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エクソダス島世紀 カミシモ2考⑥

年末年始、財布まだ耐えてますかーっ。28歳男です。
カミシモ2のキャストへの賛辞も今回でラストです。和田雅成氏の魅力を解析します。
本当、コンテンツが多くて一個一個が流されるように消費の渦に呑まれますが、だからこそ好きなコンテンツが長続きするように祈ることが、自分を保つことなのかもしれませんね。

大阪国代表 和田雅成氏

1991年9月5日(31歳)、大阪出身。ルビーパレード所属。181cm。
舞台『刀剣乱舞』虚伝 燃ゆる本能寺にてへし切長谷部役を務めブレイク。猫を飼っている。目下、主演舞台『風都探偵The STAGE』公演中である。

ファニーな方の和田氏とは違いTwitterのフォロワー数は183817人と、同業者の中でもトップクラスの注目を集めている。
殺陣の鋭さや巧みなツッコミ芸、プロポーションのよさなどから多くの舞台に引っ張りだこだという。
カミシモでは荒牧慶彦氏とともにシーズン2に登場するお笑いコンビエクソダスの島世紀役を務める。
本作では、荒牧氏演じる鬱屈したナードな芸人時浦可偉の相方である。ネタへのこだわり、芸人という職への憧憬などを強く持っているが引っ込み思案気味の相方と対照的に、直線的で感情的な役どころ。簡単に見えて、ストーリー進行の役目も多く引き受けており、緩急が大事である。
また、本作は、別のコンビで同じツッコミの染谷俊之氏とライバル関係が描かれている。彼はよりサイコパ…奔放なツッコミ役であり、つまりほぼボケなので、回すのが大変で楽しい舞台となっている。

ストーリー進行における具合(筆者作成、画像は公式HPより)


エクソダス島世紀のアドリブ

ストーリーテラーでかつ、一番客席と近い感覚をもっている和田氏は、アドリブにおいて最大の立ち回りが求められた。個人的には、みなが大きめにアドリブや演技をやっている中、俯瞰していたへしきり長谷部役のときは、少し引きすぎではと思っていた。今回については和田氏に頼りっきりじゃないかむしろと思うようなハマり役だったのではないかと推察する。
正直、普通に演じている和田雅成氏を「和田雅成氏」と今後認識できるか不安になるくらい快演だった。

アドリブ①楽屋前のあるあるネタ

まずはそんな和田氏の劇場作りのど頭で、各演者らの役の距離感を説明する楽屋前のシーン。ここでは、ねあんでるというYouTube出身あるあるネタ芸人に先輩面をしたものの、からかわれるというやり取りの後に、「あるあるネタなんか一瞬でできるっちゅーねん!」と言って、溝口琢矢氏に「じゃあ、一つやってもらいます…?」と振られる場面。テーマは荒牧氏が決める。動画はねあんでるに絡まれているところに再生時間合わせています。

基本的には和田氏が受けるが、たまに荒牧氏や溝口氏に流すこともあった。
「大阪あるある」のときは「語尾に、”知らんけど”ってつけがち。知らんけど」と大阪人鉄板のくだりを滑らかに披露した。
それはさておき、ここで大事なのは、自分たちのアドリブがスベったときの対処だ。基本的に溝口氏は鉄の心をもっており、挙動も客に憑依できて滑らかなのだが、ここではまだ「あまり前に出てこない」キャラである。なので、ここは和田氏が強制的に転換しなければならない。
よく分からないボケをしたらツッコミ、客席がウケてたらそのウケが鎮まるうまいタイミング・空気をつくらなければならない。この辺りの劇場回しは非常に頼もしい。


アドリブ②滝に落ちる後輩芸人に対してのツッコミ

さて、ネタ番組と騙されて無人島ロケに連れていかれ、いきなり滝つぼに向かって巨大ドローンに引っ張られるのをこらえるというド級のシーン。ここで、ねあんでるのボケ黒旗が落ちる際に「芸人あるある」を日替わりで言う。「あるある」ネタで成り上がった彼らの選手宣誓だが、ツッコミは和田氏が行う。緊迫感漂うゲーム中なので、①のときとは違ってテンポが大事だ。また、黒旗は先輩芸人の奮闘に憧れを抱いて改心する立ち回り。ここが起点なので、しっかり決めたい。
・「芸人は居酒屋でだる絡みしがち」→「それこいつですー!」と染谷氏とのやり取りを回想しつつキャラの距離感を発出
・「楽屋で作ったネタ滑りがち」→「時浦もそれでよくスベってます!」「すべってない」(荒牧氏)
など、彼らのト書きには描かれていない裏側を出すように返す。
「微に入り細を穿つ」ことで、芸術作品に奥行きが出てくる。こうしたすっとばされそうなところでしっかりと役に為っていることが非常に頼もしい。
ほかにも多々あるが、こちらは毎度のことですが、桃さんの日替わりメモを参照されたい。和田氏の格闘のすごさを思い出すことだ。

