7月14日のお話
「ミキちゃんは、猫が好きなのね。」
客足も引き、そろそろ店を閉めようかという時間になりました。ゴミを出しに裏口に行ったミキがなかなか戻ってこないために様子を見に来た「ママ」があらあらと笑いながらそう言いました。
ここ、立川の姉キャバと呼ばれる小さなキャバクラでは、店の清掃やゴミ出しも新人女の子の仕事です。すでに30を超えていても、入店から一月しか立っていないミキは、店の中でまだ1番の新人でした。自分より若い女の子たちが、少しくたびれたサラリーマン風の最後の客を見送りに出たところで、ミキは掃除に取り掛かります。文句ひとつ言わず、そういう雑務をこなすミキのことを、ママは感心な子だと買っていました。
最近の若い子、特に学生時代にちょっとだけ銀座や六本木でお水のバイトをしましたという女の子はこうは行きません。都内の大きな店で、大切な女の子という「商品」として扱われるのに慣れてしまうと、どうも仕事を選びがちになるのです。
その点、先月入店したミキという娘は、前が仙台、最初の店は大阪だというだけあってサービス業としてのお水をわかっています。「東京は初めてなので、この年やし、少し離れた街でじっくりお店をしようかと思って。」採用面接の時に少しだけ関西なまりが抜けきらない調子でそういった彼女に、ママは自分の若い頃と重なる部分を見たのかもしれません。ママは九州の出身で、長崎の訛りがずいぶん消えずに悩んだこともありました。里を離れて40年以上すぎた今でこそ、東京言葉も使いこなすようになりましたが、ふとした瞬間に方言が出るのは親近感が湧くものです。
自分より年下の先輩たちを立てながら、うまくやっていくのは大変だろうと、こうして他の女の子のいないところでは、ママは特別ミキに親身に接していました。
「すみません、戻ります。タマ、またね。」
彼女はいつも、ここでこの猫に餌をあげていたのでしょう。すっかり懐いたタマと呼ばれる猫は、ミキの言葉を理解したかのように、そう言われると大人しくその場を後にしました。
そんな様子を見ていたママは、ふと、あることを思い出しました。「そういえば、ミキちゃん。」
お盆の間は、猫がどれだけ可愛くても、後をついて行ったらだめよ。
急に、忠告めいたことをいうママに、ミキは不思議そうな顔をして言いました。「お盆?あ、関東では、7月の今がお盆なんですね。」そうやってお盆の時期に不慣れなところも、ママは自分と重ねてクスリと微笑みます。
「そうよ。今。送り火の焚かれる今週末までは、ついて行ったらだめよ。」
色々とやっているうちに、夜は深まり、街も一部のネオンが消えて、少し薄暗くなっていました。もちろん、終電もすでにありません。そういうことも見越して、徒歩で帰宅できる距離にアパートを借りているミキは、遅くなることはあまり気にはしていませんでしたが、帰り際、ママが不思議な忠告をしたことが、なんとも引っかかる。そんなことを考えて、少し足取りが遅くなりました。
そんな時、足元にふわりと温かい物が絡みつきます。
何かと思って振り返ると、足元に、先ほど餌をあげていた猫のタマが座っていました。タマはミキを見上げて、ミャアと一声あげると、まるで、ついて来いというようにこちらを振り返りつつ歩き出します。
「え、タマ?」
どないしたんやろ。数歩歩いてはミキを振り返るタマの様子を無視することもできず、ミキは自宅とは逆方向の路地の中に、吸い込まれるように入っていきました。
一月通い続けた夜道でしたが、こういう細い路地に入るのは初めてです。馬券売り場の裏手や、パチンコ屋の間を通り抜ける時は、道端に酔い潰れているオヤジにつまづきそうになります。タマはミキが苦戦しながらもついてきているのを確認すると、奥へ奥へと路地を進んでいきます。
路地ってこんな長いものやっけ。
ミキが不安に囚われそうになった頃、タマが明るい店の前に辿り着きました。店の前に座ると、追いついてきたミキを見上げ、ミャァと少し違う声色でなきました。
目的地はこの店だよ。
そう言われたような気がして、ミキは店の様子を眺めます。こんな店があるのは知りませんでした。ずいぶん煌びやかですが、妙にレトロな雰囲気が感じられるのは、看板などのフォントが手書きっぽいせいでしょうか。
ミキは、昭和時代のキャバレーのような建物の前で、立ち尽くしていました。看板には「立川パラダイス」と書かれています。
タマはどうしてここに…?そう思って、足元のタマの方を見ると、ミキの立っている周りの道には、たくさんの猫が歩いていました。どの猫も、目の前の建物、立川パラダイスの扉の中へ進んでいきます。次々に自分たちを追い越すように現れては扉へ消えていく猫を見ていると、どうやら立川中の猫がここに集まっているのではないかという思いさえよぎりました。
さぁ。入って。
ミキは、タマに促されるように、猫たちと共に立川パラダイスの中に入りました。あれ?今私、タマの声を聞いた?あまりに自然に促されたので、ミキは歩きながら、まるでタマに話しかけられたような気分になって、困惑しました。
そしてその困惑は、建物の中に入るとより大きなものになりました。
猫たちが、客席側に思い思いに陣取りながら、ステージ上を眺めています。ステージにも、客席にも、この建物の中には猫しかいません。もしかしたら、閉店後の店に忍び込んだ形になっているのかも。そう思い至り、出た方が良いかも、と出口の方を振り返ろうとした瞬間。
ステージの明かりが眩しく灯ると、中央に置かれたレトロなソファが現れました。ソファの上には、毛並みの良い三毛猫と目が合いました。三毛猫の登場で、客席の猫たちが一斉に盛り上がります。まるで、アーティストのライブの登場シーンに立ち会っているような様子です。
何?
