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恋愛成就の確率

ぼくが、ノックしようとしたとことで、ちょうどドアが開き、中から人が出て来た。
あまりに突然のことに、思わず「わっ」と声を上げ、尻餅を突いてしまった。

「大丈夫ですか?」

中から出て来た学生らしき青年は、ぼくに手を差し出してくれた。

中性的な顔立ちで、男性アイドルと見紛うほどのルックスをしているのに、寝癖だらけの髪のせいで、全部を台無しにしている。
それでも、ぼくなんかよりは、ずっとかっこいい。
ぼくも、こういう容姿で生まれてくることが出来たなら、人生が少しは楽しくなったのかもしれない――ネガティブだと分かっていながら、どうしても、そんなことを考えてしまう。

「立てますか?」

青年に言われて、「あ、はい。大丈夫です」と慌てて応じつつ、自力で立ち上がった。

「御子柴先生なら、中にいますよ」

青年は、ドアを指し示しながら言ったあと、その場を立ち去って行った。
すれ違い様に、一瞬、青年の左眼が赤く光ったように見えたけれど、きっとただの勘違いだろう。

少々、想定外のことがあったが、ぼくは気を取り直してドアをノックした。

「入って来い――」

こちらが名乗る前に、中から声が聞こえて来た。

ぼくは、「失礼します」とか細い声で応じながらドアを開ける。
部屋の中には、積み上げられた段ボールの箱が、林のように林立していた。
講義の内容は怖ろしいほどに理路整然としているのに、自分の研究室は、こうも乱雑なのかと驚きつつも、部屋の奥へと進んでいく。

奥のデスクに、座っている御子柴岳人の姿が見えた。

大学の准教授である御子柴は、さっきの青年に負けず劣らずのイケメンで、「白衣の王子様」などと呼んでいる女生徒もいるくらいだ。
ただ、パーマを失敗したようなボサボサ髪のせいで、魅力が半減している。

もしも、ぼくがさっきの青年や御子柴のような外見に生まれたなら、毎日鏡を見るのが楽しくて仕方ないはずだ。髪型だって、きっちりセットするのに。そうしたら、きっと彼女も……。

「なぜ、呼ばれたか分かっているか?」

ぼくの妄想を掻き消すように、御子柴が言った。
何時、取り出したのか、棒付き飴を口の中でモゴモゴと転がしている。

「はい」

ぼくは、小さく頷いてみせた。
御子柴が、ぼくを呼び出した理由はただ一つ――課題だったレポートを提出していないからだ。

「分かっているなら、さっさと出せ」

御子柴は、ぼくの方にずいっと手を差し出してくる。

「す、すみません……まだ、終わってなくて……」
「終わっていない? どうしてだ?」
「あの……ちょっと、その……」

上手く返事が出来なかった。
レポートを提出出来ない理由は、至極個人的な事情によるものだ。こんなことを、准教授である御子柴に言ったところで、単なる言い訳にしかならない。

「まあいい。何となく察しはついている」
「え?」
「何か悩みを抱えている。違うか?」
「ど、どうして、それを……」
「これを見れば、一目瞭然だ」

御子柴は、そう言うと、折れ線グラフの書かれた紙をデスクの上に置いた。

そのグラフが、何のデータを示したものかは、すぐに分かった。ぼくのテストの点数の推移を表したものだ。

「お前の成績は、常にトップだった。しかし、三ヶ月前から突如として、急激な下降線を辿っている」
「テストが難しくて……」
「違う」
「え?」
「テストのレベルは変えていない。仮に、勉強についていけなくなったのだとしたら、学習範囲が変わったこのタイミングでないと辻褄が合わない」

御子柴は、そう言いながら、グラフの一点を指し示した。

「…………」
「納得出来ないなら、こっちのグラフを見てもらおう」

御子柴は、新たに折れ線グラフの書かれた紙を取り出し、デスクの上に置いた。
グラフの折れ線は、テストの点数の推移とほぼ一致しているが、参考にした数値が何なのか分からない。

