小説家になりたい時が一番小説が書けない
小説家になりたい、と思う時が多々ある。
書くことが、趣味や日常の選択肢にあったひとであれば、誰しもが思うことだ。
俺が仮面ライダーをつくるとしたら、どんなライダーにするだろう。推しカプはふだんどんな会話をするだろう。死んだはずのあのキャラが今も生きてたら。敵キャラのアイツを俺なら主人公にして書くのに。5人組のあの子たちのなかに男性キャラがいたとしたら。
そんなことを考えて、休日前の宵の潰しに、ダラダラと思いつくことを書いてみることはよくやることだ。
書くことというのは紙が簡単に手に入る現代においては、安価な趣味になりうる。それだけで時間が潰せるというのは、歳をとると価値あるものだったと今にして思う。
ただ、最近においてはどうもそういうことができない。空想の翼がいつのまにか消え失せて地面に叩きつけられる。飛ぶことが当たり前の鳥は自分の身に何が起きたのかさえわからない。
書き連ねていくことが当たり前だったはずなのに、その当たり前がすこしの"もしや"が頭をもたげた瞬間に崩れてしまう。
小説家になることができれば。
自分が思いついたままに書いている今の状態をほんの少しコントロールして。流行りの異世界転生ものなり、スカッとジャパン系なり、デスゲームなりを書上げ。それが書籍化されて上手いこと毎年幾分かのお金が入って来ないだろうか。
そう考え、ノートを広げてみると。
今まで書けてたものがとたんに書けなくなる。
創作論を読み込んだり、映画を見たりしても何も思いつかない。なんとか、書いてみても、どうもむかしのような楽しい気持ちにならない。
気づいたら夕方になっていて、その代償に自分の読みたいものが詰まった短編ができている、みたいなことがなくなるのだ。
アイデアをコントロールする、というのはとても難しいものだ。
思いつき、というのは再現性に乏しい。
映画を見たり、文学を読んでいると思いつくこともあれば。アニメを見たり、ゲーム実況を見ているときに思いつくことがある。
しかも小説を書いてやろう、と思ってもいないときに見ているときに、思いつくのだ。
傑作を書くために勉強しようと思って読んだり、見たりすると思いつかない。そういう時の読書は文章に意識が向きすぎたり、映像に集中しすぎる。
アイデアは、読む合間、観る合間の思考の寄り道で思いつく。これをコントロールするのが難しい。
だからこそ、休日に小説家になるぞ、と考えて机に向かったりする日は、一番、小説家から遠のく日になっている。そう思う時がある。
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