学部生なりに考える憲法を学ぶ意義

ベッドの上にあぐらをかいて頬杖をついている自分が携帯に反射したとき、デブのダックスフンドみたいだった。ことはさておき、学部生なりに「憲法」を学ぶ意義について考えてみようと思う。

まず憲法の実質的最高法規性を根拠づける「自由の基礎法」という点、これが現代の当たり前を当たり前たらしめる重要な役割を果たしている。憲法を学ぶことで、その当たり前の祖を発見できる。固有性のある人権も今となっては特に若者(筆者含む)に根ざしているから、わざわざ憲法を参照してその有り難さを知る機会なんていうのも少ないはず。実際、筆者も大学に入って法律を学ぶまでは、あえて人権の根拠を探ろうなど考えるまでもなく当然に自由を享受していたのであって、実際にそれが(特に若者(筆者含m)にとって)普通になった時代なのだと思う。

また、憲法についての記述は多少なりとも勉強した上でもなお敷居が高いと感じる。それは膨大な歴史を背景とし根本法に君臨した「憲法」そのものへの萎縮だったりが関係しているのだろうか。他にも憲法は政治の道具として使われることも少なくないため、そのワードを耳にしただけでどこか関わりがたいと思ってしまう人もいるに違いない。筆者も子供のころ通学路に「憲法9条改正」と貼り紙をしている場所があって、幼いながら「なにか危なそうだ」と思ってしまっていたことがある。無論、今では政治信条の1つと認識できるし「危ない」なんて思うことはない。ここには書かないが、強い言葉が添えられていたのも、そう思わされた一因である。

しかし、憲法に対する敷居を上げすぎる必要は全くない。立憲主義は人類がようやく辿り着いた崇高な理念なのであって、それを忌避する理由なんて存在しえないと筆者は思う。それ自体を避けてるつもりはなくても、部分的な政治色に押されて立憲主義を見逃してしまっているのなら、それは非常に勿体ないことではないか。つまり、憲法を学ぶことで憲法に対する色眼鏡を外すことができる。政治とは切り離されるべき根幹の理念こそが本当に重要なものである。

だが結局、憲法と政治が切り離されないことは言うまでもない。昨今では「緊急事態条項」を憲法に盛り込むという政策の話題が活発になっているが、これについて考えるためには先程までに述べたような立憲主義への理解が必要不可欠である。緊急時に内閣が立法権を行使するのは、日本国憲法が定めた国会による立法権の独占を逸脱したものであり、結局のところ緊急事態であることを根拠に立憲主義を一時的に排斥するものといえる。かつて明治憲法にも同様の趣旨が規定されていたが、同様の規定が他国で独裁を招いたという歴史的反省に基づいて日本国憲法で意図的に緊急事態条項が排除されたと見るならば、「歴史は繰り返す」という不穏なワードが頭をよぎる。そして憲法改正を要する問題というのは、大きくて話題になりやすい。なのでそういった問題が活発化した時に、憲法を学んでいると歴史や理念を踏まえた多角的な考え方ができるようになる。これは筆者も目標としているところであり、条文を暗記するのは二の次三の次で、やはり源流にある思想や歴史の存在はとりわけ憲法において顕著なので、憲法問題を考えるに際してはそれらを前提とした多角的な思考ができるようになりたい(願望)。

偉そうに語ってみたものの、筆者はまだ学部生の端くれの端くれであって、上に掲げた意義を熟知しているなんて到底言えない。これは一種、学習目標の設定として自己満足的に記述したにすぎず、温かい目で読んでほしかった文章である。

しかし「憲法について語る=恥ずかしい」みたいな風潮は絶対に無くしたい。そうしていつか、さらに堂々と憲法について正しく語れる法曹になりたい。

最後まで読んでいただき本当にありがとうございました。


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