「これは、何のデータですか?」

ぼくが訊ねると、御子柴はニヤッと笑みを浮かべてみせた。

「講義の最中に、ぼくと目が合った回数だ。お前以外の生徒の分も、全部あるぞ」

御子柴は、書類の束を取り出し、デスクの上に置いた。
――ヤバいだろ!
御子柴は、さも当然のように言っているが、講義の最中に、全生徒と目が合った回数をカウントしているとか、常軌を逸している。
だが、御子柴は、そんなことは意に介することなく、話を続ける。

「このデータからも分かる通り、お前は三ヶ月ほど前から、突如として集中力を失っている。考えられる可能性は二つ。体調に異変を来したか、何か悩みがあるか――だ。体調に問題がある場合は、出席日数が減少するが、その傾向はないので、これは除外する。そうなると、残された可能性は一つ。集中力を欠落させる悩みが発生している――ということだ」

御子柴は、そう言ってぼくの眼前に棒付き飴を突き付けた――。

図星だった。御子柴の言う通り、ぼくは大きな悩みを抱えている。
それを表情の変化や言葉ではなく、データから割り出すところが御子柴らしいといえばらしい。

「言ってみろ。ぼくが、お前の悩みを解決してやる」

御子柴は、そう言ってニヤッと笑った。

「いえ。大丈夫です」
「なぜだ?」
「御子柴先生には、縁の無い話だと思うので」

ぼくがそう言うと、御子柴がぐいっと片方の眉を吊り上げた。

「聞き捨てならんな。ぼくは、全てのことに精通している。数学を応用すれば、どんな悩みだって解決することが出来るのだよ」

御子柴は、長い足を組んでふんぞり返った。

「いや。無理です」

ぼくは、首を振って答える。

「無理だと決めつけるな」
「でも……」
「でもじゃない。ぼくは、何だって解決出来ると言っているだろ」
「そう言われても、恋愛の悩みなので、数学では解決出来ません」

言うつもりは無かったのだが、話の流れで口に出してしまった。
でも、これで御子柴も引いてくれるだろう。
大学の准教授が、学生の恋愛相談に乗るなんてしないだろうし、恋愛の問題ばかりは、数学では解決出来ない。

「面白い。お前の恋の悩みを、数学的に解決してやろうじゃないか」

想定外の言葉に、思わず「え?」となる。
御子柴は、棒付き飴を口の中に放り込み、得意そうにニヤニヤと笑っている。

「ほら。解決してやるから、現在の情報を提示しろ」

御子柴が、来い来いという風に手を動かす。

――この人は、本気で数学で恋愛の悩みを解決するつもりなのか?

正直、恥ずかしさで顔から火が出そうだが、何を言っても御子柴は引きそうにない。ぼくは、仕方なく、悩みを吐き出すことにした。

ぼくが、彼女と出会ったのは一年前のことだった――。
何気なくキャンパスを歩いているとき、古いキーホルダーが落ちているのを見つけた。小学校の頃に流行ったアニメのキャラクターが付いたものだ。
辺りを見回してみると、前屈みの姿勢で、地面をキョロキョロと見ながら不自然に歩いている女性の姿を見つけた。
何かを探しているのは、明らかだった。このキーホルダーの持ち主かもしれない。
ぼくが「あの――」と声をかけると、彼女は警戒心を顕わにしたが、キーホルダーを差し出すと、その表情は、すぐに弾けるような笑顔に変わった。
「ありがとうございます! これ、大切な人からもらったものなんです‼」
「あ、いえ……」
ぼくは、適当に返事をして、逃げるようにその場を立ち去った。彼女の笑顔が眩し過ぎて、直視することが出来なかったのだ。
名前も知らない彼女の笑顔に、心を根こそぎ持っていかれてしまったのだ。

寝ても覚めても、彼女の顔が頭から離れなかった。
とてもかわいらしくて、それでいて、何処か懐かしい――そんな笑顔だった。
懐かしいと感じるのは、初恋の相手である幼馴染みの少女に、彼女が似ていたからだろう。
毎日、一緒に遊んでいたけれど、小学校六年生の時に引っ越してしまってから、それっきりになってしまった。
そんな甘酸っぱい記憶が上乗せされているからこそ、余計に印象に残っていたのだろう。

