如何なる戦後を共有するか

(2010/11/23記)

 渡邉昭夫さんや御厨貴さんとお話ししていると、ときどき思い出したように「戦後はいつからいつまでか」という話題になる。体験や印象を交えて碩学たちが語る戦後問答はなかなか含蓄に富んだものだ。

 いつ始まって、いつ終わるのか、もう終わっているのか、いつ終わったのか? 同時代的に考えれば一九八九年の冷戦終結がエポックであることは間違いないのだが、それ以前にもなにやら線引きがありそうな気配がする。

 トニー・ジャッドは大著『ヨーロッパ戦後史』(みすず書房)を一九四五〜一九七一年と、一九七一〜二〇〇五年にわけた。

 それは、日本においても「一九七三年頃から、それまでとは何か違うという空気が出てきた」という渡邉さんの証言や「一九七〇年代から戦後歴史学のパラダイムが少しずつ通じなくなっていった」という升味準之輔さんの言葉、あるいは「一九七二年には日米欧委員会の『成長の限界』が出て、リソースの枯渇は明らかだった」とする村松岐夫さんの洞察とも符合する。

 その伝で言うと、二〇〇〇年代初頭に刊行された中央公論社の「日本の近代」が戦後を三つに区分しているのは示唆的かもしれない。五百旗頭真さんの担当した第六巻『戦争・占領・講和』が一九四一〜一九五五年。猪木武徳さんの第七巻『経済成長の果実』が一九五五〜一九七二年。そして渡邉さんの第八巻『大国日本の揺らぎ』が一九七二年以降、という分担である。

 当初、中央公論社から渡邉さんに与えられた第八巻の題目は「国際化の試練」だったそうだ。六巻の戦後復興、七巻の高度成長のように、その時期を端的に切り出すキャッチフレーズが見いだせず、渡邉さんは困ってしまったらしい(貿易摩擦、では矮小過ぎる)。苦しんだあげくに思いついたのが、「大国日本の揺らぎ」だった。渡邉さんは「じつは揺らいでいたのは僕自身だったんだ」と声を上げて笑う。

 戦後をどう捉えるかは、近代の理解とも関わる。おそらく「戦後」は「近代」という歴史的スパンの一部を指すはずだからだ。学生時代、私に近現代美術史を教えてくれたのは菅木志雄さんだった。彼は近代(モダーン)後の流れを「ポストモダーン」「レイトモダーン」「テクノロジ」の三つに腑分けしてみせた。

 ハーバーマスなど持ち出しては風呂敷を広げすぎかも知れないが、近代のプロジェクトに目を向けがちな我々は「近代後」に入ったことを知りつつ気づかないふりをして、そのくせ不安だけは隠しきれずにいるのかもしれない(ポストモダーン?)。

 一方で雨宮昭一さんの言うように、戦後が終わらないのは世界に敷衍された戦勝国体制(=米国の時代)が終わらないからであり、それが続く限り「戦後」もまた続く、という意見も当然ありうるだろう(レイトモダーン?)。

 東京オリンピック前後という区分で戦後に一つの劃期を求める平川克美さんの「問題は成長戦略がないことではなく、成長しなくてもやっていけるための戦略がないこと」という指摘を、ゼロ成長が続く、そして今後ふたたび大きな成長が訪れることの決してない日本で、私たちは如何に聴くべきだろう(テクノロジ?)。

 平川さんは近著『移行期的混乱』(筑摩書房)のなかで、経済成長率に注目し、平均成長率九・一%の一九五六〜七三年(一八年間)、三・八%の一九七四〜九〇年(一七年間)、一・一%の一九九一〜二〇〇八年(一八年間)という新たな区分の存在を示唆している。いずれこれもきちんと検証してみたいところだ。

 個人的には、近代や戦後はすでに丸山眞男のいう「古層」に浸透し始めているのではないかという疑いを持っている。「長すぎる戦後」は、もはや日本人の思想の原型や執拗低音として働いているのではないだろうか。

 長い長いと文句を言いながら戦後を歩いていたら、ふと気づくとそこは戦前だった、などということのないように、政治と外交を歴史的に位置づける作業を怠ってはならない、と自身を戒める晩秋の午後である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?