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人名の母国語読みについて

(2022/07/18記)

 一九七〇年代に小学生、八〇年代に中高生であった私にとって、李承晩は「りしょうばん」である。「李承晩ライン」は「りしょうばんらいん」。受験勉強のとき、そう習った(笑)。

 「いすんまん」と言われると、誰のことだったか思い出すのにちょっと時間がかかる。同じく朴正熙は「ぼくせいき」で、「ぱくちょんひ」だとピンとこない。全斗煥も「ぜんとかん」だ。意識の中で「ちょんどふぁん」が先に出てくることはない。

 しかし一九八八年に大統領となった盧泰愚は「のてう」で、彼を「ろたいぐ」と呼んだことは一度もないし、金泳三も「きむよんさむ」であって「きんえいさん」ではない。

 面白いのは、その二人の後に大統領となった金大中で、彼は私の中では「きんだいちゅう」なのだ。「きむでじゅん」も使うには使うが、なんだか、自分の知っている人物とは違う人のような気がしてしまう。

 おそらく、金大中を知ったのが盧泰愚よりも金泳三よりも前、KCIAによって日本から拉致された「金大中氏事件」(一九七三年)がきっかけだったからだろう。

 以降の大統領は、盧武鉉「のむひょん」であり、李明博「いみょんばく」であり、朴槿恵「ぱくくね」であり、文在寅「むんじぇいん」である。

 彼らを「ろぶげん」とも「りめいはく」とも「ぼくきんけい」とも、無論「ぶんざいいん」と読んだこともない。もはやそんな読み方をする日本人はいないだろう(笑)。

 三つ子の魂百まで、というやつで、ようするに名前を憶えた時期によって、日本社会一般での朝鮮人・韓国人の名前の読み方が変わっているわけだ。

 メディアが朝鮮人・韓国人の名前を母国語読みするようになったのは、北九州在住の在日朝鮮人の牧師が一九七五年に起こした裁判がきっかけだったというのが定説になっている。

 朝鮮人の姓名を日本語読みで報道したNHKを、「姓名は個人の人格と民族主体性の象徴。当然、母国語読みで呼ばれるべきであり、故意に日本語読みをしたのは、人格権を侵害し、民族の誇りを傷つけた」として提訴したのだそうだ。

 最高裁まで争われた裁判は、氏名は「人格権の一内容を構成するものというべき」としつつも、「他人に不正確な呼称をされたからといつて、直ちに不法行為が成立するというべきではない」として違法性を否定し、上告を棄却している。

 しかし、その後、徐々にメディアは朝鮮・韓国語読みを導入し、何年かするうちにそれが定着した。このときの判決が以下のようにその問題点を指摘してくれていたにも関わらず、である。

「外国人の氏名の民族語音を日本語的な発音によつて正確に再現することは通常極めて困難」で、「民族語音による方法によつて呼称しようとすれば、社会に複数の呼称が生じて、氏名の社会的な側面である個人の識別機能が損なわれかねない」。

「民族語音によらない慣用的な方法が存在し、かつ、……慣用的な方法が社会一般の認識として是認されたものであるとき」には、「氏名の有する社会的な側面を重視し、我が国における大部分の視聴者の理解を容易にする目的で、……慣用的な方法によつて呼称することは、たとえ当該個人の明示的な意思に反したとしても、違法性のない行為として容認される」。

 私など暢気なモノで、韓国や中国で自分の名前が現地語読みをされても、「そんな風に読むんだ!」と面白がってしまうし、友人がエジプトでヒエログリフの名前入りTシャツを買ってきてくれたときは、かなり気に入って長いこと着ていた。

 自分は「神谷竜介」だが、「かみやりゅうすけ」でも「カミヤリュウスケ」でも「KAMIYA Ryusuke」でも「𓂓𓏇𓇋𓄿𓂋𓇋𓍢𓍢𓋴𓍢𓎡𓇌」でも 機能的、心情的に問題を感じない。

 そこに侮蔑的なニュアンスを込められたら良い気分はしないに決まっているが、各国においてそれぞれ独自の読みはあろうし、そう呼ばれたからといって民族の尊厳を傷つけられた、とまで感じることは正直難しい。

