立売ガールの結末

12月初旬のこと、友人から↓こんなLINEが入りました。

かめのべ♪のお話は
「冷たい風が頬を刺す」で始まり「また必ず会えると知っているから」で終わります。
https://shindanmaker.com/804548

何じゃこりゃ? と思ってリンク先を訪ねたら、有名な「診断メーカー」サイトの「こんなお話いかがですか」というページでした。

>>CP名や人物名を入れて遊んでください。小説、または漫画の書き出しと書き終わりが日替わりで指定されます。創作にどうぞ。

とのこと。どうやら、友人はそこに「かめのべ♪」という名前を入れてみたらしい。え? これってもしかして自分に対する宿題ですか?

ということで、挑戦は受けて立たなくてはなりません。というか、こういう「お題」から文章書くの嫌いじゃないんです(「好き」とまでは言いませんが)。昔、自分が参加していた某掲示板サークルで「音符・青春・戦車で三題噺を作って」という書き込みに乗ってサクっと掌編を書いた記憶がありますし(あれどこかに残ってないかなあ)、そういえば『私はパンツ』も「『私はパンツ』というタイトルの小説募集」といういわばお題小説でした。

この年末年始は新型コロナウイルス禍で帰省も出来ずお籠り年越しとなったので、じっくり考える時間が取れ、せっかくだから、なかなか出番を用意してあげられなかった私も大好きなあの二人にご登場願って(全然スタジアムと関係ない話ですがね)、久々にちゃんと文章を書きました。さて、「冷たい風が頬を刺す」で始まり「また必ず会えると知っているから」で終わる小説、どんなお話が出来上がったでしょうか。ご一読いただければ幸いです。

 (ここに登場する二人が出てくる最初のお話はこちらです→『立売ガールの妄想』)


SAPPOROコロナともみ


 -1-

 冷たい風が頬を刺す。11月のナイトゲーム、マリンスタジアムのスタンドを半分ほど埋める観客たちは、もっこりと膨れた防寒具に身を包み背中を丸めてグランドを見つめている。入場制限で観客同士が隣り合わないように間引きされている観客席を冷たい風が我が物顔に吹き抜けていく。新型コロナウイルスの感染拡大によって開幕が大幅に遅れたプロ野球のペナントレースは例年ならシーズンオフに入っている11月の初頭になってもまