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マガツキ 冒頭限定公開

2024年3月25日発売の神永学さんの小説『マガツキ』の第一話を、発売に先駆け無料公開いたします!
 『マガツキ』は、人の身体を欲しがる「それ」と呼ばれる怪異の正体を探るホラーミステリー小説です。無料公開は4月25日までの期間限定。ぜひ、SNSなどでも拡散いただけるとありがたいです。

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第一話「それ」

それ──は知らぬ間に、あなたに近付いて来る。
それ──に訊かれても、答えてはいけない。
それ──を見たのなら、逃げなければならない。
それ──が何なのかは、誰も知らない。

 ガタンッ──。
 身体に揺れを感じて、私は目を開けた。

 人が次々と電車を降りて行く。座席の一番端に座ったまま、ぼんやりとその様子を見ていたのだが、発車を報せるメロディーが耳に入ったことで、我に返った。ここが家の最寄りの駅であることに気付き、私は慌てて席を立つ。

 電車の扉が閉まる寸前に、何とか電車から抜け出すことが出来た。
 いつの間に眠ってしまったのだろう? 記憶を辿ってみたが、思い出せなかった。

 でも、電車で寝てしまうときというのは、とかくそういうものだ。何れにしても、このところ色々とあり過ぎて疲れているのは確かだ。今日くらいは、早く帰って寝よう。

 人の流れに沿って、ホーム脇にある改札を抜けた。
 駅前のロータリーを横切り、住宅街を網の目のように走る路地に入ったときには、さっきまで密集していた人たちが、忽然と消えてしまったのではないかと思うくらい、人気がなくなった。

 閑静というより、静寂と表現すべき路地には、私の靴音だけが響く。
 街灯の数が少なく、暗い路地ではあったが、道の両側にアパートや一軒家が並んでいることもあって、さほど怖さは感じない。

 近くに、人の生活があるだけで、不安は搔き消されるものだ。
 電車が線路を踏む音が、遠くに聞こえた。

 ぎぃ──。

 児童公園の前を通ったところで、錆びた金属が擦れるような音がした。
 ベンチが一つと、ブランコ、シーソーが置いてあるだけの殺風景な公園だ。昼は、子どもたちが駆け回り、夕刻を過ぎると学生カップルの憩いの場となっている。

 きっと、思春期のカップルが、ブランコにでも乗りながら、語らい合っているのだろうと思い目を向けた。

 だが──。
 そこには、誰もいなかった。

 ブランコが揺れている風でもない。ただの聞き間違いか。再び、歩き出したところで、また、ぎぃ──と音がした。

 私は、そこで音の出所が公園でないことに気付いた。

 道路の反対側。
 街灯と街灯の間にある、──ひと際陰が濃くなったところに、何かがいるのに気付いた。

 目を凝らしてみる。
 人のようだった。

 髪の長い女の人が、影の中で蹲くまるようにして座っていた──。

 体調を崩しているのか、或いは、何かしらの発作を起こしたか、放っておくことが出来ず、私はその影に駆け寄った。

「大丈夫ですか?」

 私が声をかけると、その影がゆっくり顔を上げた。
 その顔を見て、私は言葉を失った。
 まるで作り物のように、しわくちゃで、ごわごわとした肌をしていて眼球がなく、代わりに暗い孔が空いていた。

 おまけに鼻が捥げ、黒ずんだ肉が剝き出しになっている。

 私は、それの姿に慄き、逃げようとしたのだが、腕を摑まれた。顔の肌とは対照的に、その腕は陶磁器のように硬質で白い色をしていた。

 何とか、腕を振り払おうとしたのだが、それは、摑む力を強めていく。

 みちみちっ──と骨が軋む音がする。

 痛みのあまり、悲鳴を上げようとしたのだが、それは、もう一つの手で私の口を塞いでしまった。

 そして──。
 それは、私にぬうっと顔を近付けると、紫色に変色した唇を一切、動かすことなく、耳許で囁いた。

 その身体──私にちょうだい。

 身体に揺れを感じて、私は目を開けた。
 電車の乗客たちが、次々と電車を降りて行く。座席の一番端に座ったまま、ぼんやりとその様子を見ていたのだが、発車を報せるメロディーが耳に入ったことで、ここが自宅の最寄り駅であることに気付き、私は慌てて席を立った。

 電車の扉が閉まる寸前に、何とか電車から抜け出すことが出来た。

 ──あれ?

 私は、人の波に押されながらも、呆ぼう然ぜんと駅のホームに立ち尽くす。

 ──さっき見たのは、いったい何?

