBTの権利や女性の妊娠中絶の権利も認められません。
 この様に、合衆国が作られた当時のオリジナルな意見を大切にする法思想の流派が原意主義です。合衆国憲法制定は200年以上前ですが、現在のアメリカ人が過去の資料を探し、整理し、それを読み込み、制憲者の意思を想像し、「特定」します。原意主義はアメリカにおける憲法解釈のあり方を、1787年の憲法制定時の時点で止めていいという思想です。法解釈の時計の針は制憲時で止まります。
 原意主義は1980年代中盤から主張され始め、徐々に影響力を拡大し、現在の連邦最高裁判事9人の内、原意主義のグラデーションやパターンはあるものの、原意主義者の判事は多数派になっています。
 原意主義自体は誰が見ても明らかな極端な保守主義思想であり、アメリカ建国の理想を美化するアメリカ人特有の妄想とも言っていい物です。日本ではこの様な考え方は中々あり得ないのではないでしょうか。
 現代社会の価値観から原意主義を非難する事自体は簡単だと思いますが、しかしなぜ、21世紀の現在においてアメリカで原意主義が隆盛しているのかは、アメリカの法律と裁判所の歴史を辿らなければよく分からず、一般的にそれをまとめて紹介している記事がなさそうなので、本稿ではそれをご紹介しようと思いました。

2.世界の各地域の法源とコモンロー(Common Law)

 現在の世界の地域には、法源があります。法源とは法律の背景や基盤や根拠の事です。
 まず、2000年前の古代ローマ帝国において、人間と人間がトラブルになるパターンを法学者達が収集して類型化し、それを解決できるルールを作り、それをルール集としてのカタログにした物がありました。これが古代ローマ法です。これを中世のボローニャ大学のローマ法学者達が受け継いで研究した物を19世紀にナポレオンが発掘して近代社会を作るためにアップデートし、ナポレオン法典として纏めました。これはドイツに受け継がれドイツ流の論理性で体系化され、それをユーラシアの一番東の日本が継受しました。日本に統治されていた韓国や台湾にも日本法系が残っています。ヨーロッパの大陸部と日本や韓国や台湾は大陸法系の国です。
 ユーラシアのイスラームの地域では、イスラーム法があります。これは預言者ムハンマドに神から下されたルールの集積です。コーランやシャリーアやハディースといったものがあります。大陸法とイスラーム法でユーラシアの多くの地域の法律が説明できます。
 もう一つ世界の地域の主な法源として存在するのがコモンロー(Common Law)です。コモンローは大陸法とイスラーム法とは少し違ったところから出てきました。コモンローはイギリスの裁判所の中で、歴史的に長い時間をかけて蓄積された市民達の具体的な揉め事とその解決ルール集で、それを法律として体系化した物です。アメリカはコモンローをイギリスから継受しました。裁判例の中で作られてきたので、コモンローの事を判例法主義と呼ぶこともあります。アメリカは判例法主義の国です。

