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福沢研究の歴史的転換

(2004/09/10記)

 高橋箒庵といっても何者か知る人は少ないだろう。1986年に京都の思文閣が出版した『万象録』という箒庵の日記を見せられたのはかれこれ5年前、水上勉さんの勘六山房でのことだ。

 そのときは箒庵が福沢諭吉晩期の高弟であること、溢れんばかりの文才を惜しまれつつ実業界入りして名を成したこと、などつゆ知らず、水上さんの解説に聞き入るばかりだったが、先日、箒庵の本名、高橋義雄を久しぶりに目にした。平山洋さんの『福沢諭吉の真実』(文春新書)においてである。

 近代日本が生んだ最大の知性である福沢諭吉だが、多くの啓蒙書・思想書をものする一方でアジア蔑視、中国大陸侵略を肯定する瑕瑾とも言うべき文章を少なからず書き残している。そのため日本の福沢研究の歴史とは、そのどちらに重きを置いて評価の軸とするかというせめぎ合いの連続だった。

 現在刊行されている福沢全集にも、この手の文章が多数収録されているのだが、ここへ来て、それを書いたのが本当に福沢自身なのか疑問を投げかける研究書が現れた。もっとも福沢研究の動向に明るいわけではない私など、「慶應義塾も福沢研究者も岩波書店も、すべてが気づかなかった全集と伝記に仕掛けられた巧妙なトリック」という帯のコピーを読んでも、いったい何が問題になっているのか分からないままページをめくったのであるが。

 正直、読み進めながら息をのむ思いだった。そもそも慶應義塾が企画・編纂し、岩波書店が刊行した全集に、福沢が書いていない、承知してもいない文章を真筆と偽って潜り込ませたり、明らかに福沢が承知した上で箒庵ら高弟が執筆した文章を載せないなどという作為が挟まれている可能性など想像もできなかったのである。

 犯人(?)にはいくつもの目論見があったようだ。著者は犯人が、自分の書いた文章を全集に入れることで福沢の名をより高からしめることができると信じ(善意)、自身の思想・言説を大福沢の名の下に世に送ろうと考え(功名心)、自分より能力に勝り福沢に愛された人びとの文章を落として唯一の後継者としての立場を固めようとした(嫉妬)のではないかと分析する。

 そしてその過程で全集に潜り込んだいくつかの福沢真筆とされる文章こそが、後世の福沢評価を二分させた「アジア蔑視、中国大陸侵略を肯定する多くの文章」に他ならないのである。犯人が抱き続けた熾き火のような情念と伝記と全集に相互の信頼性を補完させる、証拠隠滅の巧妙さには驚きを隠せない。

 もしも犯人が、犯行の舞台となった「時事新報」において福沢の最終的な後継者とならなければ、このようなことはなかったに違いない。誰よりも思想の方向性が似ていることで福沢に愛された箒庵高橋義雄。初代主筆であり福沢の甥にあたる中上川彦次郎。後年外交官として知られるようになる波多野承五郎。箒庵と並び評されながら30歳で没した渡辺治。伊藤内閣といわれるほど巧みに総編集を勤め上げた伊藤欽亮。他にも菊池武徳、北川礼弼など、犯人よりも文筆・編集にすぐれ、福沢に評価された記者は大勢いた。

 しかし彼らは有能故に実業界、政界に転じて福沢と袂を分かった。そのことが、最後まで「時事新報」に残った犯人の相対的な立場を高め、慶應義塾が全集の編纂者、伝記の執筆者として起用する根拠となり、その後100年におよぶ、福沢への毀誉褒貶の歴史を招来するとは、箒庵をはじめとする高弟一同、予想だにしなかっただろう。

 こういう男の情念を軸に福沢晩期をめぐる人間関係を、時代背景を踏まえながら小説に書けるとしたら誰だろう。司馬遼太郎さん風ではダメだ。有吉佐和子さんの『和宮様御留』(講談社文庫)みたいなタッチだと面白いと思う。

 水上さんだったら誰の名前を挙げただろう。高橋箒庵の日記を撫でながらニヤリと笑って、もう少し若ければね、と呟いたかもしれない。そして楽しげに、ボクだったら犯人の目線で書くね、と付け加えるような気がする。詮なき夢想ではあるが、常識を覆す研究書と出会うと、そんなことを考えずにはいられないものである。

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