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小説アイダ

落石八月月。

ガートルード・スタインの『小説アイダ』の翻訳者だ。ぼくはこの本を2019年に手に入れたらしいけれど、それがなぜなのか、どういう経路でこの本を知ったのかはもう忘れてしまった。おそらくレオノーラ・キャリントンの『耳ラッパ』やルネ・ドーマルの『類推の山』、アンドレ・ブルトンの『ナジャ』のような、シュールレアリスム周辺の作家の小説を読んでいた時期だったのではないかと思う。ガートルード・スタイン。マティスやピカソと交流を深め、パリにサロンをひらいた芸術家たちのパトロンだった。

落石八月月の話に戻る。先日アンディ・ウォーホルの『ぼくの哲学』を読んだとき、癖がありつつもポップな文体が気になり、翻訳者名を見て驚いた。「落石八月月」。「おちいちオーガストムーン」。西尾維新の葵井巫女子や舞城王太郎のDisco Wednesdayyyも真っ青のペンネームだ。どうやらアメリカに住んでいるということ以外はほとんど謎の翻訳者。この人のことが気になって調べていたら、『小説アイダ』に突き当たった。そういえば、昔買った気がするな、という直感はあたっていて、本棚と天井の間のスペースにピンクと青のカバーに彩られた『小説アイダ』を見つけた。このようにして現在と過去はリンクする。出版社はマガジンハウス。POPEYEや平凡パンチで有名なサブカルチャーの大手。マガジンハウスと落石八月月、この組み合わせには何かそういう「香り」を感じないかといえば嘘になる。歌集でもないのに栞が挟まっているのが、全集みたいで面白い。

おしゃれなストーリーに吸い込まれるのも時々は悪くない。でも、ストーリーを殺す、その手口がおしゃれな方がもっといい。ガートルード・スタインの魅力は、それだ。

栞の中で佐藤良明が書いているように、アイダは物語を否定しながら進行する。

アイダは常に現在を書いている。過去へ過去へと押しやられていく「物語」に抵抗するように、言葉が生み出されるいまという瞬間に、ひたすら追いつこうとしている。どういう小説なのか、と問われたらアイダが生きているということについての、もっと真実に近づけようと思ったら生きているアイダの小説だ、としかいえない。アイダという人は生涯に何度も結婚を繰り返した。彼女の、あるいは彼女の周囲の人間についての記述で小説はおしまいのページまで進んでいくのだけど、そこに筋らしい筋はない。アイダはわかりやすく変化することはなく、つまりビルディング・ロマンスに従属することなく、ただ、いま、ここにあることを続ける。ときには小説の世界は破れて、ガートルード・スタインが顔を覗かせることすらある。

アイダは語ったことなんかありません。ただ好きなことを勝手に言うだけです。ねえアイダ。

整頓されて語られる言葉はここにはなく、いまのことについて、ただ言っているだけ。

アイダは一度も、昔々……などと言ったことがありません。この言葉は彼女にとっては何の意味もありません。アイダが言ったことといえば、イェス、そして、オーイェス、そして、私イェスと言いましたよ、と言って、最後にもう一度、イェス、と言うのです。

生起するいまの肯定。ひたすらな肯定。さっき言っていたこととは矛盾することが頻繁に起こる。それは、アイダにはいましかないからだ。人と住んで、人と別れて、場所を移って、ときには自分ではない自分を生んで、消して、アイダはあ在ることを続ける。ときどき、とても叙情的な文章が小説にあらわれる。

この犬は月の光が好きで、それは闇より暖かかったからです。月そのものには気がつきませんでした。

前は三色菫とヘリオトロープが好きでしたが、あとで野生の草花が好きになり、その後月下香が好きになり、それから蘭の花が好きになり、それからすっかり花には興味を失くしました。もちろん失くしたのです。花は育ったところにいるべきです。花には通らなければならないドアなどありません。育ったところにいるべきです。彼女は花よりも鳥に興味がありましたが、ほんとうは鳥には興味がなかったの。

アイダはとても不思議な人間だ。たぶん一緒にいたら疲れる。だけど、本当は人間ってつねにいまがあるだけで、いつも不思議なはずだ。過去になったときの自分や、未来になったときの自分を想像しながら、人間は自分の行動や思考を修正し続ける。でもアイダは、いまのことしか考えていない。

私はここにいませんよ、こういうことって気持ちのいいものですよ、と言って、ちょっと振りかえって、ここにいないってほんとうにいい気持ち、と彼女はつけくわえました。

このような小説がマガジンハウスから出版されていることは、サブカルとはオルタナティブであって、少なくとも日本では物語、あるいは成長を相手取った思想であったことを思い出させてくれる。では、ネオテニーが、断片的なつぶやきが市民権を得てきた現代におけるサブカルチャーとはなんだろうか。

余談だけれど、スタインの『The Making of Americans』を百人くらいで読みつぐイベントがある(あった?)らしい。驚異の五十時間。ジョン・ケージやスーザン・ソンタグも参加していたらしい。つい最近川上未映子と村上春樹の朗読イベントがあったけれど、日本でもやったらいいと思う。ぼくも歌集をまるまる一冊音読したりしたい。

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