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シリーズ一〇〇冊

(2022/09/07記)

 かねてより愛してやまない三月書房の小型愛蔵本シリーズ。

 作家に学者、編集者に経済人、歌舞伎俳優から劇作家まで、練達の書き手がものした洒脱なエッセイや滋味深い掌編小説、句集や歌集、台本などを収めた同シリーズが、このたび一九六一年のスタートから六〇年かけて一〇〇冊目の刊行という節目にたどり着きました。

 先日、社主の渡邊徳子さんから、一〇〇冊到達を記念する展示&イベント開催のお知らせをいただいたのを機に、自分が何冊コレクションしているか数えてみました。

 すると結果は六〇冊(確かに買ったはずの作品が四点見当たらない気がする…)。数字だけ見ると半分は持っているようですが、じつはダブりが一一
冊あるので、正確には四九点六〇冊というべきなのでしょう。

 ダブりが一一冊って多すぎない? と思うかたもいるかと思います。しかしこれには理由があります。

 本シリーズは通常版の他に部数限定の特装版を出すことがあって、同タイトルながら、装丁・造本に用いられる資材、技法がまったく異なる二種の本が存在するため、どちらも手元に置かなければ気が済まない、ということが起こるのです。

 たとえば一九六四年に刊行された奥野信太郎さんの『おもちゃの風景』は、通常版とは別に「四七/一〇〇」のロットナンバーが入った特装版を持っています。

 他にも池田弥三郎さんの『わたしのいるわたし』(一九七三)は通常版と特装版「二四/一〇〇」。松永伍一さんの『随筆玉手箱』(二〇〇三)は通常版と特装版「八八/一〇〇」といった具合です。

 中には特装本を二冊持っている扇谷正造さんの『新感字時代』(一九八五)のような例外もありますが、これはロット「七八/五〇〇」と「一四〇/五〇〇」のうち、先に購入した後者が乱丁本だったので買い直したのです(むしろ乱丁本のほうが貴重かも……)。

 また通常版を二冊持っている江藤淳さんの『犬と私』(一九六六)の場合は、井上光晴さん宛の為書が入った本を持っているにもかかわらず、古書店で北杜夫さん宛の為書が入ったモノと出会ってしまい、ついつい購入してしまった次第。

 一九二六年生まれの井上さんには細字の万年筆で「井上光晴様 江藤淳」と記しているのに、一九二七年生まれの北さん宛には「北杜夫様 淳」とサインペンで書いてあったりして、それぞれの距離感を感じさせるのも面白い発見です。

 為書と言えば、私が持っている網野菊さんの『随筆冬の花』(一九六二)には森田たまさん宛の、室生朝子さんの『杏の木』(一九六六)には網野菊さん宛の一筆が入っています。

 これで森田さんの本に室生さん宛の為書があったら三すくみ……というわけでもないのですが、残念ながら森田さんは本シリーズから書籍を刊行されていないのでした。

 網野さんの特装本は七一/一八八。特典として「生きて居る/うちの命ぞ/菊日和」と染め抜かれた風呂敷が同梱されています。

 入手できた特装本の中で一番ロットが早いのは、一九七五年刊の木俣修さん著『煙、このはかなきもの』で、「二/一三六」。

 このあまりにも早いロットを付された本書には「章へ 父」と為書があって、もしや慶應義塾にいらした木俣章先生は、もしかして木俣修の息子だったか、と思い調べましたが今のところ尋ねあたりません。

 ロットの早さでいうと、二番目は一九七〇年に刊行された萩原葉子さんの『望遠鏡』です。こちらには「三/一〇〇」というラベルが入っています。

 この本の装丁は葉子さんの長子で、私の学生時代の恩師の一人である、萩原朔美先生です。紺の革張りに望遠鏡の形の箔押しが実におしゃれでカッコイイ。

 その朔美先生も二〇〇二年に本シリーズから『毎日が冒険』を刊行されているので、いずれ機会があればサインをお願いしたいと思っています。(その節はよしなに…)

 特装版は「五七/八〇」ですが、こちらにはすでにサインと落款が入っているので、改めて一筆いただくなら通常版もありかと思っています。

 私は三月書房を、現代の出版業界におけるひとつの極だと確信しています。

 悠揚迫らぬ刊行ペース、資材と技術を突き詰めた美しい造型、掌中に収めたとき感じる得も言われぬ充足感と愛おしさ。

 手に取り頁を繰るたび、これぞ書物という気持ちになります。なにより、これを六〇年継続してこられた歴史に頭が下がります。

 一〇〇冊到達を言祝ぎ、九/二一~九/二七に神保町ブックハウスカフェで行われる原画展には私もお邪魔したいと思います。

 みなさまもご都合が許せば是非!

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