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水島新司から考える「政策科学」

水島新司先生がお亡くなりになりました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

あらためて、水島先生が描かれた野球漫画の数々を振り返ってみると、その発想の豊かさ、大胆さと、それがことごとく現代において実現している「先見性」が、驚嘆に値することがわかります。

例えば、「野球狂の詩」の「よれよれ18番」岩田鉄五郎。50歳にして現役投手でしたが(その後、続編では70代で現役だった)、プロ野球には山本昌とか谷繁とか、超ベテラン選手が現れるようになりました。種目は違うが、超ベテラン選手といえば、サッカーのカズこと三浦知良選手がいます。このような、「中高年の星」の出現を予見していたといえます。

また、「まるで漫画」と表現される、大谷翔平選手。投打の「二刀流」も、水島先生は「野球狂の詩」で描いていました。「3番ショート千藤」。時に投手にもなり、オールスターに出場した二刀流のスター選手を描いたのです。

また、「1番ピッチャー」で先頭打者本塁打を放つというぶっとんだ離れ業を大谷選手は演じましたが、これもすでに「ドカベン」で土門剛介がやってのけてました。

「球道君」の中西球道も「1番ピッチャー」でしたね。球道くんや、ドカベンの不知火守は、160キロの剛速球を投げていました。プロの投手の平均球速が140キロ以下だった時代に、大谷選手のような「160キロの剛速球を投げる投手」を描いていたわけです。

その他、女性投手・水原勇気もいましたね。さすがに、女性が男子のプロ野球に入る例はまだありません。でも、女性の野球人口は増えて、女子の甲子園も行われるようになっています。「野球は男のもの」という古い概念も水島先生は40年前に打ち壊していたのです。

このように、漫画や小説で描かれたことが、のちに現実社会で実現することは、水島先生以外にもよくあります。

僕は、授業で「人工知能の導入による社会の変化」を論じる回があるのですが、その時、手塚治虫先生の「火の鳥・未来編」の話をします。

人工知能が極限まで進化した未来社会。国家の意思決定はすべて人工知能によって行われます。人間は、人工知能の決定にただ従うだけです。なぜなら、人工知能は間違うことがないからです。

ある日、人工知能が行政官に「恋人と別れなさい。別れないと不幸になります」と言われ、別れるシーンがあります。

世界は、7つくらいの国に分かれています。米国、欧州、ロシア、中国、日本などのような国があり、それぞれが人工知能を持っている。ある時、それぞれの国の人工知能が対立します。それぞれ、絶対に間違わないことになっていますから、人間の政治のような「妥協」ができません。結局、核戦争に至り、地球が滅亡する。

その後、不死の力を得る火の鳥の生き血を飲んだ主人公・山野辺マサトが、滅亡から人類再生までを見守るという、壮大なストーリーとなります。

手塚先生は、人工知能が発達し、次第に人間の役割を奪っていく未来を、50年ほど前にイメージしていたということになります。

また、コロナ禍においては、小松左京先生が約60年前にコロナウイルスのパンデミックによる人類滅亡を描いた小説「復活の日」の先見性が注目を浴びました。

これらを、しょせん空想の世界と切り捨てることは簡単です。

水島、手塚、小松先生らは、スポーツや科学・医学などについて、専門家に負けないほどの知識を身に着けた上で、作家としての自由な発想を載せて、物語を創ったということです。

そして、それは発表されたときには、荒唐無稽な話にすぎなかったわけですが、科学の発展や、人権感覚の進化など人間社会の発展に、またはそれらの行きすぎによって、リアルな話になったということです。

AIの登場はいうまでもありませんが、長老のスポーツ選手、二刀流、160キロを投げる投手は、科学の進化によるフィジカルコンディショニングの向上がもたらしたものでしょう。男子だけの競技というものがなくなったのは、女性の社会進出、男女平等の進展がもたらしたものです。

そして、そういう社会の進化の行きすぎが、世界中にコロナ禍を広げることにもなったと思います。

私が言いたいことは、専門性をベースにした「発想」の重要性です。専門性を持つことは重要ですが、それだけで、いろいろなアイディアを「あれもだめ、これもだめ」「現実的ではない」「荒唐無稽」とあれこれと「できない」という理由を探すだけでは、世の中は目に進んでいかないのではないでしょうか。

政府の意思決定なんかみていても、いろんな政策をやろうとはするんだけど、結局「できない」という理由が、現実と専門性の名のもとに並べられて、両論併記みたいになって、なにも決められないなんてことばかりのようになっています。

それよりも、まずは「発想」。それは、水島先生のような「こうなれば夢のようだな」という「理想」かもしれませんが、それをまず打ち出して、実現するためにどうすればいいのかを専門的に練り上げるていくという順番が、世の中を発展させるには重要なんじゃないかと思うのです。

うちなんかでも、政策科学といいながら、専門的であるのはいいのだけど、あれもだめ、これもだめとなって、新しい政策の芽を摘んでばかりになってるような気がしてなりません。

今年は、ポストコロナの新しい世界が出現することになるでしょう。その時、あれもだめ、これもだめでは、日本はまた世界から遅れることになる。これからは、「自由な発想」を大事にしていくことが必要なのではないでしょうか。




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