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Twitterのトレンドによって省略される説明責任

最近、noteの執筆を定期的に行っている。

理由は、先日起きたTwitterの大規模な不具合。

7月3日、Twitterが見れなくなるというバグが発生した。
このバグは数週間に及んだ。それに対し、Twitterの運営であるイーロンマスクは、「中毒者はtwitterから離れた時間を家族や友人たちと過ごす時間にあてなさい」という趣旨の発言をツィート。ユーザーから反感を買った。

これにより、多数の人々がtwitterから別のSNSへの移住を検討する。メタ社のthreads、個人が有志の支援を受けて運営されているmisskeyが現在では有力とされている。

しかし、ネットニュースや有識者の発言とは裏腹に、実際の数値では大きな大移動は起きておらず。threadsやmisskeyをやりながらtwitterをやっているユーザーが増えたのが現状である。

しかし、今、当たり前に使っているSNSがある日なくなってしまうかもしれない、という不安はぬぐえない。こうして、私も別の場所でコンテンツをつくることで自身の存在をアピールしていきたいと考えていた。

ただ、Twitterと比べると、noteの執筆は面倒だ。
なにが面倒かと言えば。何かについて意見や感想を述べるための説明責任というのが必要なってくることだ。

twitterは140字のつぶやきを介して交流するSNSだ。
たとえば、イーロンマスクの発言に対して、私が怒りを感じ、「イーロンマスクを許せない」といった趣旨の発言をしたとする。その場合、noteでは、イーロンマスクがどこで、いつ、どんな発言をしたのか、という前置きが必要となる。
Twitterの場合は違う。私のツィートで、他のユーザーが私のイーロンマスクに対する怒りを知った時。彼らはイーロンマスクについての別の人のツィートを確認する。
こうして、いろんな人々の個々の140字の短いつぶやきの流れを眺めながら、全体の情報をつかんで、私の発言を理解してくれる。
これがかなり楽なんだ。

ゼルダのティアキンのプレイ動画のショートが一時期はやっていた。
あれも、ティアキンがどういうゲームか、ということが、ユーザーたちのつぶやきで、なんとなくわかる状態だからこそ、何の説明もなしに挙げられた動画に面白さを見つけることができる状態なのだ。

noteを書きはじめて、今更ながらTwitterの集合知的な面白さを再発見した。
これからも、Twitterではトラブルが起きるかもしれないが、私は利用を続けていくのだろう。


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