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【読書日記】6/5 アッピア街道はただひとつの窪みへと向かって。「最果てアーケード/小川洋子」

最果てアーケード
小川洋子 著 講談社文庫

読書日記を書き始めて、自分の読書履歴を振り返ることが多くなりました。私なりの現在地を確認するために10冊選んでみようと思ったのですが、これがなかなか難しい。
再読しながら「そうそう、ここが良いのよ」とか「あれ?今の気持ちにはしっくりこない???」とか思い出しつつ今の自分の心持に沿う本を選んでいます。
 そんな中で「現代の小説」のくくりでかなり上位にくる一冊が本書。
 
「そこは世界で一番小さなアーケードだった」
と始まる本書。「もしかするとアーケードというより、誰にも気づかれないまま、何かの拍子にできた世界の窪み、と表現した方がいいのかもしれない。」
というアーケードの大家の娘として生まれた「私」
「私」が十六歳の時に、町の半分を焼いた大火事があり、父は亡くなりました。アーケードは焼け残り、今もひっそりとそこにあり、「私」は飼い犬のべべと一緒にアーケードの中庭で長い時間を過ごし、配達係として商品をお客のもとへと運びます。

アーケードは、「一体こんなもの、誰が買うの?」という品を扱う店ばかりが集まっています。だけど、その店のその品物を求める人が必ずいるのです。

「使い古されたレースだけを扱う店」を訪れる劇場の衣装係だった老女。
「剥製、昆虫の標本、彫刻や人形のための義眼を扱う店」と「ラビト」の眼を見繕いに来るお金持ち要素の詰まった「兎夫人」。
「生地の目の詰まった、濃いきつね色のシンプルなドーナツ、ただ一種類を専門に売る輪っか屋と呼ばれるドーナツ店」と新体操のコーチだという完ぺきなポニーテールの女性。
「古い絵葉書」「ドアノブ」「勲章」等々。しずかに世界にたったひとつのその品物を求めるひとを待つ小さなものたちの詰まったアーケード。

このアーケードには「読書休憩室」があります。大家である父親が幼い娘を安全に守るために設えた場所。
アーケードのレシートがあればゆっくりと休憩出来てホットレモネードが飲めるのです。
この読書休憩室で過ごす11歳の「私」と「Rちゃん」。
Rちゃんは、「私」が「嘘のお話」を好むのに対して「本当のお話」を求めていました。十巻揃の重い百科事典を第一巻「あいう」の最初のページから「几帳面に、根気強く、一ページずつ」めくっていきます。

そして時折声に出して百科事典を読みます。
「私」と犬のべべは、Rちゃんの「小ぬか雨のようにひっそりとして落ち着きがある」声が、アッピア街道について読むのを聞きながらローマの固い石畳を、オリーブの林を風に吹かれながら歩くのを夢想するのでした。
「し」一文字で丸々一巻を背負う第五巻、「むめもやゆよらりるれろわん」と13文字が一巻に詰まった最終の十巻。そこにたどり着く日を楽しみに読み進めるRちゃん。
最後の「ん」のページへたどりつくのは・・・。

私はこの「百科事典少女」の章が中でも一番好きです。
アーケードの中の読書休憩室、という舞台も素敵ですが、大家さんと「私」。RちゃんとRちゃんのお父さんである「紳士おじさん」という二組の父と娘が醸し出す静謐な情愛のあたたかさとRちゃんの百科事典への耽溺のかわいらしさ、Rちゃんと「私」という少女同士の友情のあまずっぱさなど、魅力的な要素に溢れています。

そこでは動物が駆け回り、歴史上の偉人がたたえられ、惑星が瞬き、工業機械が分解されている。
同じページの中で、河童とカッパドキアと活版印刷が仲良く並び、椰子蟹とやじろべえとヤスパースがにらみ合っている。
もちろん、アッピア街道も真っ直ぐにのびている。

最果てアーケード「百科事典少女」より

百科事典は、私も子供の頃に自分専用のものが欲しくてたまらなかったなあ、とおもいだします。そして、辞書内の言葉の並びから偶然生まれる詩情。これもまた「ことば」が自分の居場所を見つけたということなのかもしれません。

この物語の中で「喪ったもの」や「遺されたもの」の孤独と喪失感は、この世界で一番ちいさなアーケードで「再生」や「巡り合い」の希望を見出す。
まるでアーケードのステンドグラスが祈りをささげる聖堂のように思えてきます。

アーケードの店主たちの発する「いらっしゃいませ」は、「はるかな道のりの果て、ようやく求めるべき品に巡り合えた彼らを心から歓迎する」ことば。

私にも、このはるかな世界の中自分がおさまるべき小さな「くぼみ」がどこかにある。
それを見つける旅が人生なのかな、とこの物語を読んで思うのです。