感傷的な読書

(2012/09/03記)

 つい先日、夕食を終えた後、書斎で数年ぶりに野村美月さんの『文学少女』シリーズ(ファミ通文庫)を手にとったら止まらなくなり、全八巻を読み切ってしまった。

 二一時に読み始めて朝五時まで八時間ノンストップ。さすがにもう十代の頃のスピードでは読めないが、ライトノベルを読みふけって朝なんて、やってることは集英社のコバルト文庫や朝日ソノラマにはまり込んでいた中学時代とあまり変わっていない気もする(苦笑)。

 とはいいながら、ここまで徹底的に没入したのは中学二年生の一〇月に新井素子さんの『絶句』(早川書房)を読んで以来かもしれない。三〇年ぶりと言うことか。

 この『文学少女』シリーズは、私がここ一〇年の日本のライトノベル史上でも五本の指に必ず入ると考えている名作だ。

 本編は『文学少女と死にたがりの道化』『文学少女と飢え渇く幽霊』『文学少女と繋がれた愚者』『文学少女と穢名の天使』『文学少女と慟哭の巡礼者』『文学少女と月花を孕く水妖』『文学少女と神に臨む作家』上・下巻の七タイトル、全八冊からなる(この他に短篇集四冊、外伝四冊がある)。

 主人公の少年は十四歳のとき、ある文芸賞の大賞を受賞する。そのことが原因で最愛の女性を失い、心に深い傷を負った彼は、たった一冊のベストセラーを残して筆を折ってしまう。

 その傷ついた魂を救い、再び物語を紡ぐように導くのが主人公の入学した高校の一年先輩であり、文芸部長であるヒロインだ。

 彼女は本を読むと、そのまま実際に本を食べて味わってしまうという「文学少女(ヒロインの自称)」もしくは「妖怪(主人公の皮肉)」だが、物語を味わう評言は鮮やかで卓抜している。たとえば……

「ギャリコの物語は、火照った心をさまし、癒やしてくれる最上級のソルベの味よ」

「(エイキンの)『三人の旅人たち』も、新鮮なフルーツのようだわ。金色にはじけるオレンジ、爽やかなシトロン、宝石のようなマスカット。それを口の中でつぶして、たっぷりこぼれ出てきた冷たい果汁を味わう感じ」

「『野菊の墓』は、摘み立ての杏の味ね。夕日に照らされた畦道で、茜色に染まった杏の実を、指先で優しくつまんで口に含み、そぉっと歯を立てる感じなのっ」

「志賀直哉の作品が、名人が打った喉越し滑らかで腰のある究極の蕎麦なら、有島武郎の作品は、レモンをかけていただく、ねっとりした生牡蠣。里見(弴)は、表面がつるつる滑る里芋の煮っ転がしみたい」

 といった具合だ。

 本作に登場する作品を読んでいる人にとっては、ヒロインの言葉が絶妙だったり、少し外していたりするのが面白いだろうし、どの部分をつまんでいるか読み返す楽しみもあるだろう。

 そしてヒロインは、ジッド、宮沢賢治、太宰、ブロンテ、武者小路、泉鏡花……、古今東西の小説の筋立てを引き、そこになぞらえながら、主人公を取り巻く、心に傷を抱えた人々を包み込み、救ってゆく。

 主人公がなぜ小説を書き、文学賞に応募したのか、彼はなぜ物語を紡ぐのか、という問いを通奏低音にストーリーは展開する。それは、ふたたび主人公に小説を書かせようとするヒロインとの距離とも深く関わっている。

 本シリーズは、少年と少女の成長の軌跡であり、傷ついた人々の恢復の階梯であり、形は様々な、でも純粋な恋の行方であり、瞬く間に失われて戻らない鮮烈な青春のスケッチであり、軽妙で味わい深い文学への誘いである。

 じつはその日まで、私はシリーズ本編の最終話となる『文学少女と神に臨む作家』を持っていなかった。もちろん二〇〇八年秋に、予告通り刊行されたことは知っていたのだけれど……。

 六作目の『文学少女と月花を孕く水妖』が、そのエンディングで最終的な主人公たちのあり方についてネタバレしてしまっていたのが気に入らなかったこともあるが、それ以前に、私はこのシリーズを読み終えてしまうのが惜しくて惜しくて、最後まで読み切れなかったのだ、この四年というもの。

 しかし午前二時を回って、ふたたび六巻を読み終えてしまった私はついに観念し、傍らの ipad を取り出し、角川 BOOK WALKER アプリを立ち上げた。すごい世の中になったモノだ。午前二時に TSUTAYA へ行くでもなく、書斎に居ながらにして望む本を即座に入手できるのだから。

 ダウンロードには二〇秒もかからなかった。物語に帰った私は深く静かに沈潜していった。

 ため息と共に七巻が終わる。最終巻を立ち上げ、画面をフリックして読み進める。そして主人公がヒロインと叔母と母親の相克を少しずつ解きほぐそうとしているとき、私はとんでもないことに気づいた。

 この展開はどう考えても、もはや最終盤だ。

 私は ipad を置いて考えた。とんだ落とし穴だった。どんなにフリックがよく出来ていようが、めくった瞬間ぱらりと音を立てる機能が付いていようが、ipad では物語をどこまで読み進めたか直感的にわからない。

 もちろんちょっと画面を動かしてページ数を確認すれば、全何ページのどこまで来ているかはデジタルでわかる。しかし、それを見るためには一手間の作業がいる。

 少なくなってゆく残りページを掌中に、苛立ちとも悲しみともつかないもやもやした気持ちを抱き、あぁ、もう終わってしまう、主人公たちと共にしてきた時間が終わってしまう、このまま終わらないでほしい、と思いつつページを繰る手を止めることは出来ない、物狂おしさにとらわれるあの感覚。物語は必ず終わりを迎える、という現実と諦念。

 読書の愉楽のひとつと言っていいだろう、あの感覚が、こんなによく出来ている ipad にはなかったのだ。うっかりしていた。気づかなかった。いや、理屈としてはわかっていても、実感がなかったのだ。なんだろう、この残念な気持ち。

 私が ipad で読むのは、自分の担当書かゲラ、あるいは専門書が大半だ。文芸書から、ライトノベル、マンガまでフォローしていてはお金も時間も足らない。数年前、宝島社の『このマンガがすごい』の執筆陣を降りたのを契機に私は趣味の読書を大幅に減らした。

 仕事の読書の面白さは理屈に由来し、感覚のものではない。だから必要なときに読みはじめ、いつでもやめることができる。そこにためらいや愛惜は多く入り込まない。

 そんな私に、物語の醍醐味を、甘く懐かしい読書の感傷を思い出させてくれただけでも、やはり本シリーズは名作だと思う。

 結局後日、私は最終話となるニ冊を文庫本で買い直した(苦笑)。

 読みかた、騙されかたにコツがいるライトノベルを、誰にでもお勧めしようとは思わない。でも、ふと高校時代を思い出し、なーんかあの頃、訳もなく楽しかったなぁ、などと思ってしまったことのある、元文化系クラブ所属のアラフォーにはそう悪くないはずである。

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