インクの香り

(2019/03/10記)

 これまで三度、オリジナルインクを作った。

 はじめは池内紀さんや池田晶子さん、そして五百旗頭真さんに執筆依頼のお手紙を書いていた頃のことだ。

 たまたま手紙の宛先がみな「I」から始まる名字であることに気づいた私は、二〇〇二年に作ったインクを「A Letter I」、つまり「Iという文字」と名付けた。

 セーラーのインク工房で、ブレンダーの石丸治さんに「どんな色にしましょうか」と問われた私は、当時、万年筆仲間の間で話題になっていた「とんかつソースの色」をお願いし、試行錯誤の末、叶えられた。

 時候の挨拶から原稿の督促まで、手紙を書くことの多い私が普段使いに出来るよう、相手に失礼でない落ち着きを持ち、それでいて、「これは見たことがない」と好事家の琴線に触れる色味。それが「とんかつソース色」であった。

 案の定、このインクはウケけた。当時勤めていたNTT出版から、歩いて一〇分ほどの所にお住まいだったにもかかわらず、手紙でのやりとりを好んだ猿谷要さんに早速はがきを書いたところ、珍しく電話がかかってきた。

「神谷さん、猿谷先生からです」という呼び出しに、私はほくそ笑みつつ受話器を取ったことを覚えている。「このインクは何ですか」とのご下問に答える私の声は、さぞ自慢げでいやらしいものだったに違いない(苦笑)。

 この九年後、移籍した千倉書房で私は初めてサントリー学芸賞受賞作を手がける幸運に恵まれた。二〇一二年のことになる。

 著者は待鳥聡史さん、『首相政治の制度分析』は一年ほどで首相が交代する平成日本の政治状況を分析し、九〇年代以降の日本の統治機構改革がどのような意味を持っていたか論じた佳作であった。

 この受賞が私にとってどれほど価値のあるものであったか、人に説明することは難しい。野良犬が鑑札をもらった気分といって理解してもらえるかどうか……。

 自身の喜びを形にし、著者と共有し、後々に残したいと考え、そのために作ったのが待鳥氏の名字から採ったインク「A Letter M」(Mという文字)である。

 授賞式の後、私は自身のコレクションの中から選んだ万年筆と、このインクを待鳥さんに贈った。

 ペン先を紙に置いたときには分からないのだが、このインクは文字を書き終え、完全に乾くと深い緑を帯びるように調合してある。緑のインクではないのに、書き終えると「やや緑がかっているか?」と思わせるギリギリの塩梅が難しかった。

 それから四年、今度は白鳥潤一郎さんが『「経済大国」日本の外交』でサントリー学芸賞を受賞された。戦後、国際社会への復帰を進める日本を襲った石油危機を背景に、「資源小国」が展開した外交戦略の全容を描いた好著である。

 この時、白鳥さんに贈った「A Letter S」(Sという文字)は、本当に僅かに紫を帯びるように調合された深いブルーブラックである。

 私は、既成のブルーブラックインキがあまり好きではなく、自分の万年筆に入れたことがなかった。自分でも使える、ちょっとだけ遊び心を加えたブルーブラックインキが調合のコンセプトだった。

 これらはコンバーターで吸い上げ、「A letter I」はウォーターマン・レタロンリュネール、「A Letter M」はパイロット・カスタム742、「A Letter S」はモンブラン149という、私のメイン万年筆の中に収まっている。

 それぞれの色には名前と共に、作成したときのナンバーが振られ、この番号でセーラーのインク工房に申し込むことにより、補充のインクを作ってもらうことが出来る。

 手紙を書くたび、サインをするたび、文字の色合いにそのインクを作ったときの喜びを思い出し、胸に誇りを取り戻した私は、苦渋を乗り越えて再び本作りに立ち向かうのである。

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