見出し画像

神椿代々木決戦2024 : 再起動される物語

時代の趨勢はともかく、小さな個々の出来事は偶然の結果だ。

花譜がバーチャルシンガーという姿を得たことも、理芽が才能を見出されたことも、春猿火やヰ世界情緒、幸祜がV.W.Pとして世に出たことも、言ってしまえば偶然だ。出来事のタイミングが少しずれただけでも、普通の学生として過ごしていたり、別のグループだったり、別の姿だったり、さまざまな異なる未来が当然のようにあり得た。

一方で現在の形はただ偶然が集まったものではない。それぞれの意志で根気強く丁寧に編まれ続けてきたものだ。もしもそれぞれの強い思いとそれを支える人たちがなければ、ひとつひとつの偶然は簡単に途切れてしまったに違いない。だがそうはならなかった。誰一人も欠けることもことなく、停滞することもなく、5人揃ってまた一つの舞台に立っている。

離れた場所でそれぞれ噴き出した小さな湧水が一つの川へと束ねられ、ほんの小さな細流だったものが支流を飲み込んで勢いを増していく。いまや大海ですらこの新しい川の名前を知りつつあるだろう。『V.W.P』だ。

『現象2』

人混みは苦手だ。
満員電車を避けやすいという理由だけで都心に住んでいる。美術館や博物館から観覧権が届いても、展示が大人気で平日でも入場者が溢れていると聞けば行かない。映画館へ最後に行ったのは何年前のことかもわからない。

そんな自分も代々木第一体育館で1.5万人に揉まれながら1時間近く入場を待っていた。遠くに落雷、頭上からはみぞれ。スマホを濡らさないようにポケットに入れたまま立ち続ける。中へ入って似たような人混みの中でさらに4時間近く過ごすために。にも関わらず嫌な気持ちはほとんどなかった。期待と不安が混ざった高揚感だけが静かに渦巻く。

ライブの直前は開幕まで何も音楽を聴きたくなかったのでイヤホンを外していた。だから周囲でファンたちが興奮しながらライブやV.W.Pについて語り合うのがよく聞こえてくる。たかが人混みに並ぶことを大仰に書いたが、周りの彼らがここへやってきた旅程を考えれば本当に些細なことだ。

1.5万人、その多くが半日以上かけて全国からやって来る。年齢層を考えればかかる費用だって相当に負担だろう。しかも彼らは何故か朝も早くから押し寄せていたようだ。開場は夕方だというのに。ましてや会場の中で準備を進める関係者がこのライブのために費やしてきた時間と労力は言うまでもない。

三つの世界観

V.W.Pに関連する「物語・文脈・背景」は複数の種類がある。

  1. 不可解のコンセプトムービーなどで予示された物語。世界観としては最も曖昧だが大雑把に言って力を合わせて世界のために戦う魔女たちをイメージした世界観

  2. KOTODAMA TRIBEをきっかけとした現象1を支える物語。観測による存在証明をテーマとして、アルバム『運命』などV.W.Pによる楽曲コンセプトの根底となった世界観

  3. 「神椿市建設中。」や深化から始まったSINKA LIVEを支える物語。メディアミックスやメタバースの根底となる世界観
    (ここにはメディアミックスの素材と「可能性の拡張」という思想が混ざっている)

このうち、1と2はデビュー当初から長らくV.W.Pを支えてきたものではあるが、抽象度が高くさまざまなメディアミックスを支える世界観にはなりえなかった。今後の五年十年を支えるためにはSINKA文脈へのリブートがライブや楽曲の面でも進んでいくのかもしれない。

とはいえ、今までの物語がすぐになくなるかといえばそうは思わない。MVや楽曲を創作する上では抽象度の高い1や2の物語が適しているが、アニメやゲーム、小説など具体的なストーリーを伴うコンテンツにはSINKAの物語が適している。リブートと表現はしたものの、実際にはただ切り捨てられるわけではなくこれら複数の物語がそれぞれの場面に対して使われるだろう。

