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6月24日のお話

人間という生き物が、他の動物よりも少しだけ見栄えのする文明を気づくことが出来たのは、「言葉」が発達したからだと言われています。何かを伝えるとき、何かを残すとき、言葉や文字は欠かすことが出来ません。

まだ、神々が「試行錯誤して」世界を作っていた時代。人間という生き物に、何を習得させると、うまく文明が育まれ自走するのかを実験していた時がありました。

例えばこうです。ある一定期間、人間に「絵」だけを与え続けるとどうなるでしょう。神々は興味深く観察します。実験対象の人間に、言葉は与えられていません。ですから、人々は意思疎通をするために絵を描きました。さらに神々は、物事を子細に描写し、視覚的に表現する能力に長けた人物が人気者となるように仕向けました。

すると、どうなったでしょう。

100年が過ぎても、彼らの文明的レベルは緩やかにしか変化が見られませんでした。それもそのはずです。絵だけでは何かを伝え、スケールさせるために多大な時間がかかってしまいます。大まかなものや、解釈が一つでなくても混乱しない物事に対しては問題ありませんでしたが、これでは、飛躍的な進歩には不十分でした。

では…。と思い、次に神々は「音楽」に特化した人間を作ろうとしました。ある一定期間、人間に「音楽」だけを与え続けるとどうなるでしょう。神々は再び興味深く観察します。音階に関する感性と、数理的に音と付き合う知識を時々啓示しておいて、美しい音楽を生み出す人物に富と権力を集めました。

すると、どうなったでしょう。

100年が過ぎても、彼らは文明というものをもたず、神々の庇護下にあることを望み、神に対する祈りを歌にのせることが生きる道という慣習がはびこりました。いつも美しい音楽が飛び交うその場所は楽園のようでしたが、その音楽では、経済活動などを行う駆け引きが生まれないままになったのです。

では、やはり「言葉」が一番か。神々はいよいよそう思い、「言葉」だけを与え続ける人間を作ろうと、言葉以外の表現手段を封じたうえで、言葉と文字を与え磨き続けました。

すると、どうなったでしょう。

100年が過ぎた頃、そこには「定義されたもの」と「規律」を重んじる一大国家が誕生していました。技術の記録により伝播が早くなり、緻密な仕掛けも言葉を尽くすことで再現できるようになりました。記録を取ることで同じ過ちを繰り返さなくてよくなり、一人の経験が、その世界の人間全体の経験として分かち合えるようになったのです。

やはり「言葉」でしたね。神々がその実験の結果に満足しましたが、一人だけ、「言葉」だけではこれ以上の進歩は望めないと指摘した神がいました。

彼はいいます。

進歩・進化には突然変異が欠かせません。実験の際は、我々が啓示や奇跡という形で都度与えてきましたが、今後もずっとそれが出来るかと言えば、ちがうでしょう。皆さんも常々、世界の文明の進化が「自走化」してくれたら、長期休暇も取れるのに。そうぼやいているではありませんか。「言葉」だけでは、自走化は出来ません。自走できる自然の変異を起こすには、多様性が受け入れられている環境であることが大切です。多様性を保つためには、最後には「定義」出来てしまう言葉だけに頼ることでは不十分でしょう。解釈が複数あったり、複数の解釈をはらませることができる、音楽や絵画があってこそ、人間は我々の手を離れてくれるのです。

なるほど、自分たちの休暇のためなら確かにそうだ。神々はそう納得し、彼の意見を採用しました。

さて、いよいよ天地創造の本番です。

言葉というものを中心に、人間に知恵を与え、規律をつくり、世界が誕生しました。そこに、100年に数人だけ、言葉の使い手とは別の能力、絵画や音楽を作る能力のある人間を誕生させておきます。

たとえば、1901年6月24日。

「噴水」を眺めていた作曲家のラヴェルは、よくよくその噴水の解像度を上げていくと、それは水であり、動的な水は決まった法則の中で上下しつつも、水内面の動きは非常にランダムで、まるで噴水の中央に立つ銅像を、くすぐっているような表情を見せるのです。

その発見を、ラヴェルは自身の曲に盛り込みました。「噴水をよく見て、それが水の集合体で出来ていて、規則正しく動きながらも、ひとつひとつのみうの動きはランダムで不揃いである。」と説明しなくても、なんとなく、水というものはそういうイメージだと伝わる曲に仕上げたのです。

2001年6月24日、ピアノの発表会に向けて、ラヴェルの「水の戯れ」を練習していた一人の女子高校生は、ふと気が付きました。

全体を捉えてみると、大きな一つの「形」であっても、解像度を上げて細かく見て行くと、それを構成している要素には、その「形」とは逆の性質をもち、共存しながら、一つの作品として成立している。これはそういう曲なのだ。

そう理解すると、彼女の学校生活も変わりました。

真面目な性格ゆえに、不良っぽい女子グループと交流することを苦手だと感じていた彼女でしたが、不良っぽい女子グループにいる子でも、一人一人の考え方を掘り下げていくと、彼女自身よりもまじめで一途な考えを持つ子もいることに気が付けたのです。

解像度を上げて物事を見るのは、言葉ばかりに頼っている人間には、少し難しい行為です。なぜなら解像度が高まれば高まるほど、全体を再度表現するために必要な言葉の数は膨れ上がり、冗長で間延びする説明が必要になるからです。

しかしこれを、音楽や絵画に担わせておくとどうでしょう。

100年過ぎた世の中でも、作曲家や画家が残した教訓は、作品を通じて人々に伝播していくのです。

これぞ自走モデルですね。この事例を知った神々は、素直に感心して拍手をしました。

創世期よりずっと人間文明の自走化を望み、身を粉にして働いていた神々にも、いよいよ、そろそろ、ようやく長期休暇取得のチャンスが巡ってきたのかもしれません。



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