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京都一乗寺・石川丈山ゆかりの史跡を歩く -詩仙堂と丈山のお墓-

11月下旬、秋。紅葉狩りシーズンまっさかり。
友人と女子三人でハイキングに行こう!ということで、京都の一乗寺にやってまいりました。
そこには、この地において風雅を愛した文人、石川丈山(いしかわ-じょうざん・1583~1672)との出会いがありました。
今回は、石川丈山という人と、丈山ゆかりの史跡をご紹介します。

アクセス

詩仙堂 丈山寺
〒606-8154
京都府京都市左京区一乗寺門口町27番地
叡山電鉄「一乗寺」駅より徒歩12分

石川丈山墓
〒606-8156
京都府京都市左京区一乗寺松原町31-11
叡山電鉄「一乗寺」駅より、波切不動尊を経由して徒歩20~25分
※googleマップでは「曼殊院道 経由」のルートが提示されますが、地元の方より、「波切不動尊」を経由したほうが良いと教えていただきました。

石川丈山とは

石川丈山は、江戸時代初期の漢詩人です。
代々徳川家に仕える三河武士の生まれで、丈山も家康に仕えていましたが、大坂夏の陣より、武士の身分を捨てて徳川家を離れます。
その後は京都の一乗寺に詩仙堂を築き、漢詩の詩作や書を楽しむ風雅な隠棲生活を送りました。

丈山が造営した詩仙堂丈山寺

詩仙堂は、丈山が晩年に隠棲した山荘です。寛永十七年(1640)に着工し、翌年に完成したこの場所で、丈山は没するまでの約30年間を過ごすこととなります。

丈山没後も、丈山を慕う人々が訪れ、折々に改修も行われました。現在は曹洞宗の寺院「詩仙堂丈山寺」となっています。

「詩仙堂」という名称は、この建物が「詩仙の間」を中心にしているところに由来します。
詩仙の間の四方の壁に、三十六歌仙に倣って中国漢・晋・唐・宋の詩人36人の額を掲げ、人物の絵は江戸狩野の始祖である狩野探幽と、探幽の弟の尚信が手掛け、その上に丈山が各詩人の詩を書きました。

36人の詩人は、儒者の林羅山と意見を交わし、厳密な選定が行われたようです。

詩作を専らとした丈山にとって、憧れの中国の詩人に囲まれた詩仙の間は、相当神聖な空間だったのではないでしょうか。

詩仙堂は、庭園に咲く四季折々の草花を楽しむことができますが、特に十一月の紅葉は有名で、訪れた頃はまさに紅葉が見頃を迎えていました。

丈山が考案した、「僧都(=鹿おどし)」の音も響きます。竹が太いから、音が鈍くて中々の迫力があります。

これぞ文人のセンス…丈山のお墓

そして丈山のお墓も詩仙堂と同じく京都一乗寺にあるのです!

丈山の晩年の隠棲地である詩仙堂は、叡山電鉄「一乗寺駅」から歩いて程なくして到着するという、アクセスが良い場所に位置していました。
対して丈山のお墓は、波切不動尊から山道を登らなければならず、辿り着くのに少々苦労が必要です。
すぐには人がたどり着けない場所にて、丈山は今も隠棲していたのですね。

そしてお墓の画像がこちら!

かっこいい…そして、綺麗に残っている。
通常屋外に建っている石碑は、時間が経つと、酸性雨などの影響で、石にヒビが入ったり、表面がミルフィーユのように剥がれてしまいます。

しかしながらこの碑は、江戸時代前期のものなのに、ハガレやヒビなどは全然なく、碑に刻まれた文字も欠けることなく残っています。
山の中で木々に囲まれ、雨風の影響が比較的少ないことが影響しているのでしょうか。

石は、丈山本人が用意した自然石を使い、文字は、石山の友人である医師・儒者の野間三竹(のま-さんちく・1608~1676)が手掛けました。
墓主自らが選び抜いた珠玉の一基という訳です。

整えられた表側の碑文の、静謐ながら緊張感がある様とは対照的に、裏側はまさに自然石といった感じでゴツゴツとした姿を見せており、生命力を感じることができます。

これを墓石に選ぶセンス…かっこいい…

碑を一目見た瞬間、私も同行者の二人も「かっこいい!!」と感動し、沢山写真を撮りまくってしまいました…

ちなみに、丈山のお墓の傍には、門人の平岩仙桂(=平岩仙山・ひわいわ-せんけい/せんざん)のお墓もあります。仙桂は、儒者として加賀金沢藩主に仕えていましたが、没後は出身地である京都に戻り、お慕いする先生の元で一緒に眠っているようです。


漢詩のみならず、作庭や煎茶など、様々な方面にセンスを発揮した石川丈山。そのゆかりの名跡には、江戸時代の文人の粋が詰まっていました。
文人の魅力に触れたい方、是非訪れてみてはいかがでしょうか。

参考

『日本大百科全書(ニッポニカ)』より「石川丈山」「詩仙堂」
詩仙堂ホームページ(https://kyoto-shisendo.net/)2022.12.8現在

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