記憶のない思い出

人生全部フィクション 伝う涙すらも全部フィクション
揺れるフードも踊る髪の毛も 何もかも全部フィクション
でもさ 叫びたいんだよ
この感情だけはわかってる 

暴れてる 気づいてる
その全てを抱きしめ歌う運命
立ち向かう幻影 揺れ動く生命

今己を証明する言葉を
「私たちは魔女だ」
「これは魔法だ」

『宣戦』- V.W.P

自分はアルバム『運命』の世界観(KOTODAMA文脈)が好きだ。最初に書いたnote(『V.W.P系譜曲: 虚構へ正対する』)はまさに「系譜曲がなぜエモーショナルなのか」という話題だった。カンザキイオリによって作られた一連の楽曲による「自分達は虚構で偽物だ。だけど、それでも、観測される限りこの思い、この感情は確かに存在するんだ」という儚くて力強い止揚に心を揺さぶられた。

1st ONE-MAN LIVE『現象』の配信アーカイブを何度も観直すうち、感じたことを表現したくなってnoteを書き始めた。近くで体感したくて現地ライブに来た。V.W.Pに今までアーティストに感じたことがない熱量を抱いた。

だからこそ今回の『現象2』を迎えるにあたってはいくつかの不安もあった。「代々木決戦」と銘打たれたVS形式や、拡声と称されたSINKA LIVEの継承が予示されていたからだ。しかし、結論から言えばこれらは楽しむ上で問題にならなかった。

思うに、こうした予示を受けたファンはつい「それらが主体になってしまう」とイメージするが、結局のところ主体となることはまずない。神椿のライブは「安心と緊張」「既知と未知」「期待と裏切り」のバランスが常に3:1か2:1あたりに設定されている。プロダクトアウトな傾向が強い神椿であっても「ファンが大好きなことが明らかで、楽しみにしつづけて来たこと」をちゃんと主軸にしてくる。それは信用しても良いことだろう。

そしてライブが一度始まれば、そんな評論じみた考えや客観的な見方もすべて吹き飛んでしまう。覚えているのは楽しかったことだけだ。4時間近いライブのセトリやそれぞれの曲や演出に対する細々とした記憶はあまりない。

V.W.Pのメンバーが五人揃った姿を見て、舞台に吹き上がった火柱の熱風すら感じる距離で、歌に向かって声を上げて腕を振るのがただ楽しくて、ただ嬉しかったことだけをしっかり覚えている。だからといってひとつひとつのことを思い出すためにアーカイブで観直す気にもなれない。今はまだライブで受け取った純粋な感覚だけを抱え込んでいたい。


自分は「誰かを推す」という文化を未だ遠くに見ている。ファンレターを書いたり配信にコメントしたり、直接的にアーティストへ何かを届けたり対話したりすることがずっと出来ないままでいる。

V.W.Pを本格的に追い始めた2年前から何も変わっていない。アーティストではなく生み出される作品をできるだけ見て、アーティストには親近感すら持たないようにしてしまう。自分とアーティストの間に関係性を置きたがらない。アーティストが作品を作り、受け手がそれを受け取るだけでいいと思っていた。

ただ『現象2』の終盤に一度だけ、舞台のMCに応えるように「ありがとう」と口に出してみた。それは出そうとしたよりもずっと小さい声量で、他の歓声に紛れて舞台までは聞こえるわけがない、自分が初めてV.W.Pに向けて口に出した感想だった。

推すということは理解できていない。だが「追いかける」という感覚はV.W.Pのお陰で理解できるようになった。本来、作品は時間も空間も思いも超越する。百年前に作られた歌は今なお人の胸を打つ。今やどんな場所にいても好きな歌を聴くことができる。歌詞の言葉が何もわからなかったとしても楽しむことができる。

だが、その一方で同じ時間を共有しなければ得られない感動がある。最初のnoteで書いた通りだ、「たった10年早く聴いても、10年遅れて聴いても、この曲が作られた意味を理屈を超えて理解することは難しい」。自分にとってV.W.Pは同じ時間、同じ空間、同じ思いを共有したいと思えるものだった。だからどうしても来たかった、この代々木第一体育館に。

『現象2』が終わって帰ろうとしたとき舞台を振り返ってみた。開幕前と同じように舞台は暗くて何も見えず、ただ上空に並んだ照明が靄を通して輝いていた。自分は、その光景がとても綺麗に思えて、何度も何度も後ろを振り返りながら出口まで歩いた。

