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みなとまち新潟の「湊」と「港」を感じるまちあるき【まちあるきレポート】

柔らかな日差しが心地よいある秋の日、白山神社本殿前に集合して、古町の歴史を辿るまちあるきを行いました。案内人は、まちあるきグループ路地連新潟の代表として新潟の歴史や路地を中心に案内をする活動を続ける、野内隆裕さん。過去にはNHKの人気番組「ブラタモリ」にも出演し、「新潟が実は砂の町だった」との解説を担当した案内人です。

今回は、そんな野内さんが実施する、古町が湊町から港町へと変わった軌跡を辿るまちあるきにお邪魔してきました。

湊から港へ、みなとまち新潟を感じよう

今回のまちあるきのテーマは、こちら。

① 古地図と現在の地図と見比べながら歩き、新潟町の規模を感じること
② 江戸時代の湊町から、明治時代の港町への変遷を感じよう

まず参加者に配られたのは、古地図と現在の地形図です。

北前船が寄港する「湊町」として栄えた新潟町は、信濃川に沿うようにして作られているそうです。参加者に配られた古地図は、江戸時代に発刊された旅行案内で、東に信濃川、西に寺町、南に白山神社、北に日和山が描かれています。この範囲が江戸時代初期の新潟町の範囲で、今回はその街並みを歩いて体感してみよう!という事と、開港場に選ばれた「港町」新潟を感じようというのがテーマだそうです。

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今回、野内さんに指定された集合場所は、白山神社本殿。それにはちゃんとした理由がありました。

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「お参りをする際に見て欲しい点があります。それが、本殿の右上に飾られている大船絵馬。新潟県指定文化財であり、日本遺産の構成文化財にも選ばれた絵馬です」と野内さんが早速説明してくださいました。

手前が新潟で右上が江戸、左上が大阪で、新潟から年貢米が各地へ運ばれていく様子が描かれているのだそうです。こうした内容に注目しながら、ご参拝。少し屈むと御拝殿に右上に、絵馬を見ることができました。

石に刻まれた遠い国の名に想いを馳せて

次は白山神社の大鳥居へと続く参道の途中で、尾道の石工の名前が刻まれた鳥居にて解説が始まりました。

北前船等により新潟から各地へ物資が運ばれ、そこで荷物が降ろされると、船が軽くなりバランスが悪くなってしまいます。その為、帰りの船には、この様な重たい石や灯籠、狛犬などが運ばれてくることがありました。

みなとまちには、この様にして各地の石などが運ばれて来る事を、先程の大船絵馬の紹介と絡めて紹介してくださいました。

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開港地にふさわしい町をめざした新潟県令

白山神社から白山公園へと歩き、小高い丘の上に建つ銅像を紹介されました。1872(明治5)年に新潟に着任した新潟県令(現在の県知事)の楠本正隆さんという方だそうで、新潟を外国人があつまる開港地にふさわしい町にしようと、様々な開化政策を実施したのだそうです。

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「道路には石油ランプの街灯を設置、地名を東西や通し番号に改める(西堀・東堀等)、国立銀行の設立(現在の第四銀行)、南西の砂丘地には文明開化を象徴する文教地区とする(医学町・学校町界隈)等と共に、日本最初の公園の一つとされる白山公園が造られたのもその政策の一つなのですよ」と野内さん。

また当時、新潟に来ていたフランスの曲馬団の料理人ミオラが、けがをして置いて行かれたところ、牛肉や牛乳を奨励していた県令が支援してはじめさせた牛肉屋が現在の「ホテルイタリア軒」の歴史でもあるのだそうです。楠本正隆はその手腕を買われ、中央政府に呼び戻されたというのだから、新潟は良き指導者に巡り会えたのかもしれませんね。

イギリスの女性旅行家・イザベラ・バードが見た新潟

楠本正隆によって新潟のまちが整備された後、イギリスの女性旅行家イザベラ・バードが新潟を訪れました。世界各国を旅して旅行記を書く大ベストセラー作家である彼女が日本を訪れたのは、1878(明治11)年。横浜から日本に入り、東京や日光、会津、津川、そして新潟へとやってきました。

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開港5港のひとつだった新潟に関心を持ったイザベラ・バードは、新潟の美しい街並みに大変驚いたといいます。

