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書棚の片隅のミステリ

(2022/10/01記)

 入居していたテナントビルの建て替えが決まり、この春、やや慌ただしくオフィスを移転した。社員十人にも満たない小さな所帯とはいえ、創業九十三年を迎える出版社がためこんだ書籍はただならぬ数にのぼり、運搬と再収納にはえらく難渋した。

 その整理中のことだ。戦前期の当社を代表するベストセラーのひとつ、高橋是清(TAKAHASHI Korekiyo)『随想録』(昭和十一[一九三六]年刊)の函入り本を手に取ったところ、函の裏に墨文字で名前が書かれているのを見つけた。長らく書庫に収められていたもので、入社以来、幾度も眺めていたのに、二十年近くまるで気づかなかった。

 見れば、寺崎英成、とある。この名で思い当たる人物は一人しかいない。太平洋戦争開戦直前の日米交渉の舞台裏を描いた柳田邦男の傑作ノンフィクション『マリコ』(新潮文庫)によって一躍知られるようになった、そして戦後、昭和天皇の御用掛として『昭和天皇独白録』(文春文庫)を記した、あの寺崎英成(TERASAKI Hidenari)なのだろうか。果たして当人の筆か。なぜそんなものが版元である千倉書房の書庫に収蔵されているのか……。

 私は、寺崎のサインを写真に撮り、フェイスブックに上げた。すると慶應義塾大学の清水唯一朗さんが、寺崎が上海の日本大使館にいるとき外務省本省に提出した、勲章の佩用願のコピーを送ってくださった。こちらも筆書きなので比較してみてはどうか、というご厚意だった。

 「成」はかろうじて似ている気がするが、それ以外の文字はちっとも似ていない。これは対照できませんね、別の寺崎さんの可能性を否定できないですね、ということで、そのときはあっさりと話は終わった。

 しかし、改めて書棚を眺めわたすと、『随想録』には表紙が布張のものと革張のものの、二つのバージョンがあった。函に入っていたのは布張のほうで、当時、一円五十銭で市販されたものだ(昔のことなので奥付に定価が記載されている)。

 奥付裏には『随想録』の前に刊行され、発売が二・二六事件による高橋暗殺と重なったため大ベストセラーとなって七十五刷を数えた『高橋是清自傳』の自社広告と、同書に対して各界から寄せられた名士たちの感想文が掲載されている。

 寄稿者には矢田挿雲、清沢洌、馬場恒吾といった千倉書房と関わりの深い面々ばかりでなく、松本烝治や永井柳太郎といった学者・政治家も散見される。

 一方の革張は三方金がおごられ、花切れも布張と異なる。また奥付には「謹製品」とあって価格表示がない。当然、広告も感想文も削除されている。

 ともに印刷は昭和十一年三月二十六日、発行は同二十九日。つまり同じタイミングで製作された両者は、布張が市販本で、革張は特装本ということになる。

 さらに詳しく調べると、特装本は函入りで、わずか五十部しか作られず、関係者に配布されたのみであったことがわかった。おかしいではないか、サイン入りの函に収まっていたのは布張りの市販本で、革張の一冊は他の布張数冊と一緒にむき出しのまま棚に差されていたのである。

 もしや、かつて本を函から出した人間が、バージョンの違いを無視して革張の特装本を出しっぱなしにし、並んでいた布張の市販本を函に突っ込んだのではないか……。

 そんな想像をめぐらしつつ、高橋の胸像が空押しされた革張の表紙をめくると、なんと本書をまとめた上塚司(UETSUKA Tsukasa)の印と為書きがあらわれた。いわく「敬呈 寺崎雅契 編者」。やはり、本来この函に入っていたのは革張の特装本だったのである。

 「雅契」とは、志を同じくする畏友、ほどの意味である。私は当初、この言葉を知らず、そのため寺崎が雅号を用いていた、あるいは僧籍を持っていた可能性を探った。しかしそのような記録はなく、途方に暮れかけた。

 元々は唐代の詩文に出典があるようだが、日本でも松平春嶽が伊達宗城や島津久光に宛てた手紙に用いた例のあることを教えてくれたのは長らく書道教室を営み、和漢の典籍に明るい母である。さらに調べるうち、森鴎外が芥川龍之介に宛てた手紙にも同じ表現が用いられていることを知った。

 ちなみに文頭の「敬」も私には読めなかった。うしろが「呈」なのは明らかなので、謹呈、献呈、進呈、贈呈、捧呈、拝呈、捧呈、送呈、粛呈……と、とにかく思いつく限りの献辞を並べ立て、五体字類で運筆を調べるがどうにもピンとくる言葉がない。

 このときもフェイスブックで弱音を吐いたところ、三十分もしないうちに明治学院大学の佐々木雄一さんから「原敬の敬」と教えていただき、あっさり判明と相成った。近代史のスペシャリストたちからすれば「原敬の敬」を読めないとは何事か! というところだろう。

 さて、日記をはじめいくつかの資料を繙いたが、農商務大臣、大蔵大臣時代の高橋是清の秘書を経て代議士となり、この年、二・二六事件の六日前に行われた第十九回衆議院議員総選挙で再選を果たしていた上塚と、同時期、三等書記官として上海や北京の日本大使館に勤務していたはずの寺崎の間に直接の交流があったことを裏付ける証拠は、残念ながら見つからなかった。