それ以来、キャンパス内で彼女の姿を探すようになったけれど、当然、見つけることは出来なかった。

もう、二度と会えないかもしれないと諦めかけていたのだが、三ヶ月前に、ぼくの所属する文芸サークルに、季節外れの入会希望者がやって来た。
それが彼女だった――。

もしかしたら、彼女と話が出来るかもしれないと、天にも昇る気持ちだったが、その気持ちは、すぐに奈落に叩き落とされた。
サークルの先輩である小林が、彼女に目を付けたのだ。
小林先輩は、なかなかのイケメンで女性人気が高い上にコミュニケーション能力も高い。
外見のコンプレックスから、女子とほとんど会話を交わしたことのない恋愛弱者のぼくとは、真逆の存在だ。
すぐに、彼女と仲良くなり、ぼくが話かける隙がないほどに、べったりになった。
目の前で、憧れている女性が他の男性と仲良くしているところを見せつけられるのは、本当に辛い。
最近では、二人が恋人同士だという噂が囁かれるようになった。
事実を確かめたいけれど、噂が真実になってしまうことを考えると、訊ねる勇気はない。

そんなモヤモヤが重なり、勉強も手につかなくなり、ズルズルと今に至るという訳だ。

「ああ、退屈だ」

それが、ぼくの話を聞き終えた御子柴の第一声だった。

「た、退屈って……」
「退屈だから、退屈だと言ったんだ。恋愛の話というのは、どうして、どれもこれも面白みがない。はっきり言って、時間の無駄だ」
「御子柴先生が、話せと言ったから、話したんですけど……」
「うるさい。文句を言うな」
「別に文句では……」
「まあいい。ぼくが、お前の恋愛成就の確率を算出してやろう――」

勝ち誇った御子柴の顔を見て、嫌な予感しかしなかった……。

「恋愛成就の確率の算出……ですか……」

そんなことが出来るとは、到底思えないのだが、御子柴は自信に満ちた表情を浮かべたまま、席を立ち、ホワイトボードの前に移動した。

「まず、統計のデータ上、両思いの男女が、交際に発展する確率は80%程度だと言われている」

御子柴が、白衣のポケットからマーカーを取り出し、ホワイトボードに書き込む。

「え? 両想いなら、100%ではないのですか?」
「お前はアホか⁈ 講義でもやっただろう。不確実性下における選択の話だ。結果が見えない状態だった場合、人はリスクを避けて何もしないという選択をする」
「何もしない人が20%ということですね」
「そうだ。これでも高い方だと思っている。おそらく、そこには、友人からの助言など、外的な要因が加わってくる……まあ、これはあくまで両想いだった場合だから、お前には関係無さそうだな」

まるで、彼女がぼくに好意を寄せていないかのようなもの言いに傷ついたが、反論する言葉が見つからない。
御子柴の言う通り、彼女はぼくのことなど眼中にないはずだ。

「そうですね」
「お前の話を聞く限り、一目惚れした――ということになるが、その場合、恋愛が成就する確率は、統計的に30%程度だ」
「低いですね……」
「いや、この数値は、まだ高い」
「え?」
「さっき、統計だと言っただろ。つまり、ただの数に過ぎない。対象者のスペックが考慮されていない」
「ス、スペック……」
「そうだ。お前だって、相手が誰でもいいという訳ではないだろう」
「確かに……」
「相手の女性が、恋人として重視している項目が何かは、情報が少な過ぎて判断できない。ただ、外見の要素は外すことが出来ないだろう」
「外見?」
「人間は、外見の第一印象で他人を判断している。実に、その数は90%にも及ぶ」
「それは偏見ではありませんか? 外見だけで、恋愛している訳ではありません」

ぼくが主張すると、御子柴は、ふんっと鼻を鳴らして笑った。

「お前がそれを言うか?」
「え?」
「一目惚れということは、外見によって判断した結果ではないのか?」
「…………」
「お前は、自分の外見にコンプレックスを抱えているが故に、人は見た目だけではない――と思い込もうとしているに過ぎない。恋愛において、外見というのは、重要なファクターなのだよ」
「…………」