でも実はそれには理由が...。明治天皇が新潟を訪れるので、中心街の街並みを綺麗にしていたのだそうです。何はともあれ、ベストセラー作家に褒められたのは嬉しいことですね。

では、いよいよ白山神社を抜け出して、まちあるきに行ってみましょう。

目の愛護デー発祥の地となった、文教地区へ

まず向かったのは、学校や病院が集まる文教地区。その途中にはイザベラバードが泊まった新潟の宣教師の家があったといわれる場所も。彼女は1週間ほど、ここを起点に新潟のまちを歩き回ったのですね。

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さて、文教地区にやってきました。新潟県医師会館の横にある小さな公園には明治天皇の御聖徳を讃える記念碑が設置されています。

この石碑には何と記載されているのでしょうか?

野内さんがいうには、「明治天皇が新潟の眼の治療や予防に金千円をお下賜になった」内容が書かれているのだといいます。

明治11年9月16日、明治天皇が北陸巡幸中に新潟を訪れた際、沿道に眼が悪い人が多いことが気になったのだそう。これの原因を調査するように命じられ、「治療や予防に使いなさい」と9月18日に金千円をお下賜になったといいます。こうした経緯から、昭和14年に眼科学会が9月18日を「眼の記念日」として眼の大切さを伝えるようになりました。

当時、新潟県内には目の病気の一種であるトラコーマの蔓延や白内障、遺伝病などで失明者が多かったといいます。こうした状況が天皇の目にとまったのだろうといわれています。

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そんな時期に新潟を訪れたイザベラ・バードは、当時の文教地区をこう語っています。

「西欧化という形で展開し始めている新潟の官公庁地区は、純日本的な旧市街と比べるとまったく見劣りする。旧市街はこれまで見てきた町の中では最も整然とし、最も清潔で、見た目にも最高に心地よい」
(金坂清則 訳注『完訳 日本奥地紀行2』平凡社)

確かに新潟は開港5港のひとつとして、海外に負けないように西洋化に勤しんでいた時代。海外から日本らしさを求めてきた人にとっては面白みに欠ける場所だったのかもしれませんね。

新潟の町を足で感じてみよう〜路地に魅せられて〜

新潟は信濃川に対し、平行につくられた町。堀を埋め立てて道路にしたため、現在は堀・通り・堀の順で通りが並んでいることが分かります。

もし新潟が城下町なら、道を複雑にし、敵が侵攻してきたときに攻めにくい町にする必要があります。しかし、新潟は商売の町。物資を運びやすいように設計されたのが新潟なのです。江戸時代には信濃川沿いに廻船問屋が並び、船でやってきた商人と物資を売買していました。

そんな新潟町はどれくらいの広さだったのかを歩いて感じてみようという今回のテーマ。ここからは古町通から本町通、東堀と街並みのなかを歩いていきます。

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▲野内さんをはじめとする路地連新潟と新潟市が主体となって取り組んだ「自分の町の楽しみ方・まちあるきのしかけ [新潟の町・小路めぐり]」の一環で設置した案内板。それぞれの小路に特徴的な名前が記されています。

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路地を愛する「路地連新潟」の一員としても活躍する野内さん。路地に急に現れる路地園芸の魅力についても語ってくれました。

「新潟町のこの界隈は家が密集している。スペースが狭い分、路地に草木を植えて楽しむ文化が発展したのでしょう。これなんか、箱からはみ出しても切ってありません。家主の愛情をかんじますよね」

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▲曲師屋小路:曲師とは、木の板を曲げて桶や蒸籠を作る職人。曲師が多く住んでいたので、こうした呼び名がついたそう。

土地の歴史やどんな職人が住んでいたかが小路名になっていることが多いのだとか。歴史を知ることも楽しいですが、今の風景を楽しむ心を持てば、より一層まちあるきを楽しめるようになりますね。

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こんなところ通れるの!?といったところまで進んでいくのが、路地連新潟のまちあるき。ひとりでは絶対入れない小路を進むので、それだけで楽しくなってしまいます。

新潟の幅を一目で感じられるスポットへ

さて、次はこのまちあるきの1つ目のクライマックス。新潟町の幅を一目で見られる場所へと向かいます。

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新潟県民のみなさん、ここがどこだか分かりますか?