エクソダスのネタ①ペット

さて、荒牧氏の際には彼の来歴を尊敬しすぎてできなかったが簡単に触れる。エクソダスは荒牧氏演じる時浦の内向的で狂気を含んだボケが連鎖的に重なって来る芸風だ。すべてをツッコむのですら難しいが、複雑なネタのため、荒牧氏が後のボケをしてしまったりした際にもうまく処理するなど、芸人という役を演じるのではなく、愉快に芸人であった。


ネタの流れ

ペット飼いたい島→時浦「奇遇だね!僕は人間をやめてペットになりたいんだ」ということで、島に飼われるために語尾にニャンを付けたり、ペット的な習性を波状攻撃をしかける。

という単純なもの。ネタについては4コンビにおいて、複雑で言葉遊び含むノノクラゲ、リズムネタ+アップテンポ漫才のねあんでる、王道漫才のラストワルツということで、シンプルに屈折したネタというなかなかに渋いネタが当てられている。
ネタというよりも、劇中でストレイシープだった時浦が吹っ切れて自己流のボケを繰り出しまくることに対して、それを全て引き受けるという、二人の役柄にフューチャーした物語の中のネタである。
そこにサービス精神の権化である荒牧氏が日替わりネタをも入れていくので、正直かなり難易度は高いだろうが、時に引き、時に客の代弁、時に説明を挟むなど、舞台と観客席をつなぐ和田氏は天橋立に見えた。

エクソダスのネタ②ゆきちゃん

こちらも基本的には同じだが、荒牧氏がメンヘラとなる。上記ペットのメンヘラはペットが欲しい島に向かうが、こちらでは架空の「ゆきちゃん」に対して向けられているため、島は立ち位置が難しい。
ある意味でつっこみはしやすいのだが、用意されているメンヘラさが過度でも変でもないのでなかなかに突っ込みづらい。

ネタの流れ

究極の二択に迫られたとき、どちらを選択するか。親友(島)と彼女(ゆきちゃん)が溺れている。が、溺れているシーンについてやれ「それじゃ溺れない」や「それお前とゆきちゃんいい感じじゃないか!」と、選択に入るまでの段階でやっかみを入れられる。こうしたメンヘラ演技において荒牧氏は一級品だ。

ここで難しいのが、荒牧氏が繰り出すボケが

  • ①シチュエーションの非論理性に対するもの(いわゆる一般的なボケ)

  • ②親友と彼女の空想上の近さに対するやきもちや彼女への恋慕(時浦というキャラのボケ)

の二つであることだ。
漫才は基本的に「普通」とのズレでつくられる。28歳の男が2.5次元男俳優につんのめっているというの構造自体に、いわゆる「2.5次元男俳優は異性である女性が好きだ」というステレオタイプがあるとすると、好奇が発生しているかもしれない。漫才とは常識の打破である。(見る側が常識から外れれば外れるほど、漫才は面白くなくなる。それはズレがないからだ)
そういう意味で、エクソダス時浦の気持ち悪さとは、「観客の心が綺麗な前提」が存在しているので距離感が難しい。この観客の”綺麗な心”を代弁するのが島の立ち回りとなる。ノノクラゲは構造がそうした常識自体を問うているので入りやすい。ねあんでるは常識のないところでリズムや独特の掛け合いを楽しめる。ラストワルツは二人がまじでかみ合って好き勝手やっているので良良良の良。
エクソダスのズレについて考えると上記2つがなのでツッコミが難しい。具体的には、
①は「(なかなか親友の想定を決めない時浦に島が「俺でええんちゃう」に間を開けて)…うん」「(溺れている想定シーンで)川でおぼれるなんて馬鹿みたいじゃないか」
②は「(恍惚として)じゃあ、今だけゆきちゃんって呼んでいいかな…?」「二人で川に冷やしたすいかを取りに行くなんて二人、いい感じじゃないか!」
これはツッコミの階層が違う
①は「普通」に対して疑義を挟む正当なボケである。一方で②は「時浦が普通じゃない」ということだ。
これらは聞いているこちらからすると、かなり難しい。さばくレイヤーは島世紀の一つしかない。4コンビにおいて一番難しいのは私は、和田雅成氏だったと思っている。