 ちょうど十年歳の離れた若年の友人に「雅契」と呼びかけて貴重な書籍を贈るような交わりが、両者の間にあったとするならば、日本政治と中国大陸に暗雲が漂い、じりじりと日米開戦に向かう時代を背景に、新たな物語を紡ぎ出せるような気もする。

 高橋の薫陶を受け立憲政友会の代議士となった上塚は、翼賛選挙となった一九四二年の第二十一回衆議院議員選挙に無所属で出馬し落選するものの、終戦後第一回となる一九四六年の選挙では日本自由党から立って復活を果たす。第一次吉田茂内閣の大蔵政務次官を務めたのち、一九五〇年代には衆議院の外務委員長も歴任している。一九五五年に政界を引退してからも長命を保ち、一九七八年に八十八歳で亡くなった。

 寺崎は一九四一年、二度目のワシントンに赴任する。日本大使館の一等書記官として、野村吉三郎駐米大使、来栖三郎特命全権大使、若杉要駐米公使、そして本省でアメリカ局長を務める実兄・寺崎太郎(TERASAKI Taro)らとともに日米開戦を阻止すべく奔走する様子は、ぜひ『マリコ』でお読みいただきたい。

 日本政府の関係者として真珠湾攻撃の直後から拘留生活を余儀なくされた寺崎は、翌年八月、妻子と共に捕虜交換船で帰国を果たすが、ブラジル、アフリカ経由した過酷な航海や戦時下の食糧難にむしばまれた体調の不良から、終戦にかけて目立った活躍はない。

 しかし、一九四七年に天皇の通訳として宮内省の御用掛に任じられ、このとき寺崎を含む側近たちの手で行われた張作霖爆殺から終戦工作などの経緯にかんする昭和天皇への聞き取り記録が、のちに寺崎の娘マリ子(Mariko Terasaki Miller)から数人の研究者の手を経て文藝春秋に渡り、世に出ることになる。

 一九五一年八月二十一日、寺崎は脳梗塞で早世する。享年五十。同じ年の三月三十日に熊本県知事選に出馬するも現職候補に敗れ浪々の身となっていた上塚の耳に、その報は届いたのだろうか……。

 などと、思い入れたっぷりに語ったところで、サインの主が私の想像する寺崎英成であるかどうかは判然としないままで、当然、たまたま同姓同名の寺崎さんの本である可能性はまったく否定できない。

 万が一、あの寺崎英成への献本だったとして、サインがある以上それは、一度は本人の手に渡ったと考えて良いだろう。であるならば、なぜその特装本が千倉書房の書庫に収められ、長らくほこりをかぶることになったのか、という最大の謎は残る。

 私が考えるか細い可能性は、先に言及した英成の兄、太郎のルートである。戦争中に日本に戻った英成の家族、妻グエン(Gwen Terasaki)と娘マリ子であったが、戦後の混乱期にある日本での娘の教育を案じた英成の指示で一九四九年にはアメリカに帰国している。

 しかし、既に触れたように、英成は一九五一年に急逝してしまう。このとき日本で遺品の管理に当たったのが兄の太郎、そして末弟の寺崎平(TERASAKI Hitoshi)であった。

 上塚司が一九四六年に第一次吉田内閣の大蔵政務次官(同年六月~一九四七年三月)となったことは先に述べた。じつはこのとき外務次官(同年五月~一九四七年二月)を務めたのが寺崎太郎なのである。両者は閣議や次官会議などのたびに頻繁に同席し、間違いなく面識があったはずである。

 また、代議士となった上塚が一九五〇年代に衆議院の外交委員長を務めていた頃、一足早く官界から身を引いた寺崎太郎は、寺崎外事問題研究所を立ち上げ(岡崎久彦の岡崎研究所を思わせる)講演・執筆活動に専心していた。ここでも接点があったとみることは出来よう。

 こうした縁から、英成が亡くなった際、本書は上塚の元に戻され、さらには担当編集者などを通じて千倉書房に収蔵されたのではないか、というのが私の推論だ。

 一九五八年、アメリカに暮らしていたグエンが、寺崎との出会いや戦争によるその後の困難、日本とアメリカの架け橋となろうとする外交官一家の体験をまとめて出版したところ、この『太陽にかける橋(Bridge to the Sun, The University of North Carolina press)』は日米でベストセラーとなった。

 日本語版の出版元である小山書店新社の招きで、夫の死後初めて日本の地を踏んだグエンは、英成の弟、平から遺品を受け取っている。そのときまで寺崎家にあれば、本書も他の遺品と一緒にアメリカへ渡っていた可能性だってある。

 結局、グエンたちは日本語を読めなかったので遺品は長らくしまい込まれ、それが世に現れるのは英成の死後四十年が経とうとする一九九〇年のことだ。

 遺品を整理していたマリ子の息子コール(Cole Miller)が「昭和天皇独白録」を発見し、マリ子は南カリフォルニア大学東アジアセンター教授のゴードン・バーガーに鑑定を依頼。さらに東京大学教授の伊藤隆が内容を確認し、全文が「文藝春秋」(一九九〇年一二月号)に掲載されるに至る経緯は知る人ぞ知る、だろう。

 さて、ダラダラと愚にもつかない推理をひねってみたが、結局、資料がなければ結論めいたことは何一つ言えない。とはいえ、こんな謎めいた一書がさりげなく本棚の片隅に埋もれている職場というのは、ちょっと愉しいのではないだろうか、と思ったりもする。

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