状況が飲み込めずずにいるミキに、タマが「今日はお盆なんだ。立川の夜の女王たちが、こっちの世界に戻ってきている。」と説明します。
お盆。その言葉を聞いた時、ミキは、先ほどのママの忠告を思い出しました。「お盆の間は、猫がどれだけ可愛くても、後をついて行ったらだめよ。」ダメと言われたのに、ついてきてしまっていた。
これはまずい、と思うが早いか、ステージの上の三毛猫が急に目を見開いてミキを睨みつけました。まるで、ミキの何かを品定めするような様子です。その目に吸い込まれるように見つめていると、彼女はふと、目の前の様子が変わっていることに気づきました。
煌びやかなステージには、若い肌を曝け出す女性たち、自分の周りにはそれに熱狂する、軍人?彼らからミキは見えていないようで、ミキはまるで、ホログラムの真ん中に立っているような状態です。
下品な言葉が飛び交う中で、ステージの上の女性たちの笑顔の裏側が、心の中に直接入り込んでくるように伝わってきます。つらいこと、苦しいこと、考えられないような屈辱と無力感。そういう感情がどっと流れ込んできたかと思うと、ミキはいつの間にか涙を流して立っていました。彼女たちは、そういう負の感情を抱きながらも、笑顔で美しく舞っています。それはまるで、運命を呪うより、苦しくても美しく咲き誇る道を選んだ者たちの強さのようでもあり、自分のこれまでの人生で、封じ込めてきた感情がこぼれ出てしまったようでもあり。
ミキは、自分の中にこれほどまでたくさんの感情が渦巻いていたのだということを久しぶりに実感しました。この世界で生きるようになって、10年以上立ちますが、いつの頃からだったか、悲しいことがあっても、つらいことがあっても、それに心が何も感じなくなっていたように思っていました。現に、彼氏に浮気をされても、信じた人に裏切られても、愛した場所にいられなくなっても、泣いたり喚いたりすることがなかったのです。
でも。
目からこぼれ落ちた涙が、ポタリと手に落ちた感覚で、ミキはハッと我に帰りました。目の前のステージは、元の、ソファーに座る三毛猫が居座っています。
今のはなんだったんだろう。今のが、お盆で帰ってきている夜の女王たちの記憶?ミキが確かめるように、足元のタマを振り返ると、タマは否定も肯定もせず、すんっとすました顔で、ステージの上の三毛猫の方を見ています。
何よ、と思いながら、ミキも三毛猫の方に視線を移します。
すると、三毛猫が口を開きました。
奪いしものは奪われる、この世界はそうやって回っているのよ。空虚な夜の街に生きるのが長くなると、何を奪い、何を奪われたのかすらわからなくなってしまう。でも、あなたはまだこっちに来てはいけないわ。まだやり残したことがあるはず。
ミャア。タマのなき声が聞こえて、再びミキがハッと我に帰った時、彼女はいつもの帰路の中程、繁華街の途切れる交差点で立ち尽くしていました。
「タマ?」キャバレーのステージも、三毛猫も、どこにも見当たらない様子に混乱しているミキを、まるで労わるかのように、タマはミャア、ミャアと足首にまとわりついてみせます。そんなタマの温かさで、ミキはどんどん現実味を取り戻してきたようです。
ひとしきりすり寄ると、タマは満足したように、ふっとミキのそばを離れて繁華街の方に走り去っていきました。
不思議なことがあったんです。翌日、ミキはママに忠告を破ったことの謝罪と、その後の報告をしようかと迷っていました。第一声は、不思議なことがあったんです、と決めていたのですが、結局、その一言が言い出せずにいました。
もう少し、あの出来事が夢ではなかったという確証がないと流石に話せない。そう思ったミキは、翌日の仕事終わりに、タマに連れられて行った道を辿ってみることにしました。馬券売り場の裏道、パチンコ屋の路地。しかし、どこをどう歩いても、あの、立川パラダイスが見当たりません。調べてみても、過去にあったらしいという痕跡しかありませんでした。そうなると、あのミキの体験はいよいよ夢ではないかと怪しくなります。
ところが、東京のお盆も明けて、梅雨も開けようと言いう頃になって、ママがふとミキを捕まえて言いました。
「ミキちゃん、もしかして、ついて行ったんじゃない?」
え?と驚くミキの顔をみて、表情が豊かになってるから。と微笑んで言いました。
「でも、戻ってこれて、よかったわ。たまに、そのままいなくなっちゃう女の子がいるから。」
2018年7月14日、ミキははじめて「7月のお盆」を経験しました。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?