ロジカルに考えればそうなのかもしれないけれど、何だか最低なことを言っている気がする。

「さらに言うと、人間というのは、人間は、同じレベルの外見の相手を選ぶ傾向がある」

御子柴は、容赦のない説明をしながら、ホワイトボードに三角形を描き、階層となる横線を引く。
ヒエラルキーを示す図のらしく、上からS、A、B、C、D、Eの七つの階層に別れていた。

「外見によるヒエラルキーが、このようになっていると仮定し、同階層同士の恋愛が成就する確率が一番高くなり、離れるほどに確率は下がっていく。お前の思い人は、客観的に見て、どの階層だ?」

御子柴が、マーカーをぼくの眼前に突き付けた。
外見だけで、女性をランク付けするみたいで、もの凄く抵抗があり、口を噤んでいたのだが、御子柴は「早くしろ!」と急かしてくる。

「エ、Sです」

ぼくが答えると、御子柴は「ならばBだな」と吐き捨てるように言った。
勝手に彼女のランクを二つも落とされたことが、どうにも納得できない。

「彼女は……」

ぼくの反論を御子柴が「黙れ」と制する。

「お前は、恋愛状態にある。この時、脳は客観的な視点を失い、対象の相手を美化する傾向がある」
「で、でも……」
「異論があるなら、相手の女性がSランクであることを示す、客観的な証拠を提示しろ」

そんなものがある訳もなく、ぼくは押し黙るしかなかった。
だいたい、ランク付けの証拠って何だよ! 何だか、段々と腹が立って来た。
早くこの場を逃げ出したい気持ちになったが、御子柴の話は終わらなかった――。

「次に、お前のランクだが……Dといったところだな」

下から二番目の評価だが、反論する気はない。
自分の容姿が優れていないことくらい自覚している。

「お前と、対象者の間には、2ランクの開きがある。これまでの情報を整理して、ざっくり計算すると、現段階で恋愛が成就する確率は、5%といったところだ」

ホワイトボードに記された数字を見て、ぼくは絶望的な気分に陥る。
見込みがないことは分かっていたが、数字を突き付けられたことによる破壊力は予想以上だった……。

「もう、分かりました。無理ということですね」

ぼくが肩を落としながら言うと、御子柴はぐいっと眉を吊り上げた。

「誰がそんなことを言った?」
「え?」
「これは、あくまで現段階の数字に過ぎない。様々な要素を追加することで、この数字は変動する」
「そ、そうなんですか⁈」
「幾つかの条件を加味すれば、対象者が、お前に対してどの程度、興味を持っているかを図ることが出来る。それによっては、数値は大幅に上昇する」
「⁈」

真っ暗だった視界に、一筋の光りが刺したような気がする……。

「お前は、対象者から恋人の有無を訊かれたことはあるか?」
「無いです」
「対象者から、連絡が来る頻度は?」
「連絡先を知りません」
「訊かれたことは?」
「ありません」
「会話の頻度は?」
「必要最低限です」
「同じ空間にいて、目の合う頻度は?」
「ほとんどありません」
「なるほど……」

御子柴は、呟くように言うと、ホワイトボードに何やら数式を書き始めた。
やがて、計算が終わったらしく、一際大きくホワイトボードに数字を書き記し、丸で囲った。

「これが、お前の恋愛が成就する確率だ」

そこに書かれていたのは、0.00089%という数字だった――。

「…………」
「これは、あくまで現状の数字なので、お前の行動次第では、上昇させることは可能だ。しかし、それには途方もない努力と忍耐が必要になる」
「…………」
「仮に、確率を上げることが出来たとしても、精々、10%がいいところだろう。労力とそれによって得られる成果を鑑みたとき、実に効率が悪いと思わないか?」
「はい……」
「では、何をすべきかは分かるな」
「彼女を諦めて、勉強に専念します」

ぼくが、か細い声で答えると、御子柴は満足そうに頷き「話は以上だ――」と会話の終了を告げた。

ぼくは、のろのろと立ち上がり、研究室を出た。

――御子柴の言う通りだ。
そもそも、叶うはずのない恋なのだ。そんなものに、労力を割き、無理に傷付く必要はない。すっぱりと彼女を諦めて、勉学に励もう!!

