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ピアノ線の君

どの世界にも新参者という奴は居るものだ。

それが古い世界であれ新しい世界であれ、コミュニティが新陳代謝を続ける限り新参者は現れる。そして、そいつがコミュニティに受け入れられるのかは、本人と周囲の努力に依存するのだ。

俺が彼女と出会ったのはそんな出会いの季節、4月も半ばとなった事務所での朝礼だった。

「今日からここに配属された坂下君だ。みんな、よろしくやってくれ」

でっぷりと太った部長が、春先にしては多すぎる汗をかきながらそう言った。どうやらこの部署にも新人が配属されることになったらしい。部長の隣にいる女……あまりに体格の良い部長と対比されて、ほとんど棒のように細く見える女が件の新参者らしかった。

「坂下です。よろしくお願いします」

そういって頭を下げたその女は、春の暖かさと対照的に冷たい目をしていた。埃の一つもないスーツに、銀縁のメガネ。ほとんど抑揚のない声で最低限の自己紹介を終えたその女は、これ以上言うことなど無いと言わんばかりに前を向いて俺たちを見渡した。女と目線が交差する……

「坂下君は中途採用で、前職は事務職だったらしい。とりあえず石川君、年は君が近いだろう。教育係は頼んだよ」

部長は額の汗をハンカチで拭いながら、俺の方を向いてそういった。どうやら貧乏くじを引いたのは俺だったらしい。

クール。

坂下の印象は正しくその一語に集約されるものだった。彼女は公私をハッキリと分けるタイプらしい。ほとんどプライベートを語らず、部長のねちっこい質問に対してもどこ吹く風でいなす。定時までにきっちり自分の仕事を終わらせ、ベルの音と共に席を立つ。飲み会の誘いには乗らず、昼休みにも殆ど人と話さない。教育係になった俺との会話は多少あったが、それもすべて業務上に必要な事だけだった。

『むき出しになったピアノ線』俺が受けた彼女への印象はそんなところだった。

「どうだかねぇ」
定時過ぎの夕日がさす事務所で、部長がボヤくように言う。時刻はまだ18時だが、すでに事務所には俺と部長しか残っていなかった。

「どうにも僕には、彼女が張り詰めたフィラメントみたいに思えて仕方がないんだ。その身を燃やしながら輝き、そして突然プツンと切れてしまう。彼女はきっとそういう類の女性サ」

「今の時代に他人の性格をあれこれ類推するのは趣味が悪いですよ、部長。それにまして女性にだなんて」

俺の嫌味を受けて部長は大げさに肩をすくめ、それでも悪びれる様子もなく再び口を開いた。

「いやゴメンゴメン、デリカシーなかったかな。でも僕の人を見る目は本当サ。でなきゃ伊達に人事部長なんてやってない」

そういって部長は片目をつぶって見せた。
おっさんのウィンクなんぞ誰が喜ぶというのだろうか。それもまして禿げた中年オヤジの。……だが、非常に腹立たしい事だが、したり顔でウィンクを決めるこの中年太りの言うことは正しい。このデブはロクに仕事もできず、社内政治も弱い役立たずだが、人を見る目だけは絶対的にある。


「坂下、せっかくの金曜日だ。この後飲みにでも行かないか」
そう彼女を誘ったのは俺自身どこか部長の言葉が脳裏に引っ掛かっていたからだ。それに彼女であればきっと断る。だからこれは殆ど社交辞令のようなものはずだった。

「今日は……いえ、構いません。ご一緒しましょう」

だからこそ彼女が誘いに乗って来たことに面食らってしまった。一体どういう風の吹き回しだか知らないが、俺は奇しくも坂下と向き合う機会を得たのだった。

「生中2杯、後は枝豆とから揚げを」

普段はキッチリと閉めて居るシャツのボタンを緩め、どこでもあるような大衆居酒屋でヤケに手慣れた様子で注文を伝える彼女を、俺は驚いて見つめていた。今ならまだ質の悪い冗談だと言ってもらった方が気が楽だ。

「……普段からよく飲むのか?」

絞り出すように俺の口から出た質問は、ひどく凡庸でつまらないものだった。

「はい。人並みには」

「坂下、飲み会には顔を出さないもんだからてっきり飲まないものとばかり。いや、偏見だったな」

「いえ、そう思われても仕方ありません。私、大人数が昔から苦手で」

「なるほど。苦手なのは酒ではなく飲み会か。確かに最近じゃ偶に聞く話だな…」
そんなつまらない問答の合間にビールが運ばれてくる。

「乾杯」
そういってグラスを坂下とぶつけ、喉に流し込んだビールを流し込む。よく冷えたその金色の液体は、いつも通りに苦い味がした。

自分でも本当に意外だったのは坂下との話がヤケに盛り上がったことだ。仕事の話から始まり、学生時代の話、家族の話、趣味の話……

何せ俺は坂下という人物を仕事の中でしか知らない。彼女が語る話は、どれも俺にとって驚きであり……

「すみません。焼酎ふたつ。水割りにするのでお水もください」

何より意外だったのはコイツが良く酒を飲むことだ。ビール2杯、日本酒、カクテルと続いて、すでに酒盛りには焼酎の水割りが投入されていた。
坂下に合わせて普段よりも少し早いペースで飲んだ俺は、すでにすっかり出来上がってしまっていた。自分でもわかるぐらい肌は朱色に染まっている。

「そういえば聞いてなかったな。どうして今日は飲みに付き合ってくれたんだ。てっきり俺は断られるものとばかり」

そんな疑問を口にしてしまったのも、アルコールのせいだった。

「それは、その……先輩にはお礼を言いたくて」

少し押し黙った後、彼女はそう話を切り出した。
学生のころから人と距離を詰めるのが苦手だったこと、最初の職場でもそれが原因で周囲から誤解され居づらくなってしまったこと、今の職場では自分のような人間でも等しく扱ってくれて居心地がいい事、コミュニケーションの苦手な自分を投げずに育ててくれた俺に感謝していること……
普段からは考えられないほど饒舌で、それでいて、どこかたどたどしい彼女の話は長く続いた。

なるほど、確かに彼女はピアノ線なんかじゃない。彼女なりに足掻き、努力し、それでいてようやく光るフィラメントのような人だったのだ。繊細で折れやすく、それでいて外からは分からない。
必死に話す彼女の話を聞きながら、俺はどこか笑みが零れるのを抑えられなかった。

春、それは出会いの季節である。


おかずが一品増えます