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博論の書籍化について

(20200224記)

 これは博論を初めての単著として出版する場合に限った話として聞いてください。

‪ 出版社に博論ベースの公刊を相談するなら、せめて「これが私の出版したい原稿です」という「著者段階での完全原稿」を見せてください。これは最低限のマナーだと思うのです。

 私がまだ駆け出しのへなちょこライターだった頃、営業がてら編集者の呑み会に顔を出して「なんか仕事くださいよー」みたいなことを言ったら、先輩たちにピシャリと「自分にはこういう原稿が書けます、こういう企画があるので相談させてください、と言わなきゃ仕事なんか取れないぞ」と叱られました。

 喩えとしてもっとも適切かどうかは怪しいですが、そんな感じ、気持ちだと思ってもらえれば良いかと。

 極端な話、博論は(主査、副査などはいようとも)「先生」という、たった一人の読み手への手紙で、書籍は顔の見えない「読者」への手紙なのです。文章の背景もそこに至る過程もわかってくれている人と、そうでない人相手では、物事を伝えるために用いられる言葉も表現も、話の組み立てさえ自ずと異なるはずです。

 専門書といえど不特定多数に読者の裾野を広げようとするとき、そのまま世に通じる博論などそうありません。それを意識した上で、どういったレベルのどんな読者に、どんな風に読んでほしいのかを勘案した文章や構成の練り直しは必須で、それができるのは著者だけです。

 たとえば「博論の書籍化や出版助成の申請にあたっての一般的な注意事項を教えてください」という話ならいくらでもお付き合いできるのですが、「どうしたらこの博論を本に出来ますか」とか「博論を出したがっている知人がいるので相談に乗ってやってほしい」といった漠然としたお話は、じつはちょっと困ります。‬

 編集的には、刊行のお約束が出来ないのに文章の仕上げにあれこれ口を出して、いざダメだったときに、他社ではその仕上げが好まれず、作業が無駄になったり、さらなる改稿を求められたりする可能性があるのが申し訳ないと思います。

 ビジネスマンとしては、その相談や手入れにいくらのコストがかかるか無自覚な人とお付き合いするのは正直気が重いです。

 刊行できるかもわからない、原稿が仕上がるのがいつになるのかもわからない茫漠とした話に付き合い、さらにそれを刊行にこぎ着けるためには会社を説得しなければなりません。そこまでの作業は多くの場合、編集者の個人的持ち出しである可能性があります。

 それでも、編集者を駆り立ててくれる原稿ならいいでしょう。「なんとしてもこの原稿は自分が世に出すのだ」と思える著者との出会いは編集者にとって何事にも代えがたい幸せですから。

 だからこそ、著者の「これを世に送りたい」という強い意志を感じたい訳です。私が完全原稿にこだわるのもそれが理由です。「博論がありますのであとは如何様にも手を入れてください」なんて言われてしまうと「それ俺の仕事!?」と思ってしまいます。

 最近たまに「千倉書房から本を出したい」と仰ってくださる方がいて、涙が出るほど有難いのですが、私の力不足に加え、以前のようにただ編集のことだけを考えていられる時間が減ってきているため、なかなか芳しいお返事ができません。

 学術・教養出版を取り巻く状況が厳しさを加える中で、少しでも多くの著者、テーマと出会い、それを少しでも多くの読者と繋げるお手伝いをしていきたいと考えている編集者は私だけではありません。が、その多くが大なり小なり私と同じような悩みを抱えていることも事実です。

 博論の出版を検討しているかたは、文章の推敲とともに、書物を世に送ることの意味と責任、それを編集者と分かち合うための覚悟といったことについても是非ご一考いただければ幸いです。

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