7月20日のお話
1900年7月20日
「先生、何しよーと?」
子供たちの笑い声が、海岸に座っているダイアンの後頭部あたりではじけました。外国語の教師として日本にやってきた彼は、横浜、神戸と裕福な子女の私塾に雇われたのち、もっと多くの子どもたちに欧州の文化を教えたいと願い、長崎にある小学校の英語の教師に収まっていました。港町ばかりを選んでいたのは、彼が海を、とくに夕方の海を愛していたからかもしれません。本人は意識したつもりはないのでしょうが、この街にしようと決めるとき、いつも、海辺の夕陽を見ていたという共通点がありました。
3年前に長崎に来てから、彼のお気に入りの場所は、ここ、ヨットクラブが使う入江の近くにある浜辺でした。今年のパリ五輪でも正式に競技として採択されているヨットですが、日本ではまだそれが見れるのはごく一部の地域だけです。横浜に滞在していたときも、クラブはあるということを聞いていましたが、ついぞ見ることはかないませんでした。(いま聞き及ぶに、横浜でも大きなクラブができているというので、きっと自分がまだ日本になれておらず、自由が効かなかったということもあるかもしれないと、彼は理解石いていました。)
それに比べ、ここ、長崎は西洋化がいち早く進んだ街だけあり、ヨットを持つ西洋人の商人が多くいます。彼らが社交の場として使うこともあり、こういう気候の良い日には、結構な割合で、ヨットを目にすることができました。
そんなわけで、ダイアンにとっては、「何」ということもなく、好きな景色を眺めている何もしない時間だったのですが、10にもならない子どもたちに、そんなことを説明してもわかるはずありません。
「Watching…。Watching the sunset」
代わりに、彼らにもすでに教えている単語を連ねて、簡単な返事を英語で返しました。
「うぉっちんぐーって」
「なんやっけ、うおっちんぐ、うおっちんぐ」
発音は大人に比べて習得が早いものの、なかなか単語を覚えておくことは難しいのでしょう。子どもたちは、そうやって英語の「音」を面白がりながら真似をして、わいわい騒いでいます。
「さんせっと、は、夕陽ばい」
中でも勉強の出来る少年が、みんなに教えるように大きな声で発言します。おおーと周囲に感動されながら、得意げな表情を見せる少年ですが、肝心の「うぉっちんぐ」がわからないようで、それきり黙ると助けを求めるようにダイアンの方を向き直りました。
やれやれ、と、ヒントでもと浜辺から腰を上げたっところで、横から女性の声で「先生は、夕陽ば見よーっておっしゃったんばい」と聞こえました。
思わぬところから答えを教えてもらえた子どもたちは、「そうや、見よーや。うおっちんぐは見よーばい」と口々にいうと、満足したように浜から走り去って行きました。なぜなら、このままここにとどまると、その女性から「みんな、何時やと思うとーと。早う帰らんね。」と怒られるとわかっているからです。
彼女も、ダイアンと同じ小学校の教師でした。
走り去っていく子どもたちに、ため息をついて、その女性、音楽の教師である狩野千代はダイアンの方に向き直るとにっこりと微笑みました。
「それで、先生は本当は何ばしていらしたんで。」
本当は何をしていたのか。
ダイアンは、最近ようやく、難解な日本の方言の中でも難しい長崎の言葉を、うまく理解することが出来るようになってきました。それでもまだ、理解するのにワンテンポ会話が遅くなってしまうことがあります。
言葉に詰まるダイアンに、あら、と何かに気づいたように「本当は、何を、していらしたのですか。先生。」と千代は言い直しました。東京の音楽女学院に通ったことのある彼女は、使おうと心がければ、東京言葉を使うこともできます。彼女とダイアンが親しく話すようになったのも、彼女のその”特技”に赴任直後の彼が助けられたことが多かったからという経緯がありました。
しかし今回は、言葉が聞き取れなかったわけではありません。ダイアンは、答えに窮してしまったのです。
何もしない時間をすごすということを、そのまま伝えるのもおかしいような気がして、結局、「夕陽を、見ていました。」というしかありませんでした。そんな返答をきいて、あらやだ、と千代は弾けるように笑いました。
「故郷が懐かしゅうて、寂しかとかと思うた。」
寂しか、という表現を聞いて、ダイアンはそれは違うようだと思いました。そういえば、日本人も、母国の英国人も、夕陽を見ると「寂しい」という表現をする人が多いようです。なぜでしょう。ダイアンは目の前の千代をみて、不思議そうに首を捻りました。
