11月13日のお話

恋をすると思いの深さに苦しくなったり、相手に嫌われないかと不安になったり、幸せなことばかりではありません。それでも人はなぜか、恋に落ちてしまう。それならそういう恋の辛い側面は、どうすれば良いのでしょうか。

今日はそんなことを悩む、37歳のミキの話です。

「お前たち、タマを知れへん?エルっていう名前でも呼ばれとるんやけど。」

ミキは店の裏手に餌をねだりに来ている若猫たちに話しかけます。

5年前から、まるで飼い猫のように可愛がっていた猫のタマが、夏の終わりから姿を見せていないのです。ミキがこの店を辞めて、趣味で遊びに来るようになってからも数年間、彼女が出勤している日は必ず裏手に現れ餌をねだっていたのに、最近は全く見かけないのです。

自分が店に来る頻度が減ったからかな、と最初は思っていましたが、店のスタッフの女の子に確認しても「いつも来ていない」といいます。

おかしな話ですが、ミキはその猫のタマにいつも助けられてきました。だからというわけではないですが、心が迷ってしまった時、タマを探すようになってしまいました。


2023年、夏の終わり頃のこと。

ミキに彼氏が出来ました。仕事の取引先の人で、ミキより少し年上です。彼女は、20代から夜の接客業が長かったこともあり、男性に対してはどこか冷めたような考えの持ち主でした。いわば、「もう恋なんて面倒」「男性なんてロクでもない」と思っていたミキが、今回は、文字通り恋に落ちたのです。

「仕事に対する向き合い方が、真摯で、珍しくて気になったんだ。」

というのが、初めてのデートでミキが言われたことでした。真摯というか、必死なだけだけど…と、最初はひねた心持で対応していたミキでしたが、彼と何度か食事やデートでを重ねるうちに、彼といる時間がとても楽しくなっていきました。理由ははっきりしていました。彼がこれまでミキの周囲にいた男性と大きく異なっていたためです。

仕事相手として仲良くなってから、恋人未満の期間、そして恋人になってからも、彼は男性としての欲求を彼女にぶつけることは程々に、ミキとの会話や食事、同じ思い出を作り価値観をすり合わせることを楽しんでいる様子がありました。

もしかしたら、これは世間一般的な恋愛としては普通のことなのかもしれません。ミキとは違い、彼は普通の人生を送り、普通に仕事をして普通にそれなりに出世しています。結婚を一度だけしたけれど、うまくいかなかったという傷を負っているそうですが、今時そのくらいは普通と言っても良いでしょう。むしろその傷が、彼の控えめな配慮となり、自分の弱さを知り改善しようという姿勢につながっているようでした。

彼がエスコートしてくれる場所も、どこかの雑誌で読むような定番のデートコースのことが多く、誰かの目を憚ることなく昼間の太陽の下を手を繋ぎ歩ける普通の幸せ、それを与えてくれるのが彼という存在でした。

ご存知の通り、夜の仕事をしていると、そんな幸せは他人事です。生活時間が昼夜逆転するからという理由もありますが、夜に出会う男女は、色々と難しい関係になることが多かったのです。そういう昼間の幸せを、自分は感じられないままここまできてしまったから、もうこのまま無縁だろうと思っていたミキに、それをもたらしてくれる彼はとても魅力的に感じました。

今更だけど、私もそういう普通の女の子みたいな幸せを夢みても良いのかもしれない。そんな風に思うと、妙に胸が高鳴ります。手が届かないと諦めていた頃は、なんとも思わなかったのに、いざ、届きそうなところにその幸せが見えてくるとどうしても手に入れたくなるのは、人間のサガでしょうか。

もっと甘えてみたい、もっと二人きりの時間を過ごしたい、愛されている実感がもっと欲しい。

ミキの気持ちはどんどん加速し、彼とのことを思うと胸が苦しくなるような、恋煩いに罹ってしまいました。そんなミキに応えるように、相手の彼も年甲斐にも無い恋を楽しむようにのめり込んでいきます。そうして二人は、夏という季節が冬に変わる数ヶ月の間に急速に深い繋がりに落ちていきました。

しかし、彼への気持ちが深まれば深まるほど、ミキの悩みも深まります。ミキが夜の世界にいた過去が、ミキの心に時々深い闇を落とすのです。ミキはもちろん、彼に過去をある程度打ち明けていました。好きな人に嘘をつくような人ではありたくないし、過去の自分の仕事にそれなりに誇りも持っていたからです。そして、彼はそれを受け入れると言ってくれていました。「そういう経験がなければ、ミキさんは今のミキさんではなかったと思うし。僕は今のミキさんが好きだから。」と、彼はそんなことも、言ってくれていました。そこに偽りも無理もありませんでした。

ただ、ミキの中にある、自分は普通の恋をよく知らない、という引け目がどうしても拭えないことが彼女を苦しめていたのです。

例えば、海へドライブに行こうと誘われた時、ドライブとはどういう服装で、どう過ごすものなのかが全くわかりません。お忍びドライブというわけではないようで、昼間に観光地を回るプランなのですが、そういう観光にも慣れていないため妙に疲れてしまいます。

