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「言論の自由」とは、相手の言論を守ること

言論の自由といいうと、自分が何を言ってもいいと思っている人が多いようです。だけど、それは本質ではないように思っています。

自分の言論の自由を守るのは、そう難しいことではないように思う。みんな、はっきり言って、言いたい放題じゃないですか。匿名になれば、尚のこと。

言論の自由というのは、相手の言論の自由を許すこと。相手の自分に対する批判を、多様な意見があると容認することです。

逆に言えば、相手の言論の自由を奪うことだけは許されないということになります。圧力をかけて、自由に物を言えなくするのは、言論の自由に当てはまらない。最悪は、自死に追い込むなど、相手の命を奪うこと。未来永劫、物を言うことができないのですから、絶対に許されない。

ゆえに、ヘイトスピーチをして相手を怖がらせて行動の自由を奪い、物を言えなくして、「言論の自由だ」と開き直る人がいますが、間違っています。ヘイトスピーチは言論の自由には当てはまりません。

この、「相手の言論の自由を守る」というのが、実に難しいのです。僕だって、学生とかになんか意見されて、常になんの感情もなく受け入れられるかとなると、正直な話、そうではないですね。そこは、自分には一定の教養と知識があると思い、感情ではなく、理性でなんとか言論の自由を守ろうとするわけです。それでもダメな時はありますよ。人間ですからね(笑)。

余程、常に自制し続けないと、言論の自由を自分に都合よくやっていることが多いのです。そして、言論の自由を守るべき人が、率先して、それを破っているということがよくあります。

いわゆる、「リベラル派」と呼ばれる人たちに多いのですよね。彼らは、言論の自由を「権力に対する自由」と解釈しているように思います。首相とか、政敵に対しては好きなことを言っていいんだということです。元の思想が「階級闘争」なので、そういう考え方になるんですかね。

ところが、自分に対する批判は許さない。多く語る必要はないでしょう。憲法改正、安全保障、消費税。。。彼らの前では、議論をするどころか、議題に挙げることさえ非常に難しいのです。

言論の自由を、非常に狭く、薄っぺらく捉えてると思いますね。そもそも、言論の自由は基本的人権なのですから、何人にもあり、何人に対してもあるわけです。

それを、権力者に対しては何を言っても許されて、自分への批判は許さないという。それは基本的人権の理解として、いくら綺麗事を言っていても、根本的な部分が間違ってると思いますね。

「寄り合い所帯」と呼ばれた民主党政権が瓦解したのは、党内でみんなが好きな事を言いたい放題で無法地帯だったからというより、現実的に政権を運営したかった人たちに対して、もう入り口から議論拒否だという人たちが多くて、収拾が付かなかったからだと思います。

「学術会議」はどうでしょうねえ。あまり言いたくはありませんが、権力に対しては言論の自由を主張します。権力に物を言うのは当然のことです。ですが、内側はどうでしょう。言いたくはありませんが、すごいいろいろありますよ。僕らは、文系ですけど、国際関係や地政学をやっていると、怖いですねえ。なんかやりにくい空気がすごいです、はい(笑)。

僕ははっきり言って、別にどんな圧力かけられても平気ですが、若い人は萎縮してしまいますよね。

僕は、学術会議が中国の「千人計画」って言いましたっけ?(笑)そんなもんに協力するような器量はないと思います。もう終わったような左翼老人の集まりですもん。ですが、力量のある優秀な若手が、その左翼老人のネチネチした圧力の数々と、それに不快感を持って予算を減らした政府に愛想を尽かして、よりよい研究環境を求めて海外に渡ってしまうことは、仕方ない事だなあと思っています。




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