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8月21日のお話

これは私たちが暮らす世界とは少し違う世界のお話です。風景や生き物、人間と呼ばれる種族がいることなど、その世界は私たちの世界ととてもよく似ていますが、彼らは何度かの突然変異と文明の入れ替えを経た長い歴史を持っています。

今は一部の人が魔法を使い、多くの人が科学技術を使う時代。人間の居住区にだけ都会の街並みと自然が共存し、その他の大地は荒れ果てている。そんな世界のお話です。

4205年8月21日

本業の側ら、不登光症候群の治療を行っていたヒイズとカリノの活動も、3年が過ぎる頃にはすっかり日常として定着し、去年までの「緊急事態を毎日生きているような緊張感」から解き放たれる人々もちらほらと出始めていました。

「ニュー・スタンダードっていうやつね」

久しぶりに出向いた事務所に、大量の絵画と花束の不在届が溜まっているのをぞんざいな手つきでかき集めると、カリノは大きなため息をつきました。

受け取り期間が過ぎているものもいくつかありそうですが、このまま連絡しないのも、宅配業者のブラックリストに載りそうで憚られました。そう思って連絡をしてみると、空気を読まない親切な宅配業者は、保管期限後もちゃんと置いていますよと言います。「冷蔵にしておきましたから、花もまだちゃんと大丈夫です」と、どうでも良いことを押し付けがましくいうので、カリノは面倒になって、もう全て持ってきてください。今日はいますので、と言って早々に通話を切りました。

「何、前に言っていた、子爵の息子さん?」

カリノの握り締めた伝票と通話の内容を聞いていたのでしょう。一緒に事務所に上がり込んでいたヒイズがカリノの悩みの種を当てました。少し前から、彼女はヒイズに、顧客先の息子に妙に好かれて困っているという話をたまに漏らしていたのです。ヒイズは同行したことのない顧客でしたが(つまり、仕立ての要望もコトダマ派の魔法使いの仕事も必要ない顧客です)、ヒイズからしてみるとカリノのような女性に執着するとは理解できない、そう一蹴できるような存在でした。

「なんかね、絵画はまぁいいんだけどね。好きだし。でも生の花束ってね、家にいない私にはもったいないのよ。誰にも見られずにただ朽ち果てるだけより、誰かに毎日愛でられるところに飾られたいでしょ。」

次の訪問の打ち合わせの準備をしながら、カリノはヒイズにいうともなく、ぶつぶつと不満そうに言っています。

「絵画は良いのか」

「良いの。売れるから。」

ヒイズは、瞬時に返ってきた彼女の反応を受けて、”良い”の解釈が違ったな、と聞いた自分に呆れました。カリノはそういう人間だ。

そうこうしているうちに、文字通り大量の花束と絵画が届きました。あんなに悪態をつきながらも、もらった花を眺めるうっとりとしたようなカリノの表情を見ると、やはり彼女は植物が好きなんだということを改めて感じます。彼女の好きな、植物と絵画。そういう好みを完璧に押さえて贈りものをする子爵の息子は、本当にカリノのことを気にかけているのです。

「打ち合わせ、リモートでも良いよ。片付け大変そうだし。」急に花粉臭くなったこの部屋を出たくなり、ヒイズがそんな理由をつけて席をたった時、カリノの事務所に、再び来訪者を告げるベルがなりました。

「え。誰だろう。あ、待ってて。」

不思議そうに出迎えにいったカリノが、しばらく時間を置いて一緒に戻ってきたのは、この部屋いっぱいの荷物の贈り主でした。

「ジョニーさん。あ、こちらはパートナーのヒイズ。」

能面のような感情のない表情で、カリノは二人のことを雑に紹介しました。この様子の時のカリノは、怒りの沸点を振り切り過ぎた時です。ジョニーが現れたことよりも、そのカリノの様子を見て「まずいな」っと思ったヒイズは、この後の二人のやりとりが気になりつつも、席を外そうと腰を浮かしました。

「あ、ヒイズ、そのまま。」

感情の込められていない言葉で制止され、ヒイズはビクリと中腰のまま固まります。

「子爵様の御子息をお迎えするようなお茶とお茶菓子がないから、買ってくる。私。だから、その間、よろしく。」

「え?」

「え?」

カリノの言葉に、二人の男性が同時に声をあげました。しかし、言い終わるが早いか、カリノはすごい勢いで事務所を出ていきます。

バタンっ

という扉の閉まる音の後、少しの沈黙が流れて、残された男性二人は睨むように顔を見合わせて、お互いにドカっと椅子に腰掛けました。

”その間”よろしく、と言われても、ヒイズはわかっていました。彼女が常識的な時間内に戻ってこないことを。それを証拠に、彼女の携帯品が詰め込まれた赤いハンドバックはここにありません。つまり、カリノの指示は「彼が痺れを切らして帰るまで、事務所の番をお願い」ということなのです。そしてそれは暗に「大切なお客様の御子息だから失礼のないように。」という指示も含まれているのも理解していました。

「しかし」

それは無理そうだ、と、あれから1時間ほど経過してイライラの頂点に達しそうなジョニーを目の前に、ヒイズは諦めかけていました。

「君は彼女のステディなのか。」

血走った目でそう聞かれて、「そうです」と答える人はいません。ヒイズは涼しい顔で「いえ、仕事のパートナーです」とだけ答えました。その様子にいくらかリラックスした様子のジョニーは、頭を抱えて「僕の何がダメなんだ」と泣き言を言い出しました。

確かに、見た目も財力も、性格も(一部行きすぎる様子と世間知らずなところを抜きにすると)悪くはありません。カリノがただの玉の輿に憧れる女性なら、ここの部屋に溜まっている贈り物半分くらいをもらった時点で落とされていたでしょう。

でも彼女は少し違う。ヒイズは苦悩する目の前の男に同性として一部同情を感じながら言いました。

「カリノのために頑張っても、カリノは逃げるだけですよ。
彼女は自分のために何かをされることを望んでいない。そういう存在なんだと思います。」

え?と顔を上げるジョニーに、ヒイズは続けます。

「彼女は、目の前の一人の人のために一生懸命になっている人を見つけると側に寄り添いたくなるらしい。彼女は、自分を愛する人ではなく、自分のために誰かを幸せにできる人を支える自分自身を愛しているんだ。」

少しの沈黙の後、ジョニーは何かを悟ったようにゆっくりと立ち上がり、僕は力を使う方向を間違えていたのかな、と呟いて弱々しく微笑むと、礼儀正しくお辞儀をして事務所から出ていきました。

パタンっ

扉が閉じた音が背後で聞こえ、ヒイズはふーっと大きくため息をつきました。「もう良いぞ」とカリノに短くメッセージを送ると、暇つぶしに読んでいた本を取り上げてしおりを挟んでいた箇所を開きます。

そこには、こんな文章が書かれていました。

幸福のために頑張っても幸福は逃げ、
目の前の一人の人のために一生懸命になると幸福が訪れる。
それが幸福の面白さなんですね。(『幸福論』河合隼雄著)

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