 困惑したものの、すぐにその答えに行き着いた。あれは夢だったのだ。電車で寝ている束の間に見た悪夢。
 そう言い聞かせて、歩き出し、改札を抜けたところで違和感を覚えた。
 手首に、僅かではあるが痛みが残っている。

 歩きながら袖を捲ってみると、痣のように摑まれた痕が残っていた。

「夢じゃないの?」

 でも、だとしたら、なぜ私は再び電車に揺られていたのだ? 分からない。考えるほどに、ぬらぬらとした粘り気のある汗が掌に滲む。

 ──私はいったい?

 ふと気付くと、またあの児童公園の前に来ていた。

 ぎぃ──。

 聞き覚えのある音に、ビクッと身体を震わせた後、硬直して動かなくなった。
 夢では、公園に目を向けたが誰もいなかった。そして、街灯と街灯の間にある陰のところに、あの薄気味の悪い女が潜んでいた。

 確かめたいという気持ちがあったが、慌ててそれにブレーキをかける。
 見てしまったら、全てが終わりな気がした。このまま、何も気付かないふりをして、この路地を抜けてしまおう。

 そう思った矢先、また、ぎぃ──と音が鳴った。
 私は、反射的に公園の方を見てしまった。
 そこには──一人の少女の姿があった。

 黒いワンピースを着た十歳くらいの少女が、ブランコに座って、ゆらゆらと揺れている。
 さっきの夢と異なる光景だったことに、私は安堵した。
 同時に、夜の遅い時間に、少女が一人でブランコに乗っていることの不自然さが気にかかった。

 親は、どうしたのだろう? あまり考えたくはないが、虐待を受けて、家から逃げだしたということも考えられる。悪いことばかり想像してしまうのは、職業柄だろう。何れにしても、夜の公園に少女を一人にしておくわけにはいかない。

「ねぇ。どうしたの?」

 私は、公園に足を踏み入れると、腰を屈めて視線を合わせてから、少女に声をかけた。

「お姉さんは誰?」

 少女は、つぶらな瞳で私を見つめながら訊ねてきた。

「私は、景子っていうの」

 私が答えると、少女は首を左右に振りながら、「違うよ」と否定した。

「え?」
「お姉さんの名前は、ルナだよ」

 少女は、ブランコから降りて立ち上がった。
 嚙み合わない会話だが、それはきっと少女の勘違いから生まれたものだろう。

「そうなんだ。あなたは、ルナちゃんって言うんだね。私の名前は、景子よ」

「違うわ。あなたの名前は、ルナ──」

 少女は真顔だった。

「だから……」

「さっき、言ったでしょ。その身体をちょうだいって。だから、あなたはルナなの──」

 少女の声音が変わった。
 まるで、機械の合成音のように、歪で不自然な響きを持った声だった。

 さっきって何時? 身体をちょうだい? いったいどういう意味? 疑問が渦巻く中、私の脳裏に、あの老婆のような皺しわだらけの顔が蘇った。
 それに呼応するように、目の前の少女の顔が、それ──に変貌する。

 その身体──私にちょうだい。

 少女が、白い手を私に向かって差し出して来た。
 私は、あまりのことに、悲鳴を上げることしか出来なかった──。

 身体に揺れを感じて目を覚ました。
 人が次々と電車を降りて行く。座席の一番端に座ったまま、ぼんやりとその様子を見ていたのだが、発車を報せるメロディーが耳に入ったことで、ここが目的の駅であることに気付き、私は慌てて席を立った。
 電車の扉が閉まる寸前に、何とか電車から抜け出すことが出来た。

 ──夢?

 違う。そうじゃない。こんなにも鮮明に頭に残っているのだ。あれが、夢であるはずがない。それ──は、確かにあの児童公園にいた。

 でも、なら、どうして私は電車に乗っているのか?
 混乱した頭を抱えたまま、私は駅の改札を抜けた。ロータリーの横を抜けようとしたところで足を止める。
 さっき見たものが、夢なのか現実なのかは判然としない。だが、もはやそんなものは、どちらでも良かった。ただ、もう一度、あの公園の前の道を歩くことは出来ない。かなり遠回りになるが、私は公園を通らない道を歩き始めた。

 時折、周囲を見回してみたが、それらしき影を見ることはなかった。
 やがて、自分の住んでいるマンションが見えてきた。安堵からか、少しだけ気が抜ける。

 最初から、こうやって別の道を通れば良かった。そもそも、私が見たものは、電車で寝た僅かな時間に見た夢に過ぎないのだ。

 オートロックのマンションのエントランスを潜り抜け、エレベーターで四階に上がる。外廊下を進んで、二つ目のドアが私の家だ。

 玄関の鍵を開け、中に入る。
 部屋の電気が点いていた。
 どうやら、今朝、家を出るときに消し忘れたらしい。

 パンプスを脱いで、キッチンのある廊下を抜け、部屋に入ろうとしたところで、「おかえり──」と声がした。

「え?」
 ──何で?

 私は、ドアノブに手をかけたところで、完全に固まってしまった。
 空耳ではない。確かに聞こえた。私は、一人暮らしだ。家で待っているような友人や、彼氏もいない。では、今のはいったい誰が?