3.コモンローのイメージ

 コモンローとは具体的に何かということなのですが、交通事故の例が分かり易いかもしれません。二つの裁判例と一つの議会立法例を関連させながらご紹介しようと思います。
 19世紀くらいまで、イギリスでは馬車が走っていました。馬車が現在の自動車が走る様な公道を走っていた訳ですが、ある公道にそれを横切るような横棒が置かれてあり、馬車の馬がそれに引っかかり、男が落馬してケガをしました。男は原告となり公道に横棒を置いていた者を訴えましたが、逆に横棒を置いていた被告からは前方不注意の過失を指摘され、裁判所は、損害が発生しないための通常程度の注意を払わない等の落ち度がある原告は被告に損害賠償請求をできないと判事しました(「寄与過失のルール」、Butterfield v. Forrester (1809))。
 しばらくこの寄与過失のルールで交通事故を処理していましたが、1842年のロバ事件でそれが変わります。公道の端にロバが繋がれていましたが、それに馬車が突っ込んでロバが跳ね飛ばされて死にました。ロバを失った者が原告となり馬車の御者を訴えましたが、この事件では馬車の御者が、先ほどの寄与過失のルールを援用して、ロバを公道に繋いで邪魔になるように置いておいた被告には過失があるので、損害賠償を請求できないと主張しました。これに対して裁判所は、原告被告双方に過失がある場合は、最後に事故を避けるチャンスがあった側が責任を負うべきだとする「最後の機会回避のルール」を作り、馬車の方に最後に事故を回避するチャンスがあったので、御者はロバの持ち主に損害賠償を請求できないとしました(Davis v. Mann (1842))。
 しばらく最後の機会回避のルールで事件を処理しましたが、20世紀になり車社会になると、交差点での突発的な自動車事故は、馬車より断然スピードが速いので、どちらが最後に事故を回避するチャンスがあったのか分かりにくいケースが多くなりました。この時は立法府が、双方の過失を算定してそれを相殺して損害賠償の額を決めようという「過失相殺」のルールを作りました(Law Reform(Contributory Negligence)Act 1945)。
 以上交通事故の例でコモンローを説明しましたが、前者二つのルールは、イギリスの議会は制定法としては作っていませんでした。市民が争った実際の裁判の中で、市民と裁判官が作ったのです。その蓄積があったので、三番目のルールを議会は作ることができました。日本では裁判所は既に国会が制定した法律に当該事件が当て嵌められるかどうかを審査しますが、イギリスでは裁判の中で市民が法律を作ることができるのです。この様な具体的な揉め事集、その事案解決ルール集が14世紀ごろからイギリスには蓄積され、それが体系的になった物がコモンローです。アメリカはこれを継受しました。つまり、アメリカ人は合衆国政府ができる前から、法律を持っていたのです。
 オーストラリアやニュージーランドなどの英連邦系のコモンウェルス諸国は現在でもコモンローを使用しています。逆にアメリカ国内では、旧フランス植民地のルイジアナ州は大陸法が基盤になっています。また、メキシコから割譲されたカリフォルニアにもスペイン法(大陸法系)が残っています。
 アメリカでは議会の立法はrestatement(リステイトメント)と呼ばれます。これは、コモンロー裁判の中で現れた数々のルールを条文の形に編纂して議会が制定法としてもう一度述べた(re-statement)、という意味です。
 コモンローを淵源として継受しつつ、アメリカは合衆国憲法を制定して本格的に国造りを始めました。しかしそれは不完全な憲法で、そこには司法制度の未確立という問題がありました。

4.アメリカ法判例の歴史

(1)1787年:合衆国憲法制定と司法制度の未確立

 1773年ボストン茶会事件からアメリカ独立戦争、1776年アメリカ独立宣言を経て、1787年にアメリカ合衆国憲法は制定されました。合衆国憲法起草者の代表的人物はワシントン、ハミルトン、フランクリン、マディソンなどでした。
 アメリカ合衆国憲法は政治制度として連邦制を採りましたが、それは州に統治権原があるのが原則で、連邦は例外的に州際通商・安全保障・外交などの権限を持つという構成の憲法となりました。1787年に制定された憲法の原典には立法・行政・司法の三権分立の統治構造のみが規定されました。つまり、アメリカ合衆国憲法には初めは人権保障の条文がなかったのです。人権保障規定は全て、1789年以降の時代ごとに修正的に追加された修正条項(主に修正1条から15条)で追加されたのです。アメリカ合衆国が成立した時代では、人権保障は連邦憲法ではなく州憲法の役割だと初めは考えられていたため、この様な事情になりました。
 合州国憲法には第六編に最高法規条項(憲法が国の最高法規であり、その他の法令は憲法に服するという規定)はありますが、日本国憲法にはあって、合衆国憲法にはない規定があります。それは違憲立法審査制です。違憲立法審査制(権)とは、裁判所が、立法府の法律が憲法に反すれば無効にできる制度です。日本国憲法には第81条「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。」という規定があります。これを根拠に日本の裁判所は国会が制定した法律を違憲無効にすることができます。
 現在のアメリカには違憲立法審査制があり、裁判所は違憲の法律を無効にできます。アメリカの場合、①連邦裁判所→連邦法 ②連邦裁判所→州法 ③州裁判所→州法 という三つの次元で違憲立法審査権が行使されます。連邦制を採っているので少し日本よりも複雑です。
 アメリカ合衆国憲法上違憲立法審査権が規定されていないものの、それが裁判所にあるのだと確認・宣言された裁判例がありました。それが、1803年のMarbury vs. Madison判決です。