頭の中で、そう決めたはずなのに、心がもやもやして、足取りが重かった。
目頭が熱くなり、涙が零れそうになる。

――ああ。ダメだ。

ぼくは、中庭に出たところで、堪らずベンチに座った。
涙が落ちないように、空を見上げる。
今はまだ、彼女のことで頭がいっぱいだけれど、いつかは、空に浮かぶ雲のように消えていくのだろうか――。
などとぼんやり考えていると、誰かがぼくの前に立った。
顔を向けると、そこには、一人の青年が立っていた。
さっき、御子柴の研究室の前でぶつかった、ぼさぼさの髪の青年だった。

「大丈夫ですか?」

青年が、眠そうな目をしながら、訊ねてきた。
こうして間近で見ると、左眼だけ赤く染まっているのが分かった。オッドアイなのだろう。

「あ、えっと、その……」

何だか、恥ずかしいところを見られてしまった。
どぎまぎしながら答え、ベンチから立ち上がろうとしたところで、その青年が口を開いた。

「御子柴先生に、何か言われたんですね」

その青年が静かに言った。
抑揚の無い声だったのに、なぜか、それをきっかけに、ぼくの中にある感情のストッパーが外れてしまった。

気付いたときには、涙を流していた……。

名前さえ知らない青年に促され、ぼくは、泣きながらも、自分の恋の話と、御子柴先生に言われたことを、ポツリポツリと話して聞かせた。

青年は、ときおり苦笑いを浮かべ、寝癖だらけの髪をガリガリと掻いたりしたが、文句を言うでもなく、黙ってぼくの話を聞いてくれた。

「すみません。妙な話をしてしまって……」

ぼくは、涙を拭いながら青年に詫びた。
初対面に等しい人物から、いきなりこんな話をされても、困るだけだろう。自分のことばかりを優先して、周囲が見えていなかった。

「別に、謝るようなことではありません」

その青年は、表情を変えずに静かに言う。

「いえ……それでも……」
「そんなことより、これからどうするんですか?」

青年が、そう訊ねて来た。

「御子柴先生の言う通りです」
「諦めると?」
「はい。御子柴先生が出してくれた確率は正しいです。無駄なことに、労力を割くより、勉学に励むべきです」
「あなたが、それでいいと言うなら、ぼくはこれ以上、口は挟みません。ただ、御子柴先生の算出した確率は、バイアスがかかっています」
「バイアス?」

そう聞き返したぼくの声は、裏返っていた。
御子柴は、講義の時からバイアスをかけるな――と口を酸っぱくして言っている。その御子柴が、自ら算出した確率にバイアスをかけているとは、到底思えない。

「そうです。御子柴先生の算出した確率は、恋を諦め、勉学に専念さる――というバイアスをかけています」
「本当にそうでしょうか?」
「ええ。恋愛の成功率を算出する為には、データが圧倒的に不足しています」
「不足?」
「彼女の側のデータが何もない。片側だけ見て、全体を把握することは出来ません」

確かに、青年の言う通りかもしれない。
あくまで、ぼくの側からの情報だけで、正確な数値を算出することなど出来ないはずだ。
一瞬、希望を持ちかけたが、それはすぐに萎んでしまった。

「彼女の側のデータを収集したとしても、結果は大して変わりません」
「ぼくは、そうは思いません」
「どうしてですか?」
「恋愛に限らず、人の気持ちというのは、数値では測れないものです」
「…………」
「人は、何気ない一言で心を救われたりするものです」
「何気ないひと言……」
「それは、数字に表れることがないけれど、その人の人生を変えてしまったりします」
「でも、ぼくは……」

彼女にそんな影響を与えるほど、話をしていない。

「安心して下さい。あなたに、どうこうしろとは言っていません。ただ、あなたは、それでいいのですか?」

青年が僅かに目を細めた。
赤みを帯びた左眼が、そのときやけに妖しく光ったように見えた。

「ぼ、ぼくは……」
「IFを考えながら、悶々とした日々を送るくらいなら、実証実験をして、可否を確認した上で、次に進む方が、勉強の効率は上がる――という話です」

青年は、そう言うとベンチから立ち上がった。

「あなたが、何を選択するのも自由です。ただ、一つだけ。彼女にとって、そのキーホルダーはとても大切なもののはずです。その意味を考えることをオススメします」

それだけ言い残して、青年は歩き去ってしまった――。

ぼくは、しばらくベンチに座って呆然としていたが、じわじわとさっきの青年の言葉が心に染みて来た。

気付いたときには、ぼくはベンチから立ち上がり、彼女の姿を探して、大学の構内を歩き始めていた。
彼女が、今キャンパスにいるかどうかも分からない。意味の無いことだというのは分かっている。それでも、なぜだかじっとしていられなかった。

