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世界が大変だ

この馬の写真は彦根で撮ったもの。3年前、大河ドラマ「おんな城主 直虎」(NHK 17年)を放送しているとき、番宣的な感じで、笑福亭鶴瓶さんの「家族に乾杯」(NHK)に菅田将暉さんが出て、彦根をまわり、ふたりが立ち寄った神社に私も行ってみようと思って行った。

その時期、ちょうど、彦根城まつりをやっていて、神社の近くの学校の校庭では敵味方に分かれた合戦の出し物みたいなことをやっていたのだ。彦根城まつりだから、当然井伊家の武士たちが中心であろう。

「おんな城主 直虎」で菅田さんが演じた井伊直政のお父さん・井伊直親を演じたのは三浦春馬さんだった。直親に友情を越えた感情をもっていた直虎(柴咲コウ)は直親と結ばれることはなかったが、直政の後見人になる。

木俣家は、井伊家の城代家老の家系であると、子供の頃から祖父母に聞かされてきた。大河ドラマの第一作「花の生涯」(63年)は井伊直弼が主人公の作品であったことが木俣家の誇りであった。いや、そういう話をよくしていたのは祖母と叔母で祖父はそういうことはあまり言わなかったと記憶する。自慢とかひけらかしをとても嫌う人であったから。主に女達がおしゃべりの題材にしていたのだと思う。まあ、この件が自慢になるのかよくわからないけれど。

私は子供の頃、歴史の勉強で、開国派の井伊直弼は暗殺されたから悪者と思っていたら、祖母だか叔母に世の中にはいろいろな見方があるのだと諭されたことがある。そのとき、ことの善悪とは立つ場所によって違うものであることを学んだ気がする。また、その話をしたのが祖母だったか叔母だったか忘れてしまっているのだが、その口調と表情がいつになく真面目だったことは覚えている。その真面目さも、なんともいえない抑制されたというのか、なにかを静かに耐えているような、そんなものだった気がして、だからこそ覚えているのだと思う。

そんな思い出も混ざって「おんな城主 直虎」は楽しく見た。井伊家の人を演じたとりわけ三浦春馬さんと菅田将暉さんに親しみを感じながら。

その三浦春馬さんが2020年7月18日に亡くなった。あまりに突然に。なんの予兆もなく。

朝ドラ「エール」でプリンス久志役を演じている山崎育三郎さんの配信ライブを見ているときに、ネットニュースが流れてびっくりした。30歳という若さで、たくさん仕事が控えていて、その日は出演した映画の地上波初放送で、続編も23日に公開になるということで、配信特番も準備されていたが、特番は急遽中止になった。

私は三浦春馬さんの出たドラマのノベライズを書いたことがあるが、取材はそれほどしたことがなく、長らく密に取材してきた方々のショックとは比べものにならないと思う。だけど、なんだかすごくショックだった。

このショックは、小学生のとき同じクラスの男の子が交通事故にあって亡くなったときの感覚に似ている。その男子は背が高くスポーツが得意で人気者だった。私はその子と親しいわけでなくただ同じクラスの人気者という認識でしかなかったが、昨日まで教室にいた人が急にいなくなってしまったことの整理のつかないへんな気持ちが、三浦さんが亡くなったときの感じと重なった。

私はまるで小学生低学年の、まだいろんなことを何も知らず、なにかを語る語彙ももなく、ただただ立ち尽くすしかない小さな子どもに戻ったような気持ちで、18日はやたらとネットを見ていた。

気持ちが入り乱れ、急遽頼まれた追悼原稿、というのだろうか、俳優三浦春馬さんのこれまでの仕事を振り返る原稿をいくつか書き心を鎮めた。いやむしろ振り返れば振り返るほど惜しい気がして、ますます気持ちは混乱するばかり。最後に彼に取材した19年の原稿を読み返して、その明るい語り口に、そのときの表情が蘇ってきて無性に悲しくなったり……。このときの担当編集者さんが、長いこと彼と一緒に仕事をしている人だったからたぶんリラックスしていたと思うのだ。その編集さんのいまの気持ちを想像してまた沈んだ。

気づいたら今日は24日。もう1週間が経とうとしている。毎日毎日、いろんな記事が出ている。この日、出演予定だった「ミュージックステーション」で8月に発売が予定されている曲のMVが流れ、激しく踊っている姿に心から惜しいと思った。もともと巧い人だとは思っていたが、この数年、ぐんぐん力が増していた気がしていた。

ミュージカル「キンキーブーツ」やテネシー・ウイリアムズの「地獄のオルフェウス」などの翻訳劇を海外の演出家とやってからかなと思うのだが、持ち前の身体能力と若いエネルギーに、深い思考が加わって醸造されているような気がした。前にわたしは若手俳優のなかで「一馬身リードしている」という記事を書いたことがあったが、このままいったら、一どこから図抜けて先にいっただろうと思うと惜しいとしか言いようがない。

考えようによってはその最もいい時期に鮮烈な瞬間を真空パックして残したとも言えるのかもしれない。これこそが永遠で、伝説?

