【昔は獣害なんてなかった?3】
【昭和初期にみる様相の違い】
よくある誤解ですが、
昔は獣害なんてなかったから、
今は増えすぎだ、
獣害のなかった頃ぐらいまで、
数を減らそう、
…この場合の「昔」は、
歴史的にみて、
とても限定的な「昔」です。
じつこれは明治以降の、
わずか
100年ちょっとの間だけのコトです。
農業が始まって以降の、
二千年ほどの時間、
そう、江戸時代までは、
獣害はあたり前にあり、
野生動物と闘い続け、関わり続けてきました。
しかし、いつ頃から
「獣害がなかった頃」になったのでしょうか?
そのことを垣間見る資料が、
今回の、
「日本山林史 保護林篇 上(1934)」にある
この項目、「猪鹿除林」。
奥付を見ると昭和9年です。
このページ、
「猪鹿除林」の項目では、
二つのタイプの「猪鹿除林」が紹介されています。
(要約を読むとわかりやすい)
まず一つめ(赤線付けました)の、
猪鹿除林は、
いわゆる、木製の防護柵です。
立木を支柱として、
伐った林木を使って障壁を設け、
直接、侵入を防ぐモノです。
これは、先に紹介した、
成形図説でもさし絵がありましたね。
もう一つのタイプ(青線)の猪鹿除林は、
とても興味深い記述です。
クリやカシの木を育てて、
人による、その実の採取は禁止して、
シカやイノシシの食餌とし、
こちらの林に誘導して、
耕地に出て来ないようにした、
というモノです。
前者の防護柵タイプ猪鹿除林は、一般に古くより行われ、
後者の給餌木タイプ猪鹿除林は、近代あるいは一部地域で行われた、
ともあります。
これを読んで感じるのは、
現代人の考えることは、たかがしれたものだ、というコト。
前者(赤線)タイプは、
吉野林業全書で出てきた木柵のような防護柵、
あるいは、
生きた樹木も立て木として取り込んだ生垣のような、イギリスの「ヘッジ」のようなもの。
物理的に侵入を遮断する侵入防止柵。
後者(青線)タイプは、
現代でもよく聞かれるもの、
背面の奥山の実りを豊かにして、人里、田畑への侵入頻度を緩和させようとするもの。
現代人のワタシたちが考えることなどは、
先人たちはとっくに取り組んで、
実践を繰り返してきている。
(割合を見ても、前者タイプがほとんどで、後者タイプは、ほんの一例であることから類推すると、後者タイプの効果は芳しくないものと考えられる。)
「本気」で被害を防ぐこと、に取り組んできた、先人から見ると、
まだまだ甘く、先人の真似事を上っ面でやっているに過ぎない。
彼らに追いつき、超える思考をするには、
もっともっと、
野生動物と「本気で」向き合う
必要があるのだと考えさせられます。
そう考えて
再び
吉野林業全書の「獸害豫防」を読み返すと、
ますます
「本気」で、
野生動物と向き合い、
防除を研ぎ澄まし、
闘い続けるコトが必要なのだ、
それこそが持続可能な方法なのだ、
と改めてワタシは考えます。
さて、
要約の最後に、今回のお題のヒントがあります(緑線)。
「明治維新後狩猟の発達に伴い、野獣漸次減少すると共に、本林もその意義を失い、現今にては殆ど其の存在すら聞かざるに至れり」
昭和9年の段階で、
すでに、その意義を失うほど、
野生動物は減っていた、というコトのようです。
吉野林業全書が出てから、
30年余りで、
「獸害は何れの地も之なきはなし」
から
「その意義を失い、現今にては殆ど其の存在すら聞かざるに至れり」
に至った、
その要因はなんだったのか、
はまたの機会に。
以下はいつもよりも噛みしめながら、、、
しかしながら、現代は、
野生動物との闘いをしなくていい道、
なにもしなくても被害が出ないレベルにまで殲滅する道
を選ぼうとしているように思えてなりません。
だから、
防除についてはまるで本気の取り組みをせず、
しかも捕獲については、誰かがやってくれればよいと他人ごと。そのくせ、居なくなるまで獲ってほしいと。
かもしかの会関西は、
失われた防除の技術と意識、を取り戻し、
現代にあった資材、方法で
新しくつくっていくコトを実践してゆきたいと考えています。
参考:
遠藤 安太郎(1934)
日本山林史 保護林編 上 日本山林史刊行会