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桜坂しずく3rdを見た感想

桜坂しずくは大女優である。

桜坂しずくは全ての経験と自分のコンプレックスも糧として大女優になった、そう感じざるを得ない、パワーがあった。

桜坂しずくちゃんのこと、もっと知りたいな――そう思わせる圧巻の舞台。それが、先日行われた虹ヶ咲3rdライブでの「Solitude Rain」だったのです。

開幕

まず、舞台の幕が上がって(曲が始まって)しずくちゃんが真っ暗な舞台の奥から光の中に入ってきます。上からのアングルでとらえた2日目の配信だと、それがよく分かります。実際は1日目のアングルで分かるとおり、左右の舞台端から照らされています。スポットライトは役者を目立たせる効果がありますが、照らすことで「照らされていないところを暗く感じさせる」効果もあります。まだ外は明るいメットライフドームが暗転しているように見えたのはこのせいもあるのでは。

暗転(舞台や画面上が真っ暗になる)あとにいきなり役者が立っていることを板付きといい、物語の一部分を切り取ったような感覚を観ている側に持ってもらえますが、今回しずくちゃんは光の中に入ってきたのです。そして真っ先にやったのが「本日この舞台にお越しの皆様、どうぞお楽しみください」というご挨拶(の所作)。つまりここからこの舞台が始まるわけです。

ポジションゼロ

ステージ上に貼り付けてある×やーのマークは「バミ・バミリ」などと呼ばれるもので、良く見るとせり上がってくる部分の中心にも×が表示されています。ここを使って出たり入ったりする人はここに立てということですね。その少し舞台寄りにあるのがTのマーク、ポジションゼロ。主役の立つ場所であり、センター。舞台の真ん中です。

配信で見た時の、しずくちゃんがくるくると回りながらポジションゼロに戻っていく一連の上からカメラアングルにためいきがでるほど感じ入った方も多いはずです。

舞台の雨

この舞台で欠かせないもののうちまずは、ステージの横と階段の電飾(LED)を雨のように表示させたことでしょう。タイトルの通り「Solitude」は「孤独」です。雨が降ることによって孤独になっている、なってしまう。舞台において水の表現と炎の表現が物理的な意味で難しいことは概ね誰でも知っています(せつ菜ちゃん?あれは彼女の固有結界なので…)

物理的にそのものをふらせることが表現の全てではありません。アニメなんかでも観たことありませんか?舞台の上から紙吹雪をふらせて雪が降っているとか、サクラがふっているような演出にするあれ。舞台上では、現物であることよりもそれらしく見えるものであることが何よりも重要なのです。

アンサンブル

さて、今回ではバックダンサー(白2黒2)4名がいたことも注目ポイントです。今回のバックダンサーの担う役割を考えると、やはり非常に演劇的であったといえます。アニメ作中の表現でいうと、彼女が照らされて3つの影が舞台に映り込むシーンがあります。彼女の心の様子は、このあたりからも表現されています。分裂する心、沢山の「私」です。

漫画や小説だとモブキャラ、モブと言われる存在は、基本的に名前がありません。演劇ではコーラスの語源になったとされるコロスという存在、現在のミュージカルなどで役のある名前以外の存在を演じる存在はアンサンブルと呼ばれます。こちらも基本的に名前がありません。

名前がない存在の持つ意味というのは、実はとても大きいです。例えば漫画で、「アレはなんだ!」「鳥だ!飛行機だ!」「スーパーマンだ!」と叫ぶモブがいたとしましょう。アニメで言えば「あれ、読モの朝香果林じゃない?」というようなセリフもそうです。モブのセリフによって現在の状況や、メインのキャラが周囲からどのように見られているかを表わしているのです。

演劇だと人数の関係もあってモブの役割を担うアンサンブルは限られた数しか出られません。その中で、主人公が演じる舞台の「それらしさ」、名前のある主役以外の役どころ、舞台そのものの雰囲気を一手に引き受けるのがアンサンブルなのです。