実はTHE COFFEE TABLEさんの隣にある通りから、西堀まで見通した場所なんです。上古町だと、TETTOさんのある通りですね。ここからであれば、河岸から東堀、上古町、西堀と一気に見通せます。これが、新潟町の東西の幅です。当時はこれだけの大きさで商売をしていたのですね。堀と船、商人たちの威勢の良い声が今にも聞こえてきそうではないでしょうか。

現存するカーブから、中洲だった新潟を感じる

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そして、次なるスポットは、野内さんが大好きな場所。我々は答えを知らないまま、野内さんについていきます。

そして、現れたのがカクっと曲がったカーブが印象的な道路。ここが、新潟町のポイントだといいます。どういうことでしょうか?

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「1655(明暦元)年、新潟町は川に出来た中洲に移転しました。信濃川の流れに沿って緩やかなカーブを描く中洲に町を作ったので、曲がった場所が東堀も西堀もどこを切り取っても一緒。かつての新潟は地形に沿ってまちづくりをしていたのですね」。

確かに思い返してみれば、見たことがあるカーブ。今まで気にしたことがありませんでしたが、過去の川に沿って町が作られたからこそのカーブだったのですね。町には歴史が眠っていると考えると、日々の暮らしが楽しくなってきそうです。

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そして、野内さんについて様々な小路を通ると出てきたのは、西堀通り。ここもやっぱり曲がっていますね。

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イザベラ・バードは、西堀の堀と通りに対し、「堀端にはずっと木が植えられていて、枝垂れ柳が多い。堀には川からの水が流れているのでとても気持ちがよい」(金坂清則 訳注『完訳 日本奥地紀行2』平凡社)と書いています。世界各国を旅してきたイザベラ・バードにとっても水が流れる堀と景色に癒されていたと考えると、新潟県民としてはつい嬉しくなってしまいますね。

おもてなしの最前線 古町で当時の様子を考える

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そして、最後は古町5番町へ。かつての旅籠、つまり宿屋が集まっていたエリアです。新潟日報や大阪屋の題字を書いた会津八一生家の記念碑の前で、当時の様子を説明してくれました。

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「こちらは、江戸から来た絵師、長谷川雪旦(せったん)が旅籠に泊まったときの絵。新潟の旅籠で食べた料理を書いたそうです。新潟市歴史博物館みなとぴあでは、この絵をもとにした料理が再現されています」。

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「そして、もうひとつ。昔のアーケード(雁木)の軒下には障子戸がはめられ、雨風をしのげるようになっていました。江戸時代には、こうやって軒下を行き来していたんですね。古町通りや、本町通りは江戸時代から道幅が変わっていないそうですが、上古町のアーケードを観ながら、こんな風だったのかなと、見比べて見るのも面白いかもしれませんね」。

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そして、最後に野内さんが見せてくれたのは、芸妓さんが歩く様子を描いた絵。これは白山神社にお参りに行く芸妓さんを描いているそうです。一番綺麗な服を着て、古町を練り歩く様子は、きっと当時の人の心に残ったことでしょう。

昔と今のつながりを感じて楽しむまちあるき

そして、上古町まで歩いて、集合写真を撮って解散。江戸時代の代表的な「湊町」の歴史を伝える物、開港場としての「港町」の歴史を伝える場所を歩いて感じる事が出来ました。でも同時に、今回のまちあるきで今の古町を楽しめたことも事実。昔と今、どちらもある事が古町の魅力なのかもしれませんね。

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さて、個人や団体で新潟を訪れた際に「詳しい人と一緒にまちあるきをしたい!」そう考える人もいると思います。そんな人は、ぜひ「新潟シティガイド」を頼ってみてください。今回のように古町を歩くこともできますし、豪商や花街などテーマごとに巡ることも可能です。土日は予約なしで500円で巡ることもできるので、ぜひ試してみてくださいね!

詳細・お問い合わせはこちら!→http://www.niigata-cityguide.com

このnoteを運営しているのは、上古町やその周辺を楽しく伝える「カミフル団」。新潟市の門前町・上古町地域を知っていただき、楽しんでもらうために活動しています。ぜひ、あそびにきてくださいね。

カミフル団ホームページ→ http://kamifurudan.com/


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