(2)1803年:Marbury vs. Madison判決と違憲立法審査制の成立

 「Marbury vs. Madison」という表記は、実際の裁判において、マーベリーが原告でマディソンが被告という事です。この事件の被告のマディソンは、『ザ・フェデラリスト』を書いたあのマディソンです。憲法の起草者の一人ですね。首席裁判官はマーシャルという人でした。
 この判決の中で違憲立法審査制ができたのですが、これがちょっと特殊な事件でした。1800年にアメリカ連邦政府史上初めての政権交代が起きて、連邦派のアダムズから共和派のジェファーソンに政権が交代することになりました。そのレームダック期間(政権移行期間)中に、連邦派が自身の影響力を残すために、裁判所の中に連邦派の残党を残そうとして、連邦派に賛同する裁判官の任命と辞令の作成を行ったのです。原告のマーベリーはその辞令で任命されるはずだった裁判官の一人でした。
 ところが、たまたまマーベリーの辞令の書面は大統領の執務室に置き忘れられたまま政権交代の日を迎えてしまいました。その書面を見つけた新大統領共和派のジェファーソンは、それを実際に発布しませんでした。マーベリーは辞令を交付するように共和派のマディソン新国務長官を訴えました。
 また、裁判官はマーシャルという人だったのですが、この人は政権交代前に連邦派で国務長官を務めていた人で、マーベリーの辞令を書いた本人でした。この事件は、ちょっと連邦派と共和派の人物が入り乱れた、政権交代が絡む特殊な事件でした。
 マーシャル裁判官は判決の中で、裁判所に違憲立法審査権があることを確認した上で、裁判官の辞令を強制的に政府に交付させる根拠法となる裁判所法を違憲無効と判事しました。この判断がこの事件の関係者に対してどういう効果をもたらすかというと、①マーシャル自身の連邦派に対しては、違憲立法審査制の成立をアピールして連邦裁判所の権限が拡大できる事で納得させられます。また、②共和派に対しては、共和派が反対している辞令の交付も、根拠法を違憲にして発布しない結論となります。マーシャルは絶妙な落としどころに判決を出し、二大政党双方を納得させてうまくこの裁判をまとめてしまいました。
 この様な少し特殊な経緯で違憲立法審査制がアメリカで成立しました。重要なのは、裁判例の中でそのルールができたことです。そもそもコモンロー社会では市民が裁判の中で法律を作れるので、裁判の中で違憲立法審査制ができてもあまり誰も反対しなかったし、不思議に思わなかったのですね。
 違憲立法審査制が成立したアメリカでは、これ以降、連邦の州に対する規制権限が拡大しました。特に合衆国憲法第1編8節3項州際通商条項、必要かつ適切条項(同18項)、修正14条デュープロセス条項の解釈を媒介としてそれが進みます。

(3)1860年代:南北戦争期~黒人の人権と法の下の平等~

 違憲立法審査権を獲得した連邦最高裁はそれをダイナミックに使って行きます。1857年Dred Scott Caseでは、自由州に居住した黒人奴隷は州籍相違事件(州を跨いだ裁判のことです。アメリカは州ごとに法律や裁判所の管轄が違うため問題になります)を連邦裁判所に提起できるかという事が問われ、黒人奴隷は合衆国市民ではないことを理由に、州籍相違事件を連邦裁判所に訴えられないと判事しました。この事件がMarbury vs. Madison以降では初めての違憲審査権の行使でした。そしてこの判決の傍論で連邦最高裁は失敗を犯しました。判決の傍論で、南北の和解協定であったミズーリ互譲法を違憲と判事したのです。南北の対立の歯止めとなっていた重大な政治的妥結を裁判所が無効化してしまい、アメリカ国内は南北戦争に突入してしまいます。
 奴隷制が争点となったアメリカ合衆国とアメリカ連合国の南北戦争(1861~1865年)では、リンカーン率いる北のアメリカ合衆国が勝ちました。南北戦争終結後憲法修正が行われ、1865年修正13条で奴隷制の廃止が定められ、1868年修正14条でデュープロセス条項と法の下の平等が、1870年修正15条では黒人の選挙権が追加されました。
 それから30ほど後の1896年Plessy v. Fergusonでは、ルイジアナ州法による人種別の列車編成は修正14条平等保護条項違反かという事が問われ、列車編成は分離していても輸送サービスは平等(分離すれども平等)という事を理由に修正14条に違反しないとされました。
 法の下の平等とは、「同じカテゴリーのものは同じものとして扱う」ということです。南北戦争以前の1857年Dred Scott Caseでは、そもそも黒人奴隷は合衆国市民というカテゴリーの外にいる人達であるので州籍相違訴訟を起こす権利がないと裁判所は言いました。合衆国市民と黒人奴隷は法的に同じカテゴリーの中にいないと考えられたのです。南北戦争で奴隷制が廃止された後の1896年Plessy v. Fergusonでは、もちろん黒人も合衆国市民というカテゴリーには入るという点では同質だけれども、そのカテゴリーの内側で更に人種を別にしたカテゴリーに分けて列車を編成しても、サービス内容が同程度なら違憲ではないとされました。合衆国市民というカテゴリーの外か内かでまず差別され、合衆国市民というカテゴリーの内側に入っても色んな理屈で正当化されて肌の色のカテゴリーで差別された訳です。黒人に対する外形的形式的な差別は1954年Brown v. Board of Educationで、人種別の公立学校制度は違憲と判事され、人種別の分離はどんなものでも不平等という事が確認されるまで残りました。

