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沈黙を共に

今年の9月から毎月開催していた夜の本屋さんイベント「BOOKSHOP NIGHT」
今年最後の第四回が一昨日開かれた。

BOOKSHOP NIGHTは、夜の本屋さんを真っ暗にして、お客さんにランタンを配り、暗い本屋を楽しんでいただくイベント。
回ごとに出し物があり、第三回までのそれは毎回音楽ライブだったが、今回の出し物は演劇だった。ゲストに演劇企画ニガヨモギという劇団を呼び、夜の本屋さんでお芝居を披露していただく。
となると、自分も何か芝居っぽいことがしたい。と思い、落語をやることにした。
やることにした、とか言っているけれど、別にやったことはないし、詳しいわけでもなかったし、実際にやったものも、「あんなの落語じゃない」と言われたら反論する気も起きない。ですよねすみませんって感じである。
それでも、自分の中であの演芸をカテゴライズするのなら、落語が一番近いと思う。要は、自分で作った物語を、ナレーションとして話すのではなく、登場人物を演じたりもしながらお客さんに話していく、というのをやりたかったのだ。

弾き語りをやっていて、ライブをよくする。
ステージにはひとりで立つことが多いし、ライブでやることは演奏だけじゃない。自分の歌が望んだ形で響く環境を作るために、喋ることもあるし、身体表現も必要になるし、沈黙を使って空気を作ることだってある。
なので、落語は初めての経験ではあったけれど、経験値が全くないわけではなかったと思う。
しかしいざやってみると、やっぱり色んなことが新しい。新しくって難しかった。

一番に感じた難しさは、「スピード」だった。

初めて作った創作落語は「象」というお話で、主人公の男と少年との会話劇。
男が喋り、それを受けて少年が答え、また男が応じる。このふたりの会話のテンポに、自分の役の切り替えが追いつかない。
多少の掛け合いはあるものの、「象」はだいぶスローテンポなお話だと思う。けれどそれでも、男が放った言葉を少年で受け止めたいのに、男から少年に切り替えるのが全然間に合わない。話の流れに自分の体が置きざりにされる。なにこれむずい。

ここでやっと、研究の目で落語をいくつか見てみる。すると、わかりやすく自分が「やってしまっている」ことに気付く。
利根川風太は、明らかに動きすぎていた。自分の動きでなく、落語家の動きを見て気付く。なんかイメージしてたより動かない。どっしりしてる。
なんとなく、落語って台詞のたびに表情や目線、声色、顔の向き、体の形なんかがコロコロ変わるイメージだったけれど、意外とそんなことない。それら全部が変わるのはここぞというときだけで、多くの掛け合いは目線だけとか声色だけとか、部分的に切り替えて素早く進めている。と思う。

なんか本当に落語のことなんて何も知らないど素人なんだなあと再認識して笑ってしまう。
僕にとってはこんな発見も新鮮でした。

さてさて、そうなるとその先が面白そう。
そんな視線とか声色とか最低限の切り替えだけで演じ分けできるもん?でもみんなできてるね。なんで? という問題。
この疑問も自分なりに解決しました。
自分なりのやつをこれから書きますよ。

解決のきっかけは、落語を途中から見てみたこと。テレビでやっていた二本立ての落語の一本目を見終えて、そのあと10分ほどキッチンで皿洗いをして戻ってくると、二本目が始まっていた。まだはじめの方っぽいな、と思いそのまま見ていたが、これが本当に、何が何やらさっぱりわからなかった。

「途中から見るとわからない」

これが結構な衝撃だったので太字で書きました。途中から見るとわからないんですよ。
そんなの当たり前じゃんって思うこともそりゃできるんだけど、いやいやちょっとはわかるじゃん物語って。それがもう、本っ当にわからない。さっぱり。ついて行けなすぎる。
まず、登場人物が何人いるのかがわからない。そして主人公が誰なのかがわからない。
今話してたのは誰?さっきの人?
え、何歳くらいの人なの?どこに向かってるの?あ、終わった。みたいな。

この体験がめちゃくちゃ大きかったです。本当にあってくれて良かった出来事でした。

もしや、これまで落語を見ていて思っていた
「プロの落語家さんがやると、女の人も子供も、青年も老人も、みんなそれぞれちゃんとその人に見えるな。演技力だなあ…」
みたいな感心ってとっても浅かったのでは。

最低限の所作の切り替えだけで演じ分けができるのは単純な演技力だけではなくて、ストーリーへの理解と密接に関わっているのでは。
というか、観客側が話に引き込まれてゆく内にどんどん想像が広がっていって、情景やキャラクターのディテールを補完しながら落語家の演技を見ているのだとしたら。
落語家の演技が「そう見える」のは、それだけ話に引き込まれているからではないのか。

つまり、観客の心を掴むことが、最低限の所作で人物を演じ分けることを可能にする。

そうに違いない!

と思うことにして進みました。
演技ばかりを、その切り替えばかりを練習しても仕方ないのだ。ストーリーと話し方と、持っていき方と、もちろん演技と、色々あるけれどそれらはとても密接で。なんか全体なんだろうな。きっと。
でも要は、本番で自分が作る空気の中に引き込めば、そう見えてくるしそう聞こえてくるけれど、引き込んでいなければきっと、どんなに演技がうまくてもさっぱりわからんものになるんだろうと。わかりやすい、気に入った。

と、こういうプロセスを経て、なんとなく自分なりに「落語」というものを掴んだ感じがしました。
なんだかこんなに長く書くつもりはなかったけれど、こうして長くなったのだからやっぱりそこそこの道のりだったのだなあと思う。

本番の話します。

冒頭、いわゆるマクラの部分はとにかくテンポを上げてしゃべり倒し、男が黙って焚き火を見つめるシーンで一気にスッと沈黙する。というのが、創作落語「象」のひとつ目のツカミだった。
少し違和感が生じるまで続けよう、と決めていた沈黙の数秒の間、あの場に満ちていた空気を袋に詰めて持ち帰って自宅で鼻から吸い込みたい。ああ好きな空気だ、と思った。
観客の神経がこちらに対して伸びてくるのを感じるような、研ぎ澄まされて冴えたもので満ち満ちた空間だった。

そうだ、弾き語りのライブの時も、こんな風に沈黙を共有するのが好きなんだった。
なんて澄んでいて、安らかで、それでいて危うい時間なんだろう。
この時間を、ギターも持たず、身ひとつで作れるこの形は、なんだかぞくぞくするものがあるな。というのが、終わってみて一番に思ったことだった。これは面白い。またやりたい。


イベントについてもう少し書こうと思っていたけれど、「はじめてのらくご」でこんなに長引いてしまったので、またの機会にします。
BOOKSHOP NIGHTは本当にたくさんの未知のものを見せてくれたイベントで、しかもまだまだ可能性を秘めてますよ、まだ全然出してませんよって顔をしています。にくいやつです。

だので今後もお楽しみに。と胸を張って期待を煽れる。来年も面白い企みをしております。
引き続き気にしててください。
おわり。

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