 もちろん、すでに三〇年以上も続いている朝鮮・韓国人の母国語読みを元へ戻そうなどと言うつもりは毛頭ない。仮に日本語読みに戻したところで、今や「尹錫悦」という漢字を「いんしゃくえつ」と読める日本人などごく少数だろうし(笑)。

 では、なぜ長々とこの話を書いてきたかというと、専門書の編集に当たって欠かすことの出来ない「索引」、人名索引が朝鮮・韓国人に限っては、母国語読みのため、ほぼ機能不全に陥っていることを言いたいが為である。

 金さんたちは「きん」が「きむ」になる。朴さんたちは「ぼく」が「ぱく」になる。この場合はまだ、カ行、ハ行の中に収まるが、李さんは「り」から「い」へ、盧さんたちは「ろ」から「の」へ、つまりラ行からア行やナ行へ移動してしまう。

 崔さんたちはサ行の「さい」からタ行の「ちぇ」へ、文さんたちも「ぶん」から「むん」に変わってハ行からマ行にお引っ越しだ。

 そんな奴が学術書を読まないだろ! という突っ込みはご容赦いただきたいが、もし仮に文在寅を知らない読者が、この人物は本書において他のどのページに登場するのかしら、と思ったとき、現在、ハ行に「文在寅」はいない。

 「尹錫悦」を人名索引で引こうと思ったら、これを「ユン・ソンニョル」ないし「ユン・ソギョル」と読むことを知っていなければならない(ヤ行を探さなければならない)、という事態が起こっているのだ。

 たまたまサンプルを大統領名にしているから、その名前を知らない奴はいないだろ、と思われるかもしれないが、有名無名を問わず他にも学術書に登場する朝鮮人・韓国人はいくらでもいる。

 数は少ないが特殊な命名もある。そもそも名前の母国語読みを知らなければ索引を引けないというのは如何にも具合の悪い話なのだ。

 私の場合、「盧泰愚」前と後で自分の中にある韓国人の名前のイメージが変わってしまっているので、索引を作りながらいつも違和感に苛まれる。

 索引の本来的機能だけを考えれば、日本人にとっては漢字読みがもっとも汎用性が高い。そのことが人格権を侵害したり、民族の誇りを傷つけたりする行為だとはまったく思わない。しかし、創氏改名のトラウマに始まり、これまでの様々な経緯からそれは出来なくなってしまった。

 利便性を追求するなら、逆に本文の表記を全てカタカナにするという方法も考えられるだろう。最初から「ノテウ」としてしまえば、索引も「ノ・テウ」で引ける。

 しかし、それも何だかなぁ、という気はする。漢字名によって醸し出される同じ文化圏に対する親しみのようなものが失われ、ただでさえ距離が開いてしまっている日韓関係をさらに遠ざけてしまうように思われるからだ。

 ちなみに中国の人名については、未だ漢字読みで引いている。「習近平」は「しゅうきんぺい」だし、「毛沢東」は「もうたくとう」だし、「鄧小平」は「とうしょうへい」だ。誰からもそれを咎められたことはない。

 そんなことをFacebookに書いたら木村幹先生から、韓流タレントなどは二〇〇三年の『冬のソナタ』のペ・ヨンジュンあたりから、すでに長らく「漢字なし、カタカナのみ」になっているのだから、そろそろ政治家などの名前も同じ扱いにすれば良いのだと思う、という身も蓋もないコメントが……(苦笑)。

 しかしそのせいで急に気になって、ペ・ヨンジュンの漢字表記を調べたら「裵勇浚」でビックリ! 「はいゆうしゅん」も然りながら、この重々しい字面じゃ、ちっとも色気を感じない……

 ペ・ヨンジュンをめぐっては、当時お笑い芸人が「ヨン様と呼ぶのはおかしい、ペ様と呼ぶべきだ」とツッコんでいたことを思い出す。ペ様はもちろん、はい様でも、ゆう様でも、あの大フィーバーは起こらなかっただろうなぁ。

 それにつけても日韓関係、なんとも難しいことになってしまった、という、寂しさとも徒労感ともつかない気持ちを抱えながら、今日も私は索引を引く。

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