(4)1890~1920年代:自由放任対革新主義の時代(ロックナー時代)

 この時代の連邦最高裁は契約自由の原則 vs 労働者保護立法 という対立軸で揺れました。1905年 Lochner v. New Yorkでは、製パン業労働者の労働時間の上限を決めるニューヨーク州法を5対4で違憲と判事しました。続く1908年 Muller v. Oregonでは、洗濯業に従事する女性労働者の労働時間の上限を決めるオレゴン州法を合憲と判事しました。そして1923年Adkins v. Children’s Hospitalでは、コロンビア特別区内で働く女性労働者について最低賃金を定めた連邦法を違憲と判事しました。
 これらの判決が何を意味するかというと、州および連邦の立法府による、市民の契約自由の原則の制限を、連邦最高裁が修正14条でブロックし、市民の自由を守ったという事になります。つまり、市民が最低賃金以下で労使契約をする自由を裁判所が護ったということです(これはアメリカでは重要な市民の自由です)。

(5)1930年代:ニューディール期~連邦の規制権限の拡大~

 1929年からアメリカでは大恐慌が始まりましたが、その時代、連邦議会は農業調整法(AAA)・全国産業復興法(NIRA)などの経済社会政策立法を成立させて、経済を巻き戻そうとしました。しかし連邦裁判所はそれらの法律に対して違憲判決を多数出し、連邦裁判所と連邦議会の対立が深まりました。連邦議会が経済を立て直す努力をしても、裁判所が違憲立法審査権を使って帳消しにしてしまうのです。これに対して民主党ルーズベルト大統領はコート・パッキング・プランという裁判所封じ込め政策を発動し、裁判所の違憲立法審査権の発動を政治的に制限しようとしました。
 これに対しては裁判所側が譲歩し、1937年に裁判所の憲法革命と言われる事態が起こります。1937年、West Coast Hotel Co. v. Parrishで女性労働者の最低賃金を定めた州法を合憲と判事し、同年のNLRB v. Jones &Laughlin Steel Corpで労使関係を定めた連邦法を合憲と判事しました。立法府には法律を作って市民の経済社会活動をコントロールする(ということは、市民の自由を制限するという事です)法的裁量がある事を認めました。これ以降、裁判所は少数派の人権保護や民主主義のプロセスの保護へと舵を切りました。裁判官は経済政策の専門家ではないことと、逆に人権保障関係は法的判断に馴染むことが理由であったと言われています。

(6)1953~1969年:Warren Court~リベラルな連邦最高裁~

 第二次世界大戦後、ロシアと並んでアメリカは超大国となり、冷戦構造の中で共産主義陣営との間で、大規模ではないが継続的な戦争を続ける時代が続きました。継続する戦争の中で社会正義を巡る対立が国内で深まりました。特に1965~1975年のベトナム戦争ではアメリカ国内は社会的に非常に動揺しました。
 この時代のアメリカを司法の面から支えた強力な裁判官がいました。共和党アイゼンハワー大統領から最高裁長官に任命されたアール・ウォーレン(Earl Warren)という人物です。彼は連邦最高裁において、人権規定に反する連邦法・州立法に対して違憲立法審査権を最も積極的に行使した裁判官となりました。