入学式が行われた、大講堂の前まで来たところで、思わず足を止めた――。

彼女の姿を見かけたからだ。
彼女は、懐かしむように、葉を落とした桜の木を見上げていた。

探していたはずなのに、いざ声をかけようとすると、思うように言葉が出て来なかった。
彼女の鞄には、あのときぼくが拾ったキーホルダー着いていた。
ぼくが、小学校六年生の時に流行っていたアニメのキャラクター。
ぼくが大好きだったアニメ。
そういえば、昔、同じものを持っていた。

――あれは、どうしたんだっけ?

「あっ!」

ぼくは、思わず大きな声を上げていた。
思い出したのだ。全て――。

彼女が、ぼくの声に反応して、ゆっくりと振り返る。

視線がぶつかる。

「みーちゃん」

ぼくは、彼女に向かって呼びかける。
すると彼女は、ぱっと花が咲いたように、明るい笑みを浮かべた。

「やっぱり、たっくんだよね」

彼女が、ぼくの前に駆け寄ってくる。

ああ。そうだ。
ぼくは、彼女のことを前から知っていた。
小学校六年生の時に、引っ越してしまった幼馴染み。お別れのとき、ぼくが彼女に大切にしていたキーホルダーを渡した。それを、彼女は、今も大事に持っていてくれた。

そのことだけで胸がいっぱいになった――。

※        ※     ※

斉藤八雲が、研究室に顔を出すと、御子柴が不機嫌そうに椅子にふんぞり返っていた。
何だか嫌な予感しかしない。

「おい。お前は、ぼくの確率にバイアスがあるとか言ったそうだな」

御子柴が、棒付き飴で八雲を指差しながら言う。

――ああ。あのことか。

「さあ。記憶にありません」

八雲は、惚けてみせたが、それで逃がしてくれるほど御子柴は甘くない。

「いいか。ぼくの計算は間違えていなかった。ただ、二人が幼馴染みだったという、決定的な情報が抜けていただけだ」

御子柴は、ずいぶんと憤慨しているが、八雲からしてみれば、それこそがバイアスだと思う。

「情報は抜けていませんでしたよ。本人が気付いていなかっただけで、二人が元々の知り合いであることのヒントは、話を注意深く聞いていれば分かるはずです」
「そんな、引っかけ問題みたいなもので、ぼくを騙して楽しいか?」
「別に楽しくありませんし、そもそも、ぼくが問題を出した訳ではありません」
「ぐぬぬう」

御子柴は、棒付き飴を口の中に放り込んで唸る。

「そこまで言うなら、チェスで白黒付けようじゃないか!」

御子柴は、唐突に言うとデスクの上にチェス盤を置いた。
どうしてそういうことになるのか意味不明だが、どうせ逃げられないと諦め、八雲は御子柴の向かいに腰を下ろした。

「で、その後、二人はどうなったんですか?」

八雲は、ポーンの駒を動かしながら訊ねる。

「交際をスタートさせたそうだ」
「良かったじゃないですか」
「全然、良くない」
「成績が下がったんですか?」
「いや、10%ほどパフォーマンスが上がっている」
「いい傾向ですね」
「全然、良くない! ぼくの言う通り、諦めていれば20%は向上したはずだ」
「そうかもしれませんけど、そうじゃないかもしれません」
「どういうことだ?」
「恋愛の確率を正しく導き出すことは、誰にも出来ないということです」
「そんなはずはない! ぼくが全力を出せば、いかなり恋愛においても、正しい数字を導き出すことが出来るはずだ!」
「いや、だから……」
「信用出来ないなら、検証してやろう!」

御子柴は、そう言うと勢いよく立ち上がった。

――余計なことを言ってしまった。

八雲は、激しい後悔に襲われたが手遅れだった――。

おしまい


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