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新約聖書を読む‥使徒行伝第1章

私には夢がある‥自由に参加できて、自由に話せる聖書カフェ。
今のところ見つからない。
自分でグループを作ったけど理由があって、2人プラス自分の計3人で、クローズでやっている。
でも、いずれはオープン参加の会と両方やりたいなぁ。

クローズの会では、ついこの間ルカの最後まで来た。
次からは使徒行伝だ‥私の子どもの頃は使徒行伝とよんでいた。教会で使徒言行録と言いかえるようになったけど、教会には行ってないので好きな方の使徒行伝でよばせて貰う。

使徒行伝第1章。
田川建三の「訳と註」(を自分なりに読んだの)では、すんごい偉い人のテオフィロさまに、自分「こそ」が(マルコと違って)イエズスの生涯の初めから終わりまでを全部ちゃんと書きました!と言ってるらしい。
くくく、でもってルカでは、オトコを知らないマリアさまに天使が現れて御懐妊を告げたり、イエズスが死んだ後に復活して一同のところに出てきて魚を食べたり、また「天に上げられ」たりしたのだと。

マルコ(福音書を書いた人(たち?)では、処女懐妊だのイエズスの復活だのは(元々は)出てこない。イエズスが、ユダヤ教の権力者に虐げられていた人びとの味方になり、癒し活動をやり、ユダヤ教の権力者を批判して殺されていった、その死にざま生きざまこそが大切なのだと。どうやって生まれて、死んだ後どうなったかは関係ないよと。
くくーしびれる。
そういうイエズスって良い!
そういうキリスト教なら信じるに足りる、私にとっては。

しかしルカ(だの、マタイだの、初期のキリスト教会を作った人たち)は、いわばイエズスの生涯をダシにして新興宗教を作り、イエズスの生涯の初めと終わりに聖者伝説をくっつけて、その経典にしちゃった訳だ。
その新しい宗教組織のなかで早速のし上がった権力者=田川建三の描いたイエズスなら、一番嫌いそうな存在だけど?、そういう人たちの権威づけもちゃっかり書き込んで、使徒行伝第1章の一丁上がり。

こういう読み方が正しいか、正しくないか‥それはココロの目で判断するしかないと思う。
例えば自分はもちろん聖書学者ではないし、もし聖書学者だったとしても人によって(学問的)解釈からして随分と違うみたいだし。
田川建三の書いた事が合ってるか、間違ってるか、私には学問的に判断することは出来ないけど、直感で私は採用。

そうすると、一つ困る事がある。
こういう読み方をする聖書の会って私はまだ見つけてないし、そうでない所で発言するとほぼ必ず嫌がられる。
ほら、だから自分で会を作らなくちゃいけなくなる訳だ。
私と一緒に聖書を読んでくれる人はいないかなぁ。

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