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2023.08.25

余韻の響く楽器が好きだった。それはグロッケンシュピールであり、チャイムであり、羽を回転させたビブラフォンである。特殊奏法ではあるのだけど、ビブラフォンをコントラバスの弓で弾く、というものがある。何の曲だったのかは忘れてしまったのだけど吹奏楽の練習室でそれを聴いて、うっとりとした。このうっとり、というのは我を失いそうになった、つまり忘我に近づいた、ということである。この作用を、当時のぼくはとても不審に思った。そこからグラスハープの存在を知り、メスメルの催眠術まで興味は広がっていく。それとは別に、仏壇のりんを鳴らすのも好きだった。これらに共通しているのは、その音の主役が実音ではなく余韻である、ということだ。あるときから、ぼくはそういうもののことばかりを考えるようになった。人生において衝撃的な事件というのはいくつもあった。しかし、それ自体を作品にすることはできない。ぼくは常にその余韻の最中にある。実体をもった「それ」は霧の向こうに隠れて、幽霊となったその気配だけがこの現実にはある。「それ」が自死を決行するような恋愛であることもあり、親しい人間の死であることもあり、あるいはアイドルやアーティストの存在でもいい。実体をもちながら質量を減らしていくそれは、やがて過去に消失する。後にはその余韻だけが残る。その余韻にこそ神聖が宿る。チャイムの音を聞くとき、ヒット音ではなくその余韻から「叩かれた瞬間があった」ということを逆に想起する。それは拍子が決まっている西洋音楽ではあまり存在しない作用だろう。ある時期からぼくは、そのように短歌も作っている。それが成功しているかはわからないけれど、もうぼくにはそのようにして聖性をとらえる、というのが唯一のやり方である、としか思えなくなっている。

話が長くなったけれど、つい最近新聞を読んでいたら六本木のサントリーホールで行われるガムランの演奏会が紹介されていた。ガムラン音楽とはインドネシアの音楽で、主に金属の打楽器によって構成されている「余韻」の音楽の主たるものだ。一時期は図書館でガムランのCDを借りて聞いていた。それを生で見れる機会というのはほとんどないだろう、と思い立ち、薬で朦朧としつつチケットをとった。

有楽町で『エドワード・ヤンの恋愛時代』を上映しているので見てから行こうかな、と思ったのだけど外が暑いのと洗濯物をしないといけないので、めげてしまった。コンサート自体は13時から20時までやっていて出入り自由なので、いっそゆっくり各駅停車で行こうか、と思い児玉雨子の『##NAME##』を読みつつ六本木へ向かった。

ハウススタジオの二階にある一室で、美砂乃ちゃんがニップレスシールを私に手渡しながら「てか台形の面積の公式知ってる?」と訊いてきた。

埼玉の緑地公園での水着撮影会についてのニュースで、ついでのようにジュニアアイドルが話題に挙がったのは2023年の7月。この小説はたぶんそれよりも早く書かれている。児玉雨子はアイドル楽曲の作詞家でもあるので、そうした世界を多く見ているのだと思う。この書き出しに提示されているけれど、ジュニアアイドルと性的消費というテーマがこの小説を貫いている。それを進める「毒親」、実名で活動したことが何年経っても響いてくる現実。だからこそ実名を、呼ばれるべき名前を空白に挿入できない夢小説の「##NAME##」。2017年の児童買春・児童ポルノ禁止法違反、でやっと作中作の「両刃のアレックス」が『るろうに剣心』とリンクすることに気づく。

原作者の古い写真を晒した上で、こんな容姿で女から相手にされるわけがないのだからせめて子供に走る自由を認めてやれ、という冷笑もあった。

ぼくはこのとき2ちゃんねるによくいて、非常に多くの人間がこのルッキズムを行使していたことを覚えている。それによって「両刃のアレックス」の作者は許されることはないけれど、大勢の大人が性器のメタファーとしてジュニアアイドルに向けるカメラは、転じて暴力として弱い同性へとも向かう言葉ともなりうる。「チー牛」「弱者男性」……。これはよく呟いてもいることだけど世の男性というのはアイドルに対してセックスをしたい、という感情を向けることが多いらしいし、時としてアイドルはそれに応じることがある。ぼくとしては信じられない、というよりも考えもしないことで、アイドルは身体を喪失することに他ならない、と思っている。そして、その光に照射されたファンもまた身体を失う。そういうものだと思っていた。事実、そういうところはあるだろう。では、ジュニアアイドルにカメラを向けることと、ぼくがアイドルを神聖視して「解釈」を加えることは何が違うのだろうか。

国会議事堂前で乗り換えだったので、ついでに国会議事堂の中の郵便局で手紙を出してきた。首相官邸の前には数人の警察官がいて、黒塗りの車が通るたびに大声で門を開閉していて、その反対側では基地移設反対のデモが小規模で行われていて、突き抜けるように夏で、とても変なところだな、と感じる。

サントリーホールに着く頃には汗だくでずいぶん気持ち悪かったけれど、中は涼しく人も多くなかったので快適だった。

インドネシアの小屋を再現
見たことの無い楽器
甘いジャスミンティー

サントリーホールにはインドネシアの小屋が再現されていて、周りには物販もあった。いわゆる前後のあるコンサートとは違って、四方を客席、というのか通路というのか、が囲んでいる会場だ。寝転んでいる人や本を読んでいる人も多い。中央の楽器は触ってもいいらしく、きんこんという音が常になっていた。トークイベントを挟んで実演にうつった。正直なことを書くと、ぼくが求めていたようなものではなかった。ガムラン楽器の可能性を探るために他の楽器(エレキギターやピアニカ、トランペット)と演奏したり、水の入ったウィスキーボトルや貝殻を一緒に叩く。ジャワ舞踊の人が踊る。この雰囲気が嫌なわけではまったくなくて、なんだか賑やかな居酒屋の端の方でじっと本を読んでいるような心地良さがあった。実際、もってきた『安東次男詩集』『安西均詩集』『会田綱雄詩集』は読み終えられた。ぼくはこういう感じの方が本を読めるらしい。でも、これもガムランの懐の深さだと思う。西洋音楽に比べると理路整然とはしていない。だからこそドビュッシーは取り入れたのだろう。このある種の空間学を逃れるのがインドネシアの、ガムランの魅力だ。詩集では会田綱雄のものがとてもよかった。

ちょっと歩いたところにインドネシア料理のワヤン・バリが在って甘いジャスミンティーしか口にしていなかったので、コースを頼んでみた。

鬱金のスープ
テンペ(大豆をバナナの葉で包んで発酵させたもの)
牛のサテ
ナシゴレン
焼きばななとココナッツアイス

ありがとう、という気持ちになった。テロ対策て警察官が立っているアメリカ大使館の横を歩きながら、国会議事堂前まで歩いていく。だいたい15分くらいだ。そこから千代田線で一本。家に帰ってからマウスを買う予定だったことに気がついた。

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