7月4日のお話
酷かった雨も、夕方に上がり湿気だけが残る蒸し暑い2020年7月4日土曜日の夜。いつものように、食後の一眠りをするために駐車場にやってきた猫のアールは、定位置の車の下に潜ろうとして、まだその車の車体が暖かいことに気づきました。
「暑っ。もしかして、帰ってきたばかりですか?」
肌寒い冬は歓迎ですが、これからの季節、エンジンが冷めていない車の下はサウナのようになるため潜れません。たまの土日に外出することはあっても、大抵は熱が気にならないくらい早めの時間に戻ってきているのに珍しい。そんな興味もそそられて、アールはその車に話しかけました。
「あら、アールさん。ごめんなさい。そうなの。今日は少しご主人が寄り道なんてするものだから。」
その車は、この界隈の猫たちからはゼット婦人と呼ばれています。貴婦人のような喋り方で、Zと書かれた紋章を誇らしげにつけているので、そういうあだ名がつけられました。
他にも、隣の駐車場の車は、持ち主の人間が外人さんなので「外車さん」(しかし本当は国産車です)、向かいの白い車は、来たばかりの頃にパンクをしてしまったので「白パンさん」などと呼ばれています。猫たちはそうやって名前をつけて車と仲良くなり、一時の安全な寝床を確保するのです。
車たちと仲良くなっていないと、そこは安全な寝床とは言えません。うとうとしているときに、犬や悪戯好きの子供たちに四方を囲まれてしまうと逃げられなくなってしまうからです。だから猫たちは、仲良くなった車たちから、近くに犬が来ているよとか、子供たちが最近この辺りで遊んでいるとか、そういう情報を教えてもらいながら生活しているのです。
そういうわけで、猫のアールとゼット婦人も御多分に漏れず仲が良く、週に一度程度しか外出できなくて暇を持て余している婦人の話し相手になることで、アールは安全な寝床を確保していました。
しかし今日に限っては、まだしばらくは寝床になれそうにありません。だから婦人は、アールを見るなりごめんなさいと謝ったのです。
「いえいえ、ゼット婦人が謝ることではないです。ご主人と長く走ることができるのは、車としては幸せな時間でしょう。なんだか今日は嬉しそうだ。」
アールはそういうと、気を取り直して笑顔でいいました。暑いと文句はいったものの、仲良しのゼット婦人が楽しそうな様子であることは、喜ばしいことです。せっかくだから、エンジンが冷えるまで、ゼット婦人と話をすることにしよう。そう思い、車体の下からぴょんと飛び出し、彼女のボンネットの上に背筋を伸ばして座りました。これが、アールの「お話ししましょう」という合図です。
話好きのゼット婦人は、そんなアールの言葉と行動に、さらに嬉しそうに車体を光らせてありがとうと言い、実はですね、と話し始めました。
「今日は時間も長かったですが、ドライブ中も、ご主人やお隣の彼女がとても幸せな様子だったのです。だから今、とても気分が良いのですよ。」
へぇ、デートの外出だったんだ!と、アールが声を上げると、少し離れた車体の下で各々休もうとしていた猫たちも聞きつけてゼット婦人の周りに集まり出しました。
古今東西、恋愛話は猫も大好きときています。
え?彼女さん?
どこに行ったんですか?
どう言うかんじだったの?
