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出会いはいつも八月

いきなり話はマルケスから飛躍するのだけど、かつて京都にいたころ、友達と「ルーツ放談」というのをしたことがある。三条大橋の近く、鴨川のブヨの多い土手に座って、読んだ本はいったいどういう紆余曲折を経て自分の手に渡ったのか、ということを縦横無尽に話す企画だった。ぼくはこれがとても楽しくて、まるで大江健三郎の小説のように自らを語り直したのだった。たぶん、繰り返すうちに記憶の混同やはったりも混じったかもしれない。記録としてはひどく不確かだろう。だけど、いくつもの川を遡るとひとつの海に辿り着いていくという経験自体はどんなアミューズメントパークよりも楽しかった。ぼくがこの日記帳で行っているのは、その本の備忘録だけでなくそうしたルーツ放談も兼ねている。だから、その本について書くとき、自分がどうしてそれを手に取ったのか、自分にとってその作家はどういう存在なのか、ということもあわせて書くようにしている。本の情報だけを知りたい人にとってみれば、ぼくのパーソナリティーな情報などどうでもいいのだろうけれど、一冊の本が、一人の作家が、つまるところひとつの世界が、個人にどのような影響を与えたのか、ということの記録として、ある程度は客観的にも面白いんじゃないかと思っている。

ところで、この未完の小説にもページ数の割には多くの小説が登場している。母親の埋葬されているカリブ海の島へ毎年グラジオラスの花束を添えにいくアナ・マグダレーナ・バッハは、必ず一冊の本を携帯しているからだ。

プラム・ストーカーの『ドラキュラ』、ボルヘス・ビオイ=カサーレスの『幻想小説選集』、ジョン・ウィンダムの『トリフィドの日』、レイ・ブラッドベリの『火星年代記』、グレアム・グリーンの『恐怖省』、ダニエル・デフォーの『ペストの年の日記』……。

本を読んでいると、無作為に選んだはずなのにそれが実は直前まで接していた何かの影響下にあったり、あるいは読んでいる本が現実とリンクして、まるで現実が本の世界に引き寄せられたのではないか、と錯覚することが実際にある。そういう意味では、読む本を選ぶことは夢を見ることに似ている。『出会いはいつも八月』も、アナが読んでいる本が、彼女が島で直面するさまざまな現象にうっすらとリンクしていることがある。これはマルケスの遊び心でもあるだろうけれど、現実と幻想の境が溶け合ってしまったような小説を書くマルケスの技法としてなんだか説得力がある。

あとがきにも書かれていたけれど、舞台が現代である、という点は確かにマルケスの小説としては珍しい。また、最後の数ページはあまりに駆け足で、そのあたりはどうしようもない悲しさを感じざるを得ない。

私たちの父がその最後の数年間に記憶をなくしたことは、容易に想像できるように、私たち全員にとってこのうえなくつらい経験だった

「はじめに」でマルケスの子供たちが書いているように、この小説が完璧な形で世に存在できなかったことは「このうえなくつらい経験」だ。でも、この小説にはいろいろな場所にマルケスの息遣いを感じる。縁日の魔術師、カリブ海の夏の熱、母親、アナ、娘を貫いていく血という抗えない呪い。何度目かの滞在で「母親の頻繁な旅の秘密」に気づき、墓掘り人とともに墓を暴く描写はやはり白眉だ。

アナ・マグダレーナは、開いた棺の中に、まるで全身を映す鏡に映っているかのように、凍りついた微笑みを浮かべて胸の上で腕を交差させている自分自身の姿を見た。

文庫化されることなんてないと思っていた『百年の孤独』が文庫化し、時間はとめどなく流れはじめる。ぼくがはじめてマルケスに興味をもったのは、京都の美術館で見た絵画に「エレンディラ」を題材としたものがあったからだった。あの絵の作者が誰だったのか忘れてしまった。だけど、マルケスの魔術的な幻想は、「この世でいちばん美しい水死人」のようにこの上なく印象的な多くの著作は、ぼくにとってはどうしようもなく京都という土地と結びついている。


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