・1954年Brown v. Board of Education(人種別の公立学校制度は違憲:分離は不平等)
・1961年Mapp v. Ohio(違法収集証拠排除法則)
・1963年Gideon v. Wainwright(弁護人による弁護を受ける権利)
・1965年Griswold v. Connecticut(避妊具の使用を禁止する州法を違憲と判事)
・1966年Miranda v. Arizona(被疑者取り調べの弁護人立ち合い権)
・1967年Loving v. Virginia(異人種間の婚姻禁止法を違憲と判事)

などが、ウォーレンが関わった判決です。ウォーレン・コートは連邦最高裁史上最もリベラルな時代でした。これは、州に対する連邦の権限が拡大し、また、立法部に対する司法権が拡大したことを意味します。ウォーレンは市民の基礎的な権利を認めて行きました。
 なお、次のBurgar CourtでRoe v. Wade(1974)という、プライバシー権を根拠に女性の妊娠中絶の権利を認めた判決が出ました。この判決は今でもアメリカ国内では論争の的になっています。
 以上、これまでに紹介したアメリカ法と連邦最高裁の歴史を振り返って評価できるのは、民主主義とコモンローの判例法主義が組み合わされた社会では、議会の立法と市民の司法参加による二つの社会規範定立エンジンがあるということになります。というのも、判例法は議会立法と同様に、第一次的な法源だからです。

(7)1980年代~現在:原意主義(Originalism)~保守の側からの反動~

 原意主義はこれまで概観して来たような強い裁判所、特にウォーレン・コートに対する反動で出てきました。原意主義は公式には、ロバート・ボーク(Robert Bork)というレーガン政権の司法長官が提唱し始めたものでした。原意主義の事を英語ではOriginalism、「原意」の事をOriginal Intentと言います。原意主義者は合衆国憲法の起草者達の日記や手紙を読んで制憲者意思(=原意)を特定し、21世紀現在の憲法解釈をします。連邦最高裁のリベラルな歴史とは完全に逆行します。
 民主主義の意思決定は民意が中心ですが、原意は民意ではありません。原意は民意ではないのに原意主義が正当化されるのは、憲法解釈をfixするためです。憲法解釈をfixすればウォーレン・コートのような強い裁判所の出現を封じられます。裁判官は人民の代表ではなく、振れ幅の大きい司法権を統制する事は統治構造上の政治課題でした(アメリカの裁判所は、ミズーリ互譲法すら違憲にしてしまう裁判所なのです)。原意主義で憲法解釈をfixすれば、予測不可能な国家活動を防止することができます。
 原意主義の内容として主に4つの物があります。①正文主義②制憲者面前主義③制憲者現存主義④裁判官媒介主義 です。①正文主義は憲法の条文を読んで、文法と言葉のそのままの意味に解釈します。②制憲者面前主義とは、裁判所に現在係属している事件を制憲者達が当時の常識でどう判断するかという判断基準です。現在の事件を可能な範囲で切り取って、制憲者達の当時へ持って行き、判断してもらいます。③制憲者現存主義とは、制憲者達が現在生きていたら、現在裁判所に係属している事件を彼等の頭と現在の社会的常識も踏まえてどう判断するかという判断基準です。④裁判官媒介主義とは、制憲者達が憲法上の原理として実際に定立した諸原理を確認し、それらに基づいて面前の事件を裁定することを裁判官に求めるという判断基準です。
 原意主義には「制憲者」のカテゴリーの問題があります。「制憲者」とは誰なのかということです。憲法起草者はもちろん含まれます。ワシントンやフランクリンやマディソンなどの実際の人達です。しかし、憲法制定会議自体を起草者と見ることもできます。また、憲法の承認者は制憲者なのでしょうか。承認者とは、憲法批准をした当時の各州の議会のメンバーになると思います。しかし彼等も「制憲者」のカテゴリーに含むとしたら、原意の確定は途方も無く困難になるのではないでしょうか。また、憲法原典と修正条項では制憲者が違うので、「制憲者」が誰なのかは別個に確認せねばなりません。一口に制憲者は誰とは言えないということになりますし、原意主義を採っても原意が一義的に定まらない場合があるという事になります。
 これに対して憲法学者のリチャード・ケイ(Richard S. Kay)は、オリジナル憲法典については批准者および各州の憲法会議、修正条項については起草者および連邦議会と批准州の人民が、それぞれ制憲者であるとしました。そして会議体の意見は、その中の多数派の意見が原意であるとしました。この様な議論は非常に入り組んでおり、どこまでも場合分けできそうです。
 代表的原意主義者を紹介すると、ロバート・ボーク、リチャード・ケイ、アール・マルツ、アントニン・スカリア達です。この内、アントニン・スカリア(Antonin Scalia)という連邦最高裁判事(故人)が重要で、スカリアは数々の判決に関わる中で、原意主義の立場から論理的にユニーク且つ破綻のない判決文を書き続けました。原意主義を研究するならこのスカリアを研究することをお勧めします。
 原意主義者が攻撃する判例が先ほど紹介したRoe v. Wade(1974)です。これは女性の妊娠中絶をする権利を、身体に対するプライバシー権を根拠に認めたものです。プライバシー権自体は合衆国憲法の原典にも修正条項にも規定されていませんが、連邦最高裁は、修正1条~15条の人権条項をすべてひっくるめると、その中にプライバシー権が浮かび上がってくるのだ、というような言い方でそれを認めました(半影理論:Penumbra Theoryといいます)。これが保守派から激しく批判され、現在でもそれは続いています。というのも、上記の様な言い方で憲法上に明文化されていない権利を新しく認めると、およそどんな権利だって作ることができてしまうからです。それは憲法を人民が改正する手続きなしに裁判所が勝手に憲法改正した様なもので、民主的正統性と法の支配の観点から問題があります。原意主義のロジックでは、憲法改正の手続きを踏んでプライバシー権を憲法上明記してこそ民主的なのです。これは論理的で説得力があります。
 女性の妊娠中絶の権利は、アメリカでは判例法の中で生まれましたので、原意主義者の裁判官が多数となった現在の連邦最高裁では、判例変更によりその権利が無くなる可能性があります。しかしアメリカの場合は、具体的な法的事件が市民から提起されないと違憲審査ができないことになっているので、その時がいつ来るかは分かりません。また、原意主義も現在では色々なパターンやグラデーションがあるようで、どの権利を認めるか認めないかは、判事によって違いがあるようです。