 ドアの磨りガラス越しに、部屋の向こうで何かが動くのが見えた。
 それは、人のようだった。
 影は、ゆっくりとドアに近付いて来る。

 私は音を立てないように、ゆっくりと後退る。部屋の中にいる何かに気付かれないように、逃げ出そうとした。
 キッチンに置いてあった鍋に服が引っかかり、けたたましい音を立てて床に落ちる。

 しまった。

 その音に呼応するように、ドアがぎぃ──と開いた。
 黒いワンピースを着た、あの少女が立っていた。

 白目の無い、真っ暗な目で私を見据えた後、にいっと三日月のように口角を上げて笑った。
 私は、踵を返すと、裸足のまま家を飛び出した。

 外廊下を走り、エレベーターに向かう。幸いにして、エレベーターは四階で停まっていた。
 エレベーターの〈下〉のボタンを連打すると、すぐに扉が開いた。中に乗り込み、一階のボタンを押す。
 目を向けると、黒いワンピースの少女は、外廊下にいた。
 エレベーターの扉が、閉まり始めるのを見て、黒い少女が人間とは思えない猛スピードで走って来る。
 逃げようにも、エレベーターに乗ってしまっている状態だと、どうにもならない。ただ、〈閉〉のボタンを何度も押しながら、先に扉が閉まるのを祈るしかなかった。

 ──お願い! 閉まって!

 私の願いが通じたのか、黒い少女がエレベーターに到達する前に、扉が閉まった。
 黒い少女は、勢い余ってエレベーターの扉に激突したらしく、重い金属がぶつかり合うような、鈍い音が響いた。

 ──良かった。

 いや、まだだ。黒い少女は、きっと私のことを追って来るだろう。エレベーターで一階まで降りて、近くの家に駆け込み、助けを呼ぼう。

「あれ?」

 私は、違和感を覚えた。
 エレベーターの扉は閉まったのだが、一向に下降していかない。

 ──どういうこと?

 私の疑問に答えるように、エレベーターが小刻みに揺れ、LEDライトが、ショートしたようにバチバチと音を立てながら明滅する。
 次いで、 メキメキッ──と、倒れゆく木々の断末魔のような音がしたかと思うと、閉まっていたはずの扉が、ズ、ズズッと軋みながら開いていく。あの白い手が、強引に扉をこじ開けたのだ。

 そして、開いた扉の隙間から、黒い少女が──いや、老婆のような顔をした、それ──が顔を覗かせた。
 孔のような目が、私を見据える。

 その身体──私にちょうだい。

「いやぁ」

 私は、叫び声を上げることしか出来なかった。

 身体に揺れを感じて目を覚ました。
 人が次々と電車を降りて行く。電車で寝てしまっていたようだ。違う。そうではない。黒いワンピースの少女の姿が、老婆のような顔に白い手をした、それ──の姿が脳裏に浮かぶ。
 それ──は、逃げても、逃げても追いかけて来る。そして、私は必ず電車の中で目を覚ます。いったいどうすればいいの?

 発車を報せるベルが鳴る。
 本当は、降りなければいけない駅だが、私は席を立たなかった。そうだ。このまま、電車に乗り続ければいいのだ。家に帰ろうとすると、それ──が現れるなら、何処か別の場所に行けばいい。
 ベルの音が、いつもより長いように感じられた。
 人が、どんどん電車を降りて行く。
 気付けば、車両の中に残っているのは、私だけになっていた。

 ──あれ?

 そうではない。私の他に、もう一人乗客がいた。
 向かいの座席に、黒いワンピースを着た少女が、ちょこんと座っていて、あの白目のない黒い目で私のことを見ている。

 ──何で?

 私は、急いで電車を降りようとしたのだが、無情にも扉に辿り着く寸前で閉まってしまった。
 隙間に指を突っ込み、強引に開けようとしたけれど、ダメだった。

「降ろして! お願い!」

 私は、扉を何度も叩いたが、ビクともしなかった。
 電車のモーターの回転速度が上がる音がして、絶望とともに電車が走り出す。

 私は、力が抜けて、その場に座り込んでしまった。

 ず、ずずっ──。
 何かを引き摺るような音がした。
 顔を上げると、すぐ目の前に、それ──がいた。

 その身体──私にちょうだい。

 私は、もう抗う気力が失せていた。それ──は、何処までも私を追って来る。何をしても、逃げられない。
 だから、私は「はい」と答えた──。
 それ──が、嬉しそうに笑った。
 私の中に、何かが流れ込んできて、意識が薄れる。
 やがて、私は、それ──に吞み込まれて、消えていくのだということを知った。

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お読みくださりありがとうございました。
『マガツキ』は3月25日発売予定!
続きはぜひ、書籍でお楽しみください。

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