夭折するアーティストは古今東西いる。ロックミュージシャンは27歳で亡くなるというジンクスもある。若くして亡くなった俳優もいる。三浦春馬さんは、ヒース・レジャーのようだと思った。「ダークナイト」のジョーカー役で世界を震撼させ、当時、小栗旬さんをはじめとした若い俳優たちは表現を極限まで突き詰めたヒース・レジャーに憧れるという話を当時よくしていた。ヒース・レジャーは薬に頼ってそのせいで亡くなったので、三浦さんとは全然違うが、極限まで行ききったという点では、日本では、最もあの才能に近づいた人になったのかなと思った。

表現者に限らず、誰もが生きているなかで、生の極限まで自分をもっていくことを望むことがあるのではないか。そこまでできたら幸福な気がするけれど、そこまでいくのは難しい。そして果てしない希望も欲望も果てしない絶望も似ていて同じくらいの質量のあるエネルギーをどこに向けるかで行く先が大きく変わってしまう。

極限までのエネルギーを出しきって最上の幸福に近づくことができたなら……。


コロナ疲れと簡単にくくることでもないけれど、このコロナ禍は確実に、人のエネルギーを迷わせていると思う。エネルギーが出口をなくしてぐるぐるぐるぐると回っている。

私は土曜日の早朝、頭のなかで虫が暴れているみたいになって、わーっと叫んだら楽になるのか、それとも、そうした瞬間ぷつっと穴が空いて破裂するのか、どっちなんだろかと選択する恐怖を感じ、ベッドのなかでのたうっていた。破裂する瞬間を知りたいような気もしたが、知った瞬間にすべては終わるだろうこともわかっていた。

こういうとき、世界の、遠くの誰かが同じように苦しんでいることを考えて、その人たちが安らかであるように考えることでやり過ごそうとつとめていたが、その日はそれができなくて、自分だけ、膨れ上がった頭のなかをなだめて収め、起き上がり、コーヒーをいれて、いつもの原稿を書き始めた。2時からはじまる山崎育三郎の生配信を見るまでに原稿を書き終えようと急いだ。

コロナで自粛している間、夜中に叫びたいことが増えたが、ようやく外にもすこし出られるようになって、取材仕事もできるようになったのに、緊急事態宣言が出ていた時期よりもなんだかいまのほうが破裂しそう。

朝ドラレビューを書かなくなって23日め。休めると思ったがなぜか朝ドラを書いてるときよりも生活が荒れている。ルーティーンがなくなったからか。定年退職して急に生き甲斐をなくしたひとってこういうものなのだろうか。

適切に休むのにもエネルギーが要る。

朝ドラ「エール」が65回まで放送した後、休止して、1話からリフレインしているという事態は、時が巻き戻ったかのような、SF的な世界である。

先日、「あさイチ」で認知症の特集のとき、「エール」の再放送をはじめて見てると思い込んで笑っているお年寄りのことが心配という投稿があった。ものごとが正しい位置にないと、気が付かない程度、ほんのすこし斜めになっているだけでも気持ちが悪いもので、だんだん心身が不調になっていく。家の土台がほんのすこし傾いているだけで生活に支障が出てくるのだ。

1961年からずっと毎日放送されていた朝ドラが正しく放送されずに巻き戻っているリフレインしていることは、止まっていること以上に、世界に異変が起きている印なのだと思う。不条理である。

だから、GOTO とか外出の自粛とかダブルバインドみたいな政府の判断もおかしいし、梅雨もなかなか明けなくて「天気の子」が現実になってきているようで、いなくなってはならない大事な才能までいなくなってしまった、そんな気がしてしまう。しのつく雨音の合間に蝉の声が無理に分け入ってくるような数日。そういえば、ほんとうならオリンピックは24日が開会式だったらしい。来年に延びてしまったし、こんな状態でもほんとうにやるの? という感じでもある。なにもかもがおかしい。見たい演劇は席数が減少していてチケットが買えないし、そんな状況で制作の人にチケット取れませんか?と聞くのも憚られる。私は「スターウォーズ」より「ムーラン」が延期になってちっとも見られないことが残念だ。こんな短絡的なことを書いて、おいおい、頭、大丈夫か、コロナ疲れか、と思われそうだけど、なにかのせいにしないと、耐え難いおかしなことが多すぎる。

なお、三浦春馬さんの俳優デビューは朝ドラ「あぐり」(97)とされている。でも主要人物の子役時代とか、主人公の子供役とかではなく、ほんのすこし出るだけの役だったそう。ちゃんとした役割を担ったのは「ファイト」(05)だった。

朝ドラのムック本を2000年代の分は全部そろえていたはずがなぜか「ファイト」だけ見つからなかった。必要なときに必要ものがないのは日常あるあるだけど、一冊だけみつからないのが「ファイト」であるその空白がまた哀しい。

そうして私の部屋は地震で崩れたかのように無数の本が床に散った。






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