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7月3日のお話

「そのアポ、私に行かせてください。」

皆塚カリノは身を乗り出して手を挙げました。周囲がギョッとして注目するのも構わず、「行きたいです!」と挙げた手をピンと伸ばします。

それは先輩二人が対応していた科学技術振興機構の新プロジェクトの打合せでした。そのうち一人が発熱のため早退したいということで、部長席で先輩が、「せっかくだから、議事録をとれる若手を連れていこうと思うのですが」と相談していました。カリノはそれを聞きつけたのでした。

「皆塚か。」

まぁいいだろうと、部長が言うが早いか、カリノは連れて行ってくれる先輩、近藤の横に駆け寄ると、よろしくお願いします!と頭を下げていました。


「カリノちゃんさ、科学技術系、得意なんだっけ?」

有楽町線で麹町駅まで向かう間、妙に積極的なカリノに、近藤はそう尋ねました。カリノたちは小さいWEB系PR会社で仕事をしています。仕事内容は、取材、編集、配信、広報支援、PRコンサルティングなどです。ベンチャーで100人に満たない会社ですが、時流に乗って急成長していました。カリノが中途で入社して1年、すでに当時の社員数から倍の人数が働いています。

カリノはその中でも、PRコンサルタント見習い。アシスタントとして近藤のような先輩たちの案件のサポートを行っていました。クライアントはジャンル問わず多岐にわたるため、先輩はそれぞれ得意分野を持っており、その先輩の業務を横断的に実施するアシスタントも、おのづと特異不得意が見えてきて担当が絞られていきます。近藤の得意分野である科学技術系は地味で難解、ということで、アシスタントの間でも人気のない分野でした。カリノもご多分に漏れず、「苦手」と漏らしていたことが過去にもあったのですが…。

そんな中で珍しくアポイントに立候補したということで、近藤だけでなく、社内も一時騒然としました。そんな様子をよそに、カリノはとても楽しそうにアポイントの準備をしています。みんなの前で、「なぜ?」と聞くと、科学技術系の人気のなさを認めるようで嫌だったのでしょう。近藤は、カリノと二人になった電車の中で、疑問を切り出したのです。

「得意ではないです。苦手です、むしろ。」

楽しそうな様子のまま、そう答えるカリノに、近藤は怪訝な顔をしました。じゃあなぜ?と聞きかけたところで、電車が麹町に到着しました。

そこから機構の受付に到着するまでは、カリノから、前回までの打合せの内容や今日のふるまい方、ゴール設定、先方の担当の特徴などを矢継ぎ早に質問され、近藤の疑問は解消されないままになりました。

なんだよ、このやる気。

これまで、特定の分野に興味を示さずに、まんべんなくアシスタント業をこなしていたカリノだけに、今日の振る舞いは特に不思議でした。いや、なんどか彼女がやる気になっていた案件はあったような気がするけれど、自分の担当ではなかったこともあって、スイッチがどこだったのかまではわからなかった。それに、どれも分野の共通点はなかったような…

そんなことを考えていると、通された応接室に、クライアントの植田さんと今井さんが入ってきました。植田さんが上司でこのプロジェクトの責任者、今井さんは部下、とはいえ役職は植田さんの補佐で管理職にあたります。二人とも、30代の近藤と見た目はそんなに変わらない、いっていても40代前半というところでしょうか。若くして出世しているところからも、その優秀さはわかります。

急遽、アシスタントを同行させた旨とカリノの紹介を終えて改めて着席すると、植田さんが穏やかな様子で「これはこれはどうも。ありがとうございます。」と急なピンチヒッターとして登板したカリノにねぎらいの言葉をかけました。カリノは、よろしくお願いします、と丁寧に頭を下げると、さっそくパソコンを開き準備にとりかかります。

そんなカリノの様子は、先ほどまでのテンションの高さは、集中力の高さにすり替わっており、出来るアシスタントを完璧に演じている様子でした。近藤はそんなカリノを横目で見ながら、「その、やる気は何なんだ!」と叫びだしたくなる衝動を抑えました。

打合せは円滑に進みました。機構の高官であるクライアントの二人は、さすがというべきか頭の回転が速く優秀で、今回のPR目的やそれが求められている背景を実にわかりやすく説明してくれるのです。こういう頭の良い人たちの話は、カリノたちのように”聴こう”としている人、にとってはこれ以上ないほどわかりやすいものです。しかし、”聴こうと思っていない人”にはどうにも届きません。だから、近藤やカリノの会社に仕事が回ってくるのです。

