シェイクスピアの猿か、それともキリギリスか
根性や意思、志の違い。
月並みな言葉だが、それにつきる。
書くということに向き合う時間の少なさが、今の書けなさにつながっている。ただ書くことならできる。ただ息をすることのように。しかし、それはお呼びでない。
文章を書き続ければいいわけじゃない。タイプライターを打ち続ければ、サルはいつかシェイクスピアを書くかもしれない。そんな思考実験のモルモットになりに来たわけじゃない。
たとえ保障のあることではなくても。確かな道を進みたいものだ。
道を進みたいとはなんなのか。用意されたレールの上を通りたい。そんな甘い目論見のつもりで言っているわけではない。そりゃ、通りたい道の先が整備されているのなら、そこを通ることもする。
しかし、必要とあれば獣道だっていくし、斧で切り開く所存だ。
所存だ、といったところで、それを証明する手段もなければ、その気もない。やろうと思えば一日でできるはずのことができてないのだから。いつだって理論上は可能のなかでの未達の現実。だからこそ、思考実験の猿の途中。
タイプライターを壊すことも、打つことをやめることも正解ではない。しかし、いつかはシェイクスピアが書けるはずをゴールにしてはいけない。
それくらいはわかっている。わかっているだけだが。
こうすればいい、ああすればいい、いつかそれをすればいい。
誰が言ったかもビックデータの思考実験。そのなかの大量の被験体のうちの1匹が僕だ。部屋中に充満したモルヒネが脳内を満たして、ただひたすらに押すことを促す。その状態でうまくいったとしても、どっかの職員が快楽物質の量を増やすだけだ。
そんな猿ではなく、人になりたい。
むかしからある童話、アリとキリギリス。
働き者のアリは、いつか冬がくるから、と、食べ物の多い春に毎日働いて巣に食べ物を貯めこんだ。キリギリスは楽器を片手に歌うばかり。そして、夏になり、秋になり、とうとう冬になった。
アリは食べ物がたくさんある巣の中で楽しく談笑し、キリギリスは冬の荒れ地で飢えに苦しんだ。
キリギリスを哀れんだアリは、彼を巣の中に招待した。
そのことを感謝したキリギリスは冬の巣の中で、音楽を提供した。
一見、アリの勤勉さを賛歌するようなストーリーだ。
しかし、キリギリスがキリギリスのまま冬を越せたのは、彼が楽器を捨てなかったことにある。
春が終わり、夏が終わり、長い秋がはじまって食べ物が少なくなっていっても、彼は楽器を手放さなかった。だからこそ、巣の中での冬を過ごせた。
なんてカッコつけて言ってみたけども、現実、キリギリスみたいになれやしないじゃないか。みんながアリになっている。もうすぐ冬が来るという。
その時に、あえて楽器を手放さずに入れた者。そいつこそがキリギリスを自称するにふさわしい。
まさか、自分がそうだとでも。
だとしたら、演奏の一つでもしてみるといい。
ほら、してみるといい。
それみたことか、できないじゃないか。
俺はシェイクスピアの猿か、それともキリギリスか?
いや、それですらない。
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