桜坂しずくは主役の役を演じ、アンサンブルは舞台とその雰囲気そのものを構築しているともいえます。舞台下手(舞台では向かって右側を上手※かみて、左側を下手※しもてと呼びます)、しずくちゃんの衣装からすれば「黒」の側から「白」のアンサンブルがまず舞台上にあらわれ、衣装の「白」の側から「黒」のアンサンブルが舞台に現れます。しずくちゃんの衣装とアンサンブルの衣装、白と黒。関係ないと言い切るには文脈が強い。

舞台を上段と下段に分けてみると、上段にアンサンブル、下段(客席に近い側)にしずくちゃんがいるのがわかります。歌い踊るしずくちゃんにはいくつものライトが当たっています。

演じ手と観客

ここで思い出してもらいたいのは、演劇には基本的に演じ手と観客がいるということです。

映画やドラマやアニメ、ライブの配信などではカメラがどこを観るべきかカメラワークや画面の切り替わりでわかるようになっています。しかし、演劇(ライブ)では誰がどこをみるかは自由自在です。「演劇はどこを観たらいいか分からないので見方が分からない」と言われる原因はここが大きいです。(ライブ円盤にたまに入っている定点映像がライブ会場や舞台で見ている視点に近いです)自分で見たいところを選ぶことは、観客が出来る能動的なことのひとつです。

あなたの観たいところを観ればいいと言うのは簡単なのですが、実際は「ここをみて欲しい」という場面は往々にして存在します。

そういう時に使われるのが客席との距離の取り方がまずひとつ。おなじみのものとしてはスポットライトであり、照明であり、つまり光(明暗差)です。

舞台の位置と存在感

舞台の上段、下段で始まった照らされたしずくちゃんとほの暗い白と黒のアンサンブルの位置。2日目の配信のカメラが捉える、2度のポジションゼロの桜坂しずく。彼女こそがこの舞台のポジションゼロに相応しい、大女優。そりゃあ舞台上の雨くらい自由自在でございます。

さて、2番にうつるとアンサンブルが下段に降りてきます。舞台を良く見ると、大きな2本の線があるのがわかります。おそらく舞台そのものがユニット上のものをつないだものになっている、または舞台上の階段を動かすための何かだと思われますが、その後ろの線上にアンサンブルが立っています。1つの線を隔てて、しずくちゃんとアンサンブルが立っているわけです。

(アンサンブルは、このラインからほとんど移動しません。前に出てきません。奥行きが出ることで、前田さんとの身長差がマイルドに見えるような気もしますね。アンサンブルさん同士の身長も高い人と低い人でそれぞれ1セットになるようになっています)

想像を超えて

ここからがこの舞台、さらに驚きの連続になります。アンサンブルの白と黒の位置は変わらないのに、桜坂しずくが白に向かっていきます。そして、仮面を外すのです。(振り付けというよりパントマイム、と呼ぶ方が相応しいでしょう。ないものをパフォーマンスで表現する方法です)

以下、「Solitude Rain」の歌詞を引用していきます。

本当の私と向き合うこと ずっとずっと怖かったけど 私じゃない完璧な誰かにはもうなれなくたっていい 偽るのはおしまい

白のアンサンブルの力強いダンスで表現される「桜坂しずく」の強い思いがここにあります。そして、ここから黒のアンサンブルに移動した「桜坂しずく」の姿に、私は心底惹かれました。

絶え間なく 溢れてる 私だけの思いをもっと紡ぎたい 
煌めいて強く この目を見つめて欲しい

「煌めいて」の場面ですが、現地で観た場合後ろの三枚の巨大モニター全てでしずくちゃんの表情が一瞬表示されました。つまりこれは舞台演出です。ライブ会場というどこをみても自由なところで、ここを観ろという強いメッセージ。観られてる、と感じずにはいられない一瞬の静寂です。これまで自分の思いを隠してきた桜坂しずくが、我々の目を覗くのです。見つめろと言うのです。そして――

目覚めてく 強く 裸足で駆け出していこう

舞台においては客席に背中を向けることも日常とは違った意味があります。顔を見せないことで顔=心境を観客に想像させたりなどです。

力強く歌い上げるしずくちゃんの後ろでは、白と黒のアンサンブルが混じり合っています。白黒白黒の順番です。この順番は適当な順番ではないことが、最後のリフトで分かります。