以前から近藤は、自分の担当する学術分野(と、科学技術や研究開発などを総称して呼ばれていた)の人々のことを「講義と学会のスペシャリスト」と揶揄していました。いずれも、”聴こう”としている人が集まる場での発表です。しかし近藤は「PR」のスペシャリストです。聴こうと思っていない人を、聴く気にさせる、つい聴いてしまうように仕向けるのが彼の役割だと自負していました。

この感覚が通じるクライアントとは、良いパートナーになれる。

近藤は長年この仕事をしてきて、そういう感覚を身に着けていました。実際、この機構の二人も、近藤たちのことを業者扱いなどせず、自分たちに無い分野のプロフェッショナルとして経緯を持って接してくれました。だからこそ今回のPRプロジェクトは、うまくいくと自信があるのです。

それなりに複雑な調整の伴う打合せでしたが、無事、時間よりも少しはやく終えることが出来たのも、相手のスタンスのおかげでしょう。

ちょっと早いし、ということで、近藤はカリノに先ほどの疑問をぶつけようと、駅前のドトールに誘いました。

着席するなり、カリノが「あと少しで議事録がまとまるので」とパソコンを開くのを待ちながら、なんでそんなに熱心なんだ?と改めて思いました。議事録なんて、帰ってから整えて送ればいいじゃないか。アポ先を辞して、10分後に議事録が届くことを、クライアントは誰も望んでいない、し、予想もしていない。そんな風に近藤が考えている目の前で、彼女は「よし!」とデータを保存すると、メールに添付するがはやいか、あっという間に議事録送信メールを送っていた。

ふふふっと満足げに微笑みながら、おごってもらったコーヒーを口にするカリノに、今度こそ、と近藤は尋ねました。

「カリノちゃん、このアポ、何が目的だったんだよ。」科学技術分野、苦手なのに議事録とるの大変だろ?というと、大変でした、と笑いながら、カリノはいいました。

「植田さんに、興味がありました。」

カリノの話はこうです。

アシスタントとしてCCでメールが入ってきていた中に、近藤と植田さんのやりとりのメールもあった。ちょうど昨日のメールだったか、近藤ともう一人の先輩が出した、リリース文章の案についての返信が届いていた。その文面を何気なく読んだ時、カリノはこのメールを書いた人に会ってみたい、と思ったと言います。

お疲れさまです。今日お休みをいただいている今井に代わりご連絡します。

文章案、いただきました。この世界素人ですが、インパクトあってかつ適正な文言を使用された文章で、必要な情報が過不足なく入っており、勉強になります。
このプロジェクト、うまく行くことを祈っております!

カリノは「これです」と指さしながら、近藤にそのメールを開いて見せました。近藤はただ、提出した文章のOKが出た、と認識しただけのメールでしたが、カリノはこのメールに感銘を受けたというのです。

「偉い方なのに、部下の代わりにメールをしていらっしゃるところ。褒めるポイントが明確なところ。」

とてもうれしそうに、彼女はそのメールのどこに感銘をうけたのかを列挙していきます。自分が素人であると事前に断り、褒めることも上から目線にならないように配慮されているところ。

「そして、プロジェクトを一緒に成功させたいという気持ちが込められた、最後のビックリマーク。」

きっと素敵な人なんだろうなぁと思ったんです。だから、一緒に仕事をしてみたいなって。思って。頑張りました!

近藤は、こんなに楽しそうに話すカリノを、おそらく初めて見ました。いや、楽しそうに話しているのを見かけたことはあるように思いますが、何を楽しそうにしているかはわからない距離で、きっと、興味のある話題でもあったのだろうと思う程度でした。

「あ、メール!返ってきました!」

あっけに取られている彼に、カリノが再びうれしそうな声で画面を見るように促します。見てください、これ!

さっそく議事録の送付をいただき、ありがとうございます。仕事の速さに、皆塚様たちのこのプロジェクトへの想いを感じ、心強く思います。

「やりました!」

私もプロジェクトに入れてください!植田さんにも認識されたし!と勢いよく懇願するカリノをみて、近藤はようやく、あぁそうか、と納得しました。

「カリノちゃんのスイッチは、相手にあったのか。」

ひとりごとのように言った近藤の言葉に、カリノは「え?」ときょとんとしましたが、近藤は構わずにひとり「なるほどなー」と頷いています。

え?え?スイッチ?相手?

何ですかー!と口をとがらせるカリノを見ながら、近藤は何となく思いました。

しかしこの子は、大変な道を歩むかもしれないな。でも、面白そうだ。


2010年7月3日 まだ20代だった彼女は、近藤の予想通り、その後、面白くも大変な10年を歩むことになるのですが、それはまた別のお話です。


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