『怪歌』

むかしあるところに、歌うことが大好きな一人の女の子がおりました。
いつものように人知れず独りで歌っていた彼女の歌声が、あるとき通りすがりの笛吹男の耳に偶然入りました。驚いた笛吹男は思わず足を止めて女の子に近づいてこう誘ったのです。

「もっと多くの人に君の歌を聞かせよう。一緒に来てくれないか」

女の子がしばらく悩んだ末におずおずと頷くと、笛吹男と彼の仲間たちはさっそく集まって彼女のためにせっせと衣装を作りました。出来上がった素敵な衣装を彼女へ着せてあげると、彼らは仕上げに彼女へ魔法をかけたのです。彼女の歌がより多くの人に聴いてもらえるように、彼女が守られるように、そして彼女が幸せになれるように。


女の子は笛吹男と旅に出ました。
さまざまな場所で歌って、大好きな歌が増えて、大切な仲間と出会って、大切な仲間と別れて、喜んだり悩んだり泣いたりしながら彼女は少しずつ成長していきました。

彼女の歌を聴こうとする人も日ごとに増えつづけ、後ろを振り返れば笛吹男と彼女の後ろに連なる行列の先が地平線の先に消えてしまうほどです。

そして彼女の背丈がすっかり伸びて立派な大人になった頃、二人はある決意を固めたのでした。

今日の物語はここから始まる。

魔法と現象

女の子は、花譜は、もう魔法を必須とはしなくなった。

『怪歌』の衝撃は一週間が経つ今でも後を引いている。その結果は人それぞれで、何の気後れもなく「待っていた」と言える人もいれば、心の整理がつけば応援できるという人も、この世の関節が外れてしまったのだと感じる人もいるだろう。受けた感情はどれも正しく、その人と花譜との間にしかない唯一無二のものだ。


バーチャルシンガーは映画や演劇がそうであるように総合芸術である。キャラクターデザイン、プロデュース、照明、リリックデザイン、動画。多数の才能や情熱、労力と思いによって作り出されている。花譜もV.W.Pも、オリジンに対する属人性が非常に高いとはいえ多人数による「作品」だとも言える。

人間より作品のほうを見る自分はずっと作品としての『花譜』を観ていた。『花譜』とそれに付随する物語が好きだった。例えば『裏表ガール』で歌われたような、分かち難い自分であって自分ではない『花譜』に対する複雑な愛着や『花譜』というアバターを纏って活動することによって生まれる物語が好きだった。その内側で少しずつオリジンとして成長していく花譜の物語が好きだった。


確かに『花譜』にせよ『V.W.P』にせよ、アバターを通じて物語を背負い活動するのは「透明な幽霊の複合体」のような不確かさと不自由さがある。だから、アーティストとして彼女自身に素晴らしい価値がある以上はそこから踏み出そうとするのも当然の成り行きだとも言える。

だが、自分が花譜とV.W.Pに熱中した最大の理由はこの「不確かさ」や「不自由さ」にあった。存在していると言えるのか不確かであるからこそ現象と呼び、観測して、存在を証明しようという物語がきっかけだった。

元を辿れば、花譜がバーチャルの姿を得たのは単なる偶然で単なる手段に過ぎない。だがそれは長い活動のあいだで物語性を得て、もはや単なる手段ではなく彼女を構成する一部にもなっていた。少なくとも、自分はそんな風に捉えてしまっていた。

アバターを纏うことを単なる手段と捉え直してしまえば、『花譜』の中にも存在していた「現象と観測の物語」は失われていく。フィジカルの姿で活動可能な人間という即自存在は、厳然と存在する廻花は、観測しようがしまいが証明不要でそこに在る。

そしてバーチャルであることをネガティブに捉えた上でそこにある「本物」と「思い」を賛美し、存在するために観測と証明を必要としたKOTODAMA文脈は、バーチャルであることを単なる手段や可能性の拡張・リアルの延長とポジティブに捉えるSINKA文脈とは本質的に衝突している。

だから今後の方向としては、花譜もV.W.PもKOTODAMA文脈を徐々にフィードアウトさせSINKA文脈によってリブートされていくだろう。「みんながいるからこそ私たちは存在しています」という言葉の特別さは次第に薄れていく。