しずくちゃんを持ち上げている(飛んだ)のは衣装と同じ順番の黒と白のアンサンブル。黒は黒い衣装を。白は白い衣装をささえています。支えていない残りのアンサンブルは、まるでこれからの門出を祝うかのようです。

この後、アンサンブルは黒白黒白の順番になります。またもや、しずくちゃんの衣装とは逆に。さながらマーブル模様、混じり合ったグレーのようです。

そうして最後に、迷いを払うような仕草とともにアンサンブルの退場、しずくちゃんは一人の舞台へ。衣装が表わすように、彼女はもう白も黒も、グレーも内包する存在となったのです。

上からのスポットライトを浴びて、足をそろえてお辞儀、そして暗転。桜坂しずくの本日の舞台の幕が下りました。

オードリー

しずくちゃんにとって本当の自分は白だったのでしょうか、黒だったのでしょうか。「しずくモノクローム」の回でも感じたことですが、このシェイクスピアの劇「マクベス」のフレーズを思い出さずにはいられません。

「きれいは汚い、汚いはきれい」(Fair is foul, and foul is fair.)

このセリフはマクベスの冒頭、魔女たちの紡ぐ矛盾のあるセリフとして出てきます。ものすごくざっくりというと、人の価値観はそれぞれによって違うものであり、綺麗や汚いといった正反対のことも表裏一体であるということです。つまり、白と黒もきっとそういうものだったのです。「白も黒もしずくちゃんがそういうものであると思っていた色彩にすぎなかった」ということです。

しずくちゃんを悩ませていたのは、「人から見た時にこうであらなければならない」「私が思う他の人の『普通』の感じ方をしなければならない」という自分自身の思い込みや、外との擦り合わせによる仮面だったのかもしれません。

(今回のnoteでは触れませんが、3rdDAY2で披露されたオードリーからも同じような悩みを持っているのが分かります。彼女のリボンはオードリーの主演作「マイフェアレディ」の衣装を意識しています。「マイフェアレディ」は庶民が淑女に変貌し、それゆえに感じることになるいろんなものを描く名作です。憧れと変身願望って似たところあると思うんですよね。特に日常的にメイクをするメイン層である女性にとっては、変身というのは身近な存在です)

ある意味、誰にでも身に覚えのある――だからこそ厄介な、大勢の中でこそ感じる孤独。沢山の雨の中で傘を差した時に感じる、濡れていないことに対する自分だけの孤独のような。しかし我々はもう知っています。雨はただ孤独を生むだけではないことを。しずくちゃんがしずくちゃんであったからこそ、かすみんが怒ったように誰かと通じ合えたことを。雨は恵みをもたらすものでもあるということを。

雨が止めば、虹が架かるということを。

しずくちゃんは割と潔癖そうなところがあるというか、白黒はっきりさせたいところがあるように個人的に感じていたのですが、その割に本音が見えない感じがすると思っていたのです。アニメを通してようやく理解出来たような気になって、今回のライブを観たことでその気持ちが「しずくちゃんのこともっと知りたい」と変わったのでした。

最後に

しずくちゃんは円形の舞台(13話でモニター越しに話していたカスケード、MVで海に向かう丸いところ)とつながることが多いですよね。これは、照明技術がどうにかなる前の古代の円形舞台がイメージなのかも知れません。(今だとアンフィシアターやサーカスのまるい舞台とか。ライブのセンターステージもそんな感じですね)

どこからも観客に見られる可能性のある360度の円形舞台は、しずくちゃんにとってある意味人生そのものと言えるのではないでしょうか。そこでしずくちゃんが演じるのは演目の役柄であって、彼女自身ではないのです。演じる楽しさ、別人を演じる楽しさは、決して逃避だけではない。人生を2倍も3倍も体験するためのものであるはずです。

さて。

ゲームとアニメとライブと、それぞれのしずくちゃん。そして何より、前田佳織里さんが見事に「演じる桜坂しずくを演じ」てくれたことに目一杯の感謝を伝えたいです。

「桜坂しずくは大女優である」

そう、あなたが大女優です。



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