5.原意主義の精神文化的側面?

 原意主義は政治的保守派(州の権限を尊重)やキリスト教保守派が支持する傾向にあります。キリスト教保守派は理論的には原意主義とは無関係ですが、政治的な結論が被るため、乗っかって行っています。エイミー・バレットはキリスト教の宗教右翼です。
 原意主義には、死者による現在への支配の理論的根拠の問題が付きまといます。これは哲学的には作りにくいと思います。原意主義は、死者の記憶を原意として現在に取り出し、法律的に加工して憲法解釈を行います。合憲か違憲かで社会が割れるような事件は重大な事件が多く、その法判断の基準が200年以上前の制憲者達の意見だとすると、現在のアメリカの社会を死者達の記憶の中に閉じ込めることになるのではないでしょうか。200年以上前の価値観では現在の社会において妥当な法判断にはなりません。原意主義は非常に妄想的でバーチャルなものだと思います。
 合州国の探求という精神文化があるアメリカでは、原意主義は一種の社会的な認知行動療法として作用しているのかもしれないと私は思います。合衆国市民一人一人が建国の父達に思いを巡らせて、建国の父達が後世に何を託したかやアメリカの国家の理念の確認をし、国家の最高規範である合州国憲法の解釈を争点に原意主義の様な合意形成の仕方をすることそのものが、アメリカの社会を心理的に統合していくのかなと感じます(統合と言っても、アメリカの場合は州権によって分裂した社会ほど理想でありオリジナルな訳ですが)。トランプ大統領がエイミー・バレットを指名した時、反対派も多かったですが賛成派も多く、その人達は、憲法を制憲者達の意思通りあるいは条文の文字通りに解釈してくれるエイミー・バレットなら、合衆国市民の自由を守ってくれると感じた訳です。アメリカ合衆国の建国によってできた国家の母型の様な物は、日本人の我々が想像できないくらい重要な理念的影響をアメリカ人の心性に与えているのかもしれません(裏を返せば、日本の国家の母型や理念とは何でしょうか。日本で原意主義は可能でしょうか)。

