見出し画像

なぜ、これをするのか

上久保ゼミは、The Guardian書評(英字新聞書評)、研究書評、ディベートトレーニング「クリティカル・アナリティクス(CA)」と、サブゼミ(1時間半)、ゼミ(1時間半)の間に、多くのメニューに取り組みます。

それぞれ、ゼミで12年間、自分がコンセプトを出して、学生が実践しながら問題点を修正しながら練り上げてきたものです。

これらメニューの決め事は、基本的にシンプルです。例えば、The Guardian書評では、英字新聞を毎日読んで、要約をまとめ、そのうちの1つを教室で発表する。それに対して、グループで意見を交換し、短時間議論する。

それだけです。どんなことを議論するかは指示していません。自由にやればいいとしています。

CAというのは、ご存じの通り「立論(1人)対討論(全員)」でディベートをやるわけですが、基本的にこれも決め事はシンプルです。「お互いに絶対に同意しないで、議論し続けること」。それだけです。

どうして、決め事をできるだけ少なくしているかというと、決め事があると、それに従ってこなすだけになるのです。要は、頭を使わなくなる。

決め事がないと、特にゼミに入ったばかりで容量がわからない3回生は戸惑います。グループが沈黙し、微妙な空気が流れる。それを打破するには、誰かが何かを話さなければならない。自分が何をしたらいいか、考えることになります。

そもそもですが、僕はそれぞれのメニューの「目的」「意図」を学生に話さないんです。なんのためにやるのか、何が身につくのかを話さない。それは、学生一人一人が自分で考えろといいます。

学生が、自分の将来の目標を持ち、そこから逆算して、このメニューからなにを身に着けるのかを、自分で考えろということです。

一人一人が違う目標を持っているのだから、メニューの「目的」が違っていてもいいのです。むしろ、僕から与えられた「目的」をこなすのでは、僕が想定した効果しかでません。

それよりも、それぞれが独自の理解をすることで、僕が想定した以上の結果が生まれることが期待できます。それこそが、いつもいっている「偶然完全」。偶然からしか完全なものは生まれない、ということです。

日本の学びのカリキュラムというのは、総じて緻密にできていて、量が多い。日本の子どもは、とても忙しくカリキュラムをこなし、よく鍛えられている。

それなのに、日本の子どもは、よく「考える力が弱い」といわれます。そして、「考える力を身に着けさせる」として、もっともっと緻密に考えられたプログラムを与えて、子どもは必死にこなしていく。

だけど、僕にいわせりゃ、やればやるほど、子どもの考える力は弱くなる。もう、必死にこなせばこなすほど、テキパキと与えられた業務をこなす能力は上がりますが、一方でどんどん思考停止していくからです。

自分でやるべきことの意味を考えさせる。それも、自分が設定する人生の目標から逆算して考えさせる。日本の教育に一番欠けていることはこれなのです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?