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GTOリバイバル

昨日、久しぶりにTVドラマをじっくり観た。

東日本大震災の際、各社同様の報道姿勢に不信感が生まれ、それからTVは全くと言っていいほど観なくなった。

また番組自体も年々つまらなくなっている様に感じていて、それは昨今TV離れと言われる現象につながっている様に思う。大体「若者のTV離れ」なんて言われるが、昔からどの時代の大人も大体若者のせいにするのが常だからただの戯言と、中年の自分は思う。そもそも現代に若者がどれぐらいの数いると思っているだろうか?

そんな自分が今回観た「GTOリバイバル」

何よりも懐かしい気持ちになった。この懐かしさはちょっとした同窓会の様にも感じた。当時のキャストが出ているだけでそういう気持ちになれたのは自分も歳をとったからだと思う。当時の自分は中学生だった。思うにこういうのは年を重ねないと感じることのできない感情だから若者に無い特権だろう。そう思えば年を重ねるのも悪くない。

さて、このGTOリバイバルだが昨今の若者の目にはどのように映ったのだろうか?まぁ観ている側もほぼ中年だろうから、そもそも観ていないかもしれない。またソフトバンクがスポンサーに入っているので学割をフックにした視聴者の子供(学生)向け販促PRがゴリゴリに出ている企画モノであるのだけど、それでもちゃんと“魅せる”のはプロの仕事だと思った。観終わった感想は率直に“良かった”からだ。

それがきっかけで真夜中にアマプラで当時のGTO第一話を観た。現代ではコンプラNG沢山の内容だったから本当に世の中は変わったと思う。年月を経て「言いたい事も言えない世の中」は「言いたい事が無い世の中」になったと思う。それを表現したのが今回GTOリバイバルの冒頭、ある少女の台詞に込められている。夢を持てる程、現代は希望に満ちてはいないというのが若者の総論じゃないだろうか。これは果たして“若者”のせいだろうか?まぁ夢を持った方がいいかどうかは別の話。

また視聴率からわかるTV離れ
この原因は一体なんであるか?
当時TVが提供していた「価値」とは何か?
今回の放送を通じて分かった。それが

TVは「家族の団欒の場」を作っていたという事。

家族が一つの屋根の下、同じ時と場所に集まり、同じ釜の飯を食う。その時間に合わせ、時に可笑しく、時にハラハラ、時に悲しく、様々な話題を家族に提供する。それがTVだった。今でもTVは中心にあるのだろうけど昔ほどの存在感はない筈だ。

まぁそれも家族の会話が無くなるとか批判もあったのだろうけど、新しいものを批判するのは昔から続くの人間の習性だから仕方ない。

TVがいつでもどこでもどの時間でも観られる便利なサブスクや動画サービスに取って代わられたのは「便利」だから。不便だった時代を良かったと思う事はあっても本気で戻りたいとは思わない。また社会構造の変化に対応したとも言えるのだから良い悪いの二元論でも語れない。だから“時代は流れる”と言う。

少子高齢化、生涯未婚率、合計特殊出生率。人口推計は有事がなければ唯一ただしい予測ができることから考えるに、TVも「提供価値を再定義」する時期なんだろうなぁと思った次第。


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