6.非原意主義と法思想の時間軸

 アメリカ憲法解釈学の中の非原意主義で主流なのは、「生ける憲法論(Living Constitution Theory)」です。憲法をコモンロー(判例法)のように市民が変化と蓄積をもって作って行けるものだとします。2020年に亡くなったリベラル派の連邦最高裁判事であるギンズバーグが採用していました。
またこれはアメリカの話ではありませんが、ウィトゲンシュタインの研究者の野矢茂樹さんが根元的規約主義という立場を提唱しており、法哲学者の大屋雄裕さんがそれを法解釈学へ援用して『法解釈の言語哲学~クリプキから根元的規約主義へ~』(勁草書房、2006)という本にまとめました。
 根元的規約主義は根本規範に従うという事ではなく、全ての規範は今ココで自分達が直接的に採用した物であるとする考え方です。社会契約について援用すると、私達は常に今ココで社会契約を締結しているのだというロジックになるかと思います。原意主義は過去の社会契約締結の時の一時点に縛られますが、根元的規約主義は全く過去に縛られません。現在時点の一点だけが問題になります。また、コモンローは過去から現在へと時間的に切れ目なく蓄積して変化もして行く、通史的でクロノロジカルな法律です。この三つは時間軸を巡って好対照だと思います。
 生ける憲法論の側から対抗的に批判され続けながら原意主義理論は発展し、現在では様々なパターンを持ち、入り組んだ議論になっているようです。本稿でこれまで私が紹介した原意主義は古典的原意主義(old originalism)と呼ばれるものです。これまでに、「新原意主義(new originalism)」、「新・新原意主義 (new new originalism)」、「枠組みとしての原意主義(framework originalism)」、「摩天楼型原意主義(skyscraper originalism)」、などが出てきている様です。
 余談ですが、ギンズバーグと9で紹介したスカリアは非常に仲が良かったことで知られています。スカリアは最強なる原意主義者で、ギンズバーグは最強のリベラリストです。スカリアは2016年に亡くなりましたが、ギンズバーグは彼の死を悼み、彼とインドに研修旅行に行った時に一緒に像に乗って楽しんだり、一緒にオペラに出演したときの回想を『My Own Words 』という本の中に書いていました。そして2020年にギンズバーグが亡くなって空いたポストにトランプ大統領から指名されたのがエイミー・バレットでした。そして実はエイミー・バレットは、スカリアの法律助手(Law Clark)を務めていた人物でした。

7.参考文献

(1)書籍

英米法判例百選第三版(有斐閣、1996)
アメリカ法判例百選(有斐閣、2012)
望月礼次郎『英米法』(青林書院、2001)
田中英夫『英米法総論(上)(下)』(東京大学出版会、1980)
樋口範雄『はじめてのアメリカ法(補訂版)』(有斐閣、2013)
マディソン『ザ・フェデラリスト』(岩波文庫、2008)
大河内美紀『憲法解釈方法論の再構成―合衆国における原意主義論争を素材として』(日本評論社、2010)
大屋雄裕『法解釈の言語哲学~クリプキから根元的規約主義へ~』(勁草書房、2006)
戒能通弘『近代英米法思想の展開』(ミネルヴァ書房、2013)
戒能通弘編『法の支配のヒストリー』(ナカニシヤ出版、2018)
中山竜一ほか『法思想史』(有斐閣アルマ、2019)
Lawrence M. Friedman, American Law In The Twentieth Century (2002)
Morrison, Fundamentals of American Law, (1996)
Ruth Bader Ginsberg, My Own Words (2016)
田中英夫『BASIC英米法辞典』(東京大学出版会、1993) 212項~245項に合衆国憲法の日英対訳が載っています
田中英夫『ハーヴァード・ロースクール』(日評選書、1982)

(2)論文

小川直斗「違憲審査の民主的正当性と原意主義」(九州大学法政学会、2019)

8.追記~生成AIと原意主義~

 2023年からChatGPT・生成AIというのが話題になっていますが、原意主義と生成AIは相性がいいのではないかと思います。制憲者の残したテキストや制憲者に関連するテキスト、制憲者が当時勉強のために読んでいた本などを特定し、生成AIに学習させれば、制憲者の意思をある程度以上の精度で言葉にできる生成AIは作れると思います。上記で検討した制憲者面前主義と制憲者現存主義については生成AIが担当するのはいいかもしれません。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?