【第6回】自由研究駆け込み寺
(書き手:みよこうせき)
今日も駆け込み寺をしました。
メンバーも固定化してきたように思います。相変わらずみんなでマイクラで遊びました。彼らの親御さんは側で読書をしたり彼らの様子を眺めていたりさまざまです。
そろそろ後期のわくわく夢学習がはじまったので、もうマイクラで遊んではいられない時期になりました。そんななか、マイクラ少年の1人は、前期に引き続き、好きな電車の研究をするそうです。彼曰く、現地で電車の写真を撮ったり、駅員さんに質問したり、自分で乗って音や揺れを調べたりしてそれをノートにまとめる予定でした。たしかに、前期のノートを見るとかなり熱心な活動が伝わってきました。
彼の電車ノートをみると、もうすこし大人が手助けしてもいいかなと思いました。手書きで味があるノートなので個人的に好きなんですが、そろそろちゃんとレイアウトを自分で考えたり、パソコンで書いてもいいのかなと。彼自身電車が好きで、いろいろと調べたりしているおかげか、ちゃんと言語化する能力はありますし、こちらから質問したときも論理的に答えていました。ですが、実際のノートを見ると、彼が知っていることのほんのわずかしか書かれていません。やはり言語化して会話ができることと、文章に書くことは違う能力で、後者はいくらかの練習が必要だと思いました。なので、パソコンで文章を書く練習をしてみれば、もっと彼の世界が広がるのかなと感じます。
小学生が帰った8時からは、残った大人で「デジタルは今後必要な知識やスキルなのか」を話していました。自分としては文脈次第で Yes でもあり、 No でもあるなと考えています。まず、デジタルが人々の "不自由さ" を解決するのであれば、必要だと思います。例えば、メガネが視力を補ったり、足の不自由なひとが車椅子をつかうように、デジタルが人々が本来持っている不自由さを取り除いてくれるものであれば、メガネが今後大事であり続けるように、デジタルも大事だと思います。ですが一方で、不自由さと "不便さ" は分けて考えておく必要があります。よく技術は生活を便利にするといいますが、それは裏を返せばこれまで不便だったということで、これは反省すべきです。不便だったものを便利するものがデジタルなのであれば、本来の不便さに気づかず将来にまた不便さを残すだけでしょう。このように、デジタルは不自由さを取り除くのか、不便さを解消するのか、それ次第では向き合い方も違ってくると思っています。
というわけで、来週もこんな感じであれでもないこれでもないと言いながらワイワイと活動しています。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?