もっとこういうリアクションをした方が可愛かったかな。私がこういう方が喜んでもらえたかな。もっと慣れて心から楽しめた方が、彼も楽しめるだろうな。私だから、彼の恋の楽しみを半減させてしまっているのではないか。

例えば、会えない立場の人だと最初から理解していれば、会えないことも、連絡がないことも「そういうものだ」と諦められますが、そうではない立場の人の場合は妙に不安になったり苛立ったり、一人で感情が浮き沈みして疲れてしまいます。そこに「なぜ?」をぶつけたくなってしまうのです。何か、「家族との時間だから」とか「他にも面倒を見ている子がいるから」とか、何でも良いから会えない理由がないと自分を納得させられないような気持ちでした。そういう理由があれば、気持ちを少しずつ冷ますことができますが、それがないと、気持ちは深まるばかりです。

ミキは、彼に出会って初めて、自分がこれまでどれだけ、他者に対して心を開かずに過ごしてきたのかを痛感していました。普通の子たちが、20代前半そこそこで経験し、乗り越えていく男女の機微を30代後半になって味わう。何とも地雷な感じがします。そういう自分の痛々しさに気づいているからこそ、そうならないように自制し、自分をコントロールするのですが、付き合って2ヶ月がすぎる頃、ミキはそういう恋に少し疲れてしまっていました。

彼に遠慮する気持ちもあって、しばらくこの店にも顔を出さなかったのですが、心の疲労がピークに達した時、彼女の足は自然とこの店に向かっていました。

「タマは、どこに行ったの?」

勢いよく餌に食いつくだけでこちらに見向きもしない若猫たちを眺めながら、ミキはここにタマがいたらどうだろうと想像してみました。いつかの夏のように、私を不思議な夢の世界に誘ってくれるだろうか、それとも私の背中を押してくれる魔法使いに引きあわせてくれるだろうか、それとも…。

考えを巡らせているうちに、ミキは頭の中にこんな声が響くのを聞きました。

『あなたは今も過去も、幸せではなかったの?』

その脳内の問いかけをきっかけに、ミキの脳内で質疑応答が始まりました。まるで、どこかでミキを見ていたタマが直接頭に語りかけてくるようで、ミキは周囲をキョロキョロしながら頭の中で答えます。

「幸せやで。幸せに決まってるやん。辛い時期ももちろんあったけど、夜の世界にいた頃も今も幸せやって思ってる。」

『彼と出会えて幸せ?』

「幸せやよ。いつも二人の時間はあっという間にすぎる。こんなに一緒にいて楽しい人は初めてやもん。」

『彼はあなたの知らない幸せを知っていて、それを与えてくれるのね。』

「そう、こんな幸せがあったんだって毎回驚かされる。」

『あなたは持っていないの?彼の知らない幸せ。』

「彼の知らない、幸せ?」

『そう、あなたが彼に与えることができる、彼がこれまで経験してきたものとは違う彼にとっての新しい幸せ。』

「なくは、ないと思う。」

『彼といると、辛いんだったっけ?』

「まあ、辛いこともあるけど、それだけちゃうし。」

『じゃあ辛いというのは気のせい?』

「それはちゃうよ。気のせいなんかとは違う。離れているときや、彼の気持ちがこっちに向いていないと辛い。」

『恋煩い、できてて楽しそうね。したかったんでしょ、そういうの』

「そうやけど…。」

『じゃあまずそういう思いを経験させてくれる彼に伝えるべきことは?』

「伝えるべきこと?」

『彼はあなたに、あなたが20代の頃に置き去りにした経験を今与えてくれているのよね。』

「そう、やと思う。」

『じゃあまず伝えるのは』

「…感謝?」

『手がかかる子ね、5年前も、今も。ミキちゃんは。』

その言葉が頭に響いた瞬間、ミキはハッとして思わず立ち上がりました。その様子に驚いて、呑気に餌を食べていた若猫たちが一斉にその場を離れ物陰に隠れます。

「タマ…?」

「どうしたの?ミキちゃん。」

振り返ると、そこには店のママが驚いた顔で立っていました。

「え、あ、ママ。」

「なかなか裏口から戻ってこないから、様子を見にきたら。」

大丈夫?と寄り添いながら、ママはミキに室内に戻るように促します。

「11月は、冷えるわよ。」

狐に摘まれたような、否、猫に蹴り上げられたような不思議な感覚を抱えたまま、ミキはママに従って裏口の扉を中にむけて潜りました。

扉を閉じる時に、そっと外を覗くと、若猫たちが再び餌に群がっています。先ほどの声は、何だったのだろう。タマの周りではたくさん不思議なことが起きてきましたので、多分今のも、タマの仕業のような気もします。そうじゃない気もするのはここにあの猫の姿がないからでしょう。

「ありがとう。タマ。でも、本当は、どんな言葉よりも今、ここであなたの凛々しいお顔が見たかったな」

ミキはそう心の中で呟くと、パタン、と裏口の扉を閉めました。


FIN.

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