自分は今までnoteを書く中でも花譜にかけられた魔法を薄めたくなかった。つまり多数の手による作品にオリジンが人格を仮託して魂を吹き込む、その仕組みについて詳細に客観的な言及をしたくなかった。その魔法が好きだったからだ。

仕組みが丁寧に説明されてしまえば魔法は消え失せてしまう。あたかも解剖されたカエルが死んでしまうように。笑いどころを説明されたジョークがもう笑えなくなるように。色眼鏡を外した瞬間にエメラルドの都は色褪せてしまう。

『花譜』のどういう部分がオリジンに由来するもので、どういう部分がエンチャントされたもので、それぞれがどんな風に作用して観測者に届くのか、なんてことについては踏み込んだ言及を避けた。

だからカンザキイオリが花譜の元を去ったあのときにも、それによって何が変わるのか、『花譜』にどんなものが残るのかについて口を噤んでいた。本人たちによって魔法が解かれた今となっても、自分はまた口を噤もうとしている。『花譜』から廻花が取り出された後、『花譜』にどんなものが残るのかについて。


ここ数年の『花譜』にまつわる様々な変化と試みは、あたかもテセウスの船のように同一性やユニーク性に関する問いを生み出している。

ユニーク性は声に宿るのだろうか。では音楽的同位体(The Right Staff)としてそれを複製してみよう。

カンザキイオリの楽曲は『花譜』のイメージとどれくらい分かち難いのだろうか、彼を取り除いてみよう。

見た目はどうだろうか。新しいVHのアバターに入れてみよう。まだ『花譜』にはユニーク性も同一性もあるようだ。なるほど、では人格に由来するのかもしれない。

なら次に人間としてのプリミティブな人格を廻花として分離してみよう。どこまで引き抜いたり複製すれば自分達の知る『花譜』は同一性やユニーク性を失うだろうか。

もちろん、それらは悪趣味な実験などではなく新しい可能性や表現の模索だ。だが、それでもやはり自分はこの話題に言及したくない。曖昧なままに猶予しておきたくなってしまう。

フリーランチはない

アバターの追加といった新しい展開は「可能性の拡張」や「新しい選択肢」と呼ばれ、あたかも元のものには影響を与えない純粋な「追加」であるかのように表現される。本当にそうだろうか。実際には『花譜』から廻花が取り出されることで不可逆な変化が発生したように、場合によっては重要な何かが失われる。

もっと単純な例えをするなら、アバターの追加は元の存在から何も失わせないだろうか。いや、少なくとも視覚におけるアイコン性(象徴性)が薄れるだろう。もし花譜が持つアバターが増えていけば、頭の中で想像される花譜のイデアは今よりもぼやけたものに変わっていく。発展することで何かを得ると同時にどうやっても少なからず何かは失う。

時間や意欲にしても有限のもので、例えば新しい活動を始めるということは取りも直さず今までの活動のどこかしらが割かれるということだ。トレードオフなしに無料で増えるわけじゃない。可能性の拡張や新しい選択肢は、程度の差こそあれ、純粋な「追加」ではなく何かしらの「分割」だ。

馬車の形をした自動車

技術の過渡期には現代からすると奇妙な製品が生まれる。

例えば黎明期の自動車を見てみれば、その形が馬車とよく似ていることに気が付くだろう。このフォルムには馬車製造の技術やパーツを流用できるなどの利点もあるのだが、そもそも当時の人々は自動車を「馬なし」の馬車だと理解していたのが主な原因だ。

飛行機の歴史を見てみよう。初期に開発された飛行機はどれも今のように固定翼によって揚力を得るのではなく、オーニソプターと呼ばれる翼を動かして羽ばたく仕組みだった。自由に空を飛ぶ鳥に憧れた飛行機という夢はその鳥を模倣するという形で始まり、最終的には鳥の飛び方とはまったく異なる形態に収束していった。

SINKAの壮大な構想を眺めているとこんなことを考える。自分が好きだといった『現象1』の世界観は、いや現在のバーチャルシンガーやVTuberの在り方そのものが、後世からすると「馬車の形をした自動車」「鳥のように羽ばたく飛行機」と同じく中途半端で奇妙な存在であり、時代の過渡期だけの徒花なのかもしれないと。