「千代さんは、夕陽は、寂しいものですか。」
ダイアンは夕陽に対して、寂しいという感情を抱いたことはありませんでした。むしろ、好きなものです。美しい夕陽に出会えると心が踊りますし、感動し自然と神に感謝したくなる気持ちが湧き上がります。夕陽にかかわらず、彼は「太陽」が大好きでした。
それは子供の頃に「太陽を見よ」と教えてくれた日本人への憧憬が原体験にあり、その思いが高じて日本にまで来てしまったので、強烈な印象として今も太陽も夕陽も朝日も、彼にとっては大好きなものでした。
「うちぁ、夕陽ば見ると、自分が小さな存在なんやと思うて、切のうなるなぁ。」
「せつない?やはり悲しいということですか」
千代の表現に、聴き慣れない使い方の言葉があり、ダイアンは確認するように繰り返しました。せつない、とはpainfulという感情だと認識していた。ちょうど該当するような日本語は思いつかないものの、彼は悲しいの類義語だと考えていました。
しかし千代は、うーんと首を捻ると、悲しいとは少し違う、というようなことを呟きながら、他に近しい言葉をぶつぶつと探していました。
「悲しかとじゃなく、綺麗すぎて悔しかとや。」
千代は一言で伝えられる単語が見当たらなかったらしく、どういう状態かを状況説明で伝えようと試みました。彼女がいうには、夕陽を見ると、とても美しく思い感動する。しかし同時に、そういう美しいものを、自分は、人間は作り出すことができないように思う。音楽でも、絵画でも、この浜から見る夕陽にはかなわない。だから、自分はちっぽけな存在だと、自然に負け続けている悔しさがこみ上げてくるのだと説明しました。
ダイアンはそんな千代の説明をじっくりと聴き終わると、しばらく、咀嚼をするように沈黙して、ふいにはっと顔を上げて彼女を見つめました。
自然に負ける、という表現を日本人はよく使います。負けることが当然で、畏れて神のように敬うのです。そこには自然災害のような畏れもあれば、千代のいう夕陽のように、美しすぎるものへの畏れもあり、共存しています。
この、相反するものを共存させることができる世界観は、この国、アジアも含めた極東独自のものかもしれない。ダイアンは、なるほど、とひとりうなづきながら、10年経っても新しい発見があるこの国の人々の面白さを噛み締めていました。
そういえば、先日、熊本からやってきた日本人の青年も(確か俳句や文学を嗜みながら教員をやっていると言っていた)相反する思いを文学に込めるのだと語っていました。彼とは、英語で会話ができたこともあり、ダイアンの日本文学への理解も深まり良い時間でした。彼は間も無く、ダイアンの母国へ研修に旅立つのだと言っています。
そんなことを思い返しながら、ダイアンは、むしろ母国の人間こそが日本の美的感覚を学びにこなければいけないのではないかとさえ思いました。そういう意味では、フランス人の方が、美に敏感だと主張するだけあり、この国のことを評価しているのかもしれません。今年はじまったパリ博覧会も、日本のものが多いとききました。
「ダイアン先生?」
急に黙り込んだダイアンを不思議に思ったようで、千代は覗き込むように彼を見て呼びかけました。
「あぁ、失礼しました。いえ、美しいものに畏れを抱ける千代先生は、美しい日本人だと考えていたのです。」
思考の途中だった彼は、考えていたことをそのまま言葉にだし、再びこの国と母国の違いを考察しはじめました。そんな彼が、目の前で顔を真っ赤にして硬直している千代の気持ちに気づくなんてことは、もちろんこの先もありません。
間も無く、ダイアンは戦争の激化に合わせて母国に戻りますが、年齢のこともあり母国で日本語を教える教師として日本に関わり続ける生涯を送りました。そして帰国から20年の月日が流れた頃、日本と母国が争い合うのを見るのを嫌がるように、日英同盟失効の年、60歳という年齢でこの世をさりました。
着想 レオニード・アフレモフ SAILING WITH THE SUN — PALETTE KNIFE Oil Painting On Canvas By Leonid Afremov
https://afremov.com/sailing-with-the-sun.html
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