真夜中乙女戦争を観た


2月に「真夜中乙女戦争」という映画を観に行ったのですが、感想を書いていたみたいなので、noteに載せてみようと思います。



この間、「真夜中乙女戦争」という映画を観に行った。

King&Princeの永瀬廉主演で、池田エライザと柄本佑が共演。

YouTubeに上げられていた、映画の冒頭映像や予告動画を見て、観に行くことを決めた、この映画。

何だか辛そう、私に理解できるかな、でも映像おしゃれだなー、という色々な感想をかき混ぜてみて、一旦、この映画を観て「泣きたい」と思った。

何だか解放的になりたい気分だったのです。いつか観に行ければいいなぁと思っていた。


映画の感想はというと、観終わって、複雑な気持ちになった。「泣きたい」と思って見に行ったけど、実際は「泣けなかった」。

ただ、永瀬廉演じる「私」の無気力だけど何も諦めきれてない感じ(永瀬さんはやっぱり独特の眼力があるなぁと思った)、柄本佑演じる「黒服」の悪のカリスマ感、池田エライザ演じる「先輩」の洗練された雰囲気の中に見え隠れする、不安定さ。それぞれのキャラクターが際立っていて、3人の演技に惹き込まれた。

緊張感と気怠さが混じり合った、どこか異様な感じがかっこいいと思った。

そして、エンドロールで大音量で流れる、ビリー・アイリッシュが歌う主題歌に、最後、痺れて動けなくなるような感覚、それがこの映画が投下したものの「重さ」だと思った。


私が、感想として1番言いたいことは、

結局この物語は、この結末は、誰が望んだものだったのか、誰のために描かれたのか、分からなかった。ということで、

分かったことは、この物語の軸が「破壊」だったということだ。

何かを壊すことでしか自分の存在意義を、生きている意味を感じられなかった人。
私はどうやって、何をして、止めることができたのだろう。

そんな気持ちになってしまった。

池田エライザ演じる「先輩」は自分の思いを手帳に書き綴っていた。
「壊したって何の意味も無いのに」
「簡単な、分かりきったことを積み上げていくしかない」。

本当は彼女も何かに絶望して、壊したいほどの何かを抱えながら必死に生きてきたんじゃないか、と思えて苦しい。

私たちは何てヒヤヒヤするような世界に今も生きているんだろう、と思った。

壊すのなんて一瞬だ。

自分が今見えているものが「世界」の全てだとしたら。自分が壊れることで、世界は勝手に壊れていく。

簡単なことだ、と気づいた。

ずっと前から分かりきっていたことのようにも思えるし、今初めて分かったようにも思える。


この映画は誰かを救えるんだろうか。

私は「壊したい」と思う彼らの気持ちに対して共感することはできる。

だけど、その感情が全てを焼き尽くしてしまうほどの絶望にはまだ触れたことがない。

そんな自分がこの作品と出会えたのは何でなんだろう。

こうやって感想を書いてるのは不思議だと思う。

たぶん「共感できる」なんて薄情な言葉じゃなく、本当は何かもっと言いたいことがあるはずなのだ。

見なかったふりをしたり、蓋をして閉じ込めてしまったりしているだけなのだと思う。

気付かないうちに人は多くのものを受け入れて、生きている。

「壊す」ことは能動的な行為でありながら、受動的な行為である場合もきっと、あるのだろう、とふと思った。

何かに追い詰められて、必然的に生まれていく行為。

誰が望んだのか?

そう思えるのは、私が幸せな人生を生きてきた、と言える証拠になるのだろうか。


私は理想の自分、理想の生き方を探し続けながら、今も生きているんだと思う。

この映画を見て、そういうことに気付いてしまうのは怖いことだと、でもね、言い訳ぐらいさせてくれ、って、そんな気分になって、こうダラダラと感想を書いているのかもしれない。

幸せに生きていくとは、自分の描いた理想に向かって真面目に生きていくことなんだろうか。それが幸せだと思う人もいるし、思わない人もいるのかな。

私はどっちなんだろう。

分からなくて悔しいから涙が出るのかもしれない。

だからこの映画を見て泣きたかったのだろうか。


小説が原作らしいので読んでみたいです。



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