集まった猫たちが矢継ぎ早に質問するのを、アールがボンネットの上から制しました。「こらこら、順を追って皆で聴こうじゃないか」
その声に、静まり、そっと耳を傾けている猫たちに、ゼット婦人は嬉しそうに話し始めました。「ご主人と彼女は、お付き合いを始めて2年くらい、とても仲が良くて、昨年の夏は毎週のように遠出をしてくれて…。」と、自分自身も楽しかったこと。彼女が運転をかわることもあり、それはそれで新鮮な経験だったことなど。
「あ、その彼女の話、確か前にも聞きましたねー」などと、年長の猫からは合いの手も入ります。そう言うリアクションに、そうそう、そうなんですよ、と丁寧に返事をしながら、話は今夜のドライブのハイライトに差し掛かるところまで進みました。
「レインボーブリッジを渡ったときのことです。この道は、前にも何度か寄り道したことがあったのですが、二人がね、同時に、こんなに綺麗に夜景が見えるのは初めてだ、なんて言うんです。」
その時間を思い出しながら話しているのでしょう。ゼット婦人の口調は熱を帯び、今も車内に二人を乗せているかのような臨場感がありました。若い猫などは、少し顔を赤らめながら食い入るように聞いています。
「走っている私からしますと、今回が一番綺麗に見えているかどうかと言えば、前回も同じくらい綺麗だったと思うのです。でもね、よくよく会話をきいていますとね。」
そこまで話すと、ゼット婦人は少し勿体つけて、ふと、話題を変えました。
「あ、これから恋人と夜景デートに行こうとされている若猫さんたちに、アドバイスです。
夜景はね、付き合いたての頃に行くのも良いですが、付き合ってしばらくしてから、もう一度行くのが良さそうですわ。」
「もう一度?」
ゼット婦人の言葉が途切れたとき、すかさずボンネットの上のアールがききました。後ろの方で聞いていた若猫も挙手をして「デートで同じ場所にいくのって、手抜きと思われたりするんじゃないですかね。」と、質問をかぶせます。
そんな若猫たちのリアクションは想定していたかのようです。ゼット婦人は余裕の微笑みを浮かべ、私もそう思っていたのですけどね。と、意味深に付け加えると、話の続きを語り始めました。
「注目すべき点は、何度か来ている場所なのに、二人にはその中で一番綺麗な夜景に見えた、ということです。これは、実際の風景がそうだったということではなくて二人の心の中の状態なんだということが、わかりましたの。」
ゼット婦人はそこまで話すと、猫たちの中で、経験豊富そうなベテランたちをぐるりと見渡してクイズを出しました。
「ではどなたか、初めて夜景を見に行った恋人は、夜景を見ながら、どんなことを考えているかわかりますか?」
えー?と、盛り上がりながら考えだす猫たちの間から、「手を繋げるかな。とか」「ここでキスか?だろ」と声が上がります。「いや、相手を見極めるのに忙しいんじゃ」とか「このまま泊まれるかなとか」などと次々に出てきます。
ゼット婦人は猫たちにうんうんと頷きながら、「きっと、それら全部を考えていたと思いますのよ、あの二人も。」といいました。正解は、全部。
つまり、夜景を綺麗だなんて心の底から思う余裕なんて、1回目にはないはずですの。お互いに、綺麗だね、とかは言っていても…ですわ。
その講釈に、アールは「あー、なるほど。」と、妙に実感を込めて納得していました。きっと最近、心当たりのある出来事があったのでしょう。
「では今回、前よりも綺麗だったと思えた二人の心の中は?」
ゼット婦人から、二問目のクイズを聞いた猫たちの中で、勘の良い猫や経験豊富な猫は、すでにそれだけで「はあー。なるほど。」と、得心しています。ボンネットの上のアールも、しばらく考えて、ハッとしたように顔を上げました。
そんなアールを見て、ゼット婦人は、ニッコリと微笑むと「そう、そういうことです。」とだけ言いました。
若猫たちが、答えを催促しますが、彼女はふふふといたずらっぽく笑って誤魔化します。
「そろそろ、エンジン冷えましてよ。」
アールに向かって発せられた、ゼット婦人のその言葉が、今夜のお話の時間の終わりの合図でした。
恋の話はやっぱり楽しいね、などと、経験豊富な猫たちが満足げに解散していく中で、最後まで答えのわからなかった若猫が数匹、しぶとく回答をねだっています。
エンジンが冷めたのなら、一刻も早く車体の下に潜り眠りにつきたい。そう思っていたアールは、若猫たちを追い払いたくて、「一言だけヒントを」と、ゼット婦人に依頼しました。
ゼット婦人は、まぁアールさんの頼みなら…と、苦笑しながら、そうねぇ…と少し考て、こう付け加えます。
「楽しいこと、この先の未来に迷いがないこと、満たされていること。この3つが、美しいものをより美しく見るために必要な条件よ。」
はい、解散解散!と、アールが若猫たちを追い払うと、ヒントをもらった彼らは慌ててみんなで同じ方向に去って行きました。きっとこのあと、若猫同士で答え合わせをするつもりなのでしょう。
ようやく静かになった車体の下で、アールはくるりと丸くなりました。そして、おやすみなさいをいいがてら、ゼット婦人にそっと語りかけます。
「その条件を全て満たした恋人たちを乗せていたからか、まだ少し、エンジンが温かいようです。この調子だと、梅雨明けからは、デートドライブの日は、別の場所を探さないといけなくなってしまいます。」
あら!とゼット婦人は大袈裟に驚いたような声を上げましたが、ふふふ、とだけ笑って沈黙しました。
その様子をみると、そういう日は別の場所を探す、ということは肯定されているようです。
別の場所かぁ、と、アールはふと、恋人猫のエルのことを想いました。エルのところに泊まれるくらいになるように、頑張りなさいという婦人のメッセージなのでしょう。
ふーっと大きなため息をついて、アールは婦人に「わかりましたよ」という意思を伝え、今日のところは、と眠りにつきました。
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