自分はその先にあるものよりも過程である徒花のほうを好きになって、フォトリアルな表現やフィジカルな表現が苦手で、アーティストを人間として「推す」文化を持てず、コミュニティに属することも避けてきた。

だから自分が『現象』や『不可解』へ夢中になって、最初にnoteを書いた時点でもう運命は決まっていた。それを自覚しているから、ずっとnoteの中で繰り返し「どんなことも終わりがある」「神椿が向かう方向から自分はズレている」「自分は本当のファンじゃない」「何事にもピークがある」と書いてきた。それはきっと自分自身に言い聞かせるものだった。

自分にとって廻花は、今のところはまだ『不可解』の後日譚だ。
自分が最初に好きになった物語、カンザキイオリと成長過程の花譜という組み合わせで生み出されてきた物語は幕を閉じた。いや、閉じていた。

本当はとっくに『不可解参(想)』で終えていたのに、自分はカーテンコールで花譜という役から解放された廻花が出てくるまでその終わりを少しも実感できていなかったわけだ。

自分がこれからどうするかは作品が提示され始めるまで何もわからない。だが確かなのは、多くの観測者とこれから増え続ける彼女のファンにとって『不可解』は廻花の前日譚だ。数十年と続いていくだろう彼女の物語はまだまだ始まったばかりなのだから。

アーティストと作品

これまでの話は要約すれば自分が「人間を推す」という文化を会得できなかったという話でしかない。自分にとって『花譜』も作品、例えば大好きな映画シリーズみたいなもので、その作品が好きだからといって携わった監督や主演が作るものなら何でも観たいとまでは思えない、という話だ。

大好きな映画がいよいよ完結してしまって、今は新たな作品制作の話をされてもまだ聞きたくないし、「実はあの作品も次の作品を作るためのプロトタイピングで…」みたいな話は聞くに堪えない。自分が勝手にそういう気分になっているだけだ。

『怪歌』や廻花についてネガティブな話をしてきたように思えるだろか。自分が好きだったものとそれがおそらくは失われていくだろうとは語った。しかし、だからといって「こうなるべきじゃなかった」と言っているわけじゃない。

かつてシャーロック・ホームズを産んだ小説家コナンドイルは、もともと書きたかった歴史小説の方に集中するため、大人気になったホームズを完結させるべく宿敵モリアーティー教授とともにライヘンバッハの滝に落として死亡させた。だが、ホームズはファンによる熱望を受けて死を否定され結局は再開されることになる。

この話は自分の価値観で見ると好ましくない。しかし、だからといってホームズのファンはドイルが書く歴史小説も愛読すべきだったとも思わない。作家が受け手に寄り添う必要も、受け手が作家に寄り添う必要もなく、ただ感性が共通しているときだけバスや電車のように同乗して、方向が分かれたところで降りればいい。 無理に合わせるんじゃなく、自然と合うから良い。

自分はそうした価値観で生きているのに、花譜やV.W.Pが自分に「アーティストと作品の両方を好きでいられる時どんなに楽しいのか」を教えてしまったためにこのnoteは書かれている。

帰途

自分にとって『怪歌』はどんなライブだったか。『花譜』の大きな節目となったこの場に立ち会えたことは心から嬉しい。これまでの軌跡とこれからの未来を感じさせる多くの楽曲も素晴らしいものだった。廻花の前途を祈りたい。

だが自分の中に喪失感や寂しさが明確にある。これを自分が否定したり誤魔化してしまったら、今まで語って来た好きも、感動も、すべて口先だけの無意味なものに変わってしまう。

『怪歌』の最後の一曲が歌われ、エンドロールが流れ、インフォメーションが終わっても、自分はごちゃまぜの感情を整理できないままだった。退場の列に並びながらまた舞台のほうを振り返る。1日目と違って舞台は片付けるためか明るく照らされおり、並んだ機材の隅々までどんな風になっていたのかがよく見えた。

会場から抜け出した先では1.5万人が川のように流れている。その川の先は販売ブースに滞留する流れ、原宿駅へ向かう流れ、渋谷駅に向かう流れと別れていた。自分は悩んだ挙句にそのどれも選ばず、誰も進んでいない小道へ抜け出してひとり徒歩で帰ることに決めた。
人混みは苦手だ。