エクソ……ダンス……

さて、和田氏はダンスがカクカクしている。千秋楽日昼公演もエクソダスダンスで立ち位置を入れ替わることができなかった。
殺陣はすごいのになんでぇ!と思うが、正直あまり2.5次元の舞台を見ない筆者からすると、こんなに魂こめてネタ、しかも2つネタがあってどちらかをやり遂げた後、ダンスまでさせるのはなんだか過酷で若干辛いものがあった。
ダンスがあんまりな、和田氏、和田氏、染谷氏を見ると、「ああ、よかった、彼らも人間なんだ」と逆に安心したものだった。
というよりも、個人的には、和田雅成氏については、ここまでの貢献があるからこそ、ダンスが少し可愛い、ということがギャップ萌え的な強い演技にも見える。ツッコミだった彼の最初で最後のボケ、みたいなところがある。
ちなみに、「2階席ー!」などと煽りもダンスパートで入れていたが、踊りを回避しているようにしかみえなかった。

それが本当によかった。

エクソダスのキャラソン オンリーユー!

キャラソンはここまで他コンビの考察において、コンビ間格差シンプル―複雑―シンプル―複雑という感じだったとしてきた。
オンリーユー!はシンプルの方で、サビ①とサビ③は同一である。またなにより「セリフ掛け合い」が存在している。(妻はいつのテニミュだよ!と快哉)
メロディをつけないセリフというのはなかなかにミュージカル的で個人的には味があるなと思いました。

  • 島「お前、俺についてきてよかったやろ!」

  • 時浦「いや、迷子になっているとしかおもえないんだけど、、、」

今回各役者がキャラソンについて語っているが、和田氏は、「オンリーユー」な存在について、回答は相方ではない…笑

天橋立を見て思ったこと

さて、先にも触れたが和田氏は観客との距離が近い。また、日替わりのアドリブや客に手拍子を求める、ダンスパートで客に煽りをとばす、などだ。
最近勉強したのが、今後の社会においては「利便性」よりも「意味性」が大事になって来るということだ(参考『ジャーニーシフト』藤井保文著、日経BP)。
演劇はそもそもが意味性だが、彼を思い起こすと、演劇に求められていることも変わってきているのではないかと思った。
例えば従前の舞台であれば、何回も見る、という行為は、そのストーリーを、その人間が別のものに憑依している演技を味わい尽くすために行われるものだっただろう。公演中に、演技には「完成度」のばらつきは発生するかもしれない。例えば最初は役作りの際中でもあって駆け引きなどの刺激が強かったが、演者に若干の慣れが出てきたが、同時に洗練もされる、など。これは「鑑賞の質」の問題である。
無論本作を三度劇場でみた筆者にとって、この「質」のばらつきも結構あったことによって楽しめたのも事実で、カタルシスにつながることもあったが、主因はエンターテイメントの面白さだ。
ネタが複数用意されてるからというのもあるが、純粋に何回も見たいと思ったのはなぜか。
それは和田雅成氏のような、観客席にいる私のことを見ているような演技や所作が、「私が鑑賞した事」「その一瞬しかない場所に入れたこと」という私にとっての「意味性」を高めたことにあるのではないかと思った。

「萌え」から「推し」に変わったと。私たちはもはや萌えているだけでは満足できない。シェアしたいし、共感されたいし、自分しか認識できない舞台上の「ワチャワチャ」を独占したいし、そのレベルで共有できる仲間と出会いたい。
受動的ではなく、消費行動に対する意味性がいい意味でも悪い意味でも高まっている現代。舞台裏なども知りたくなる現代。本作はメディアミックスでもあり、シーズン2でもあり、私たちが一緒に作ってきた感じもあるのだろう。
初期に各キャラの掛け合いをNFTとして売り出し、投機性を高めてぼろもうけすることもできたかもしれない。

和田氏のようなプレーヤーが、その場限りの舞台という場所で、どのような立ち振る舞いをするのか、鑑賞活動という大きなレイヤーにおいても、今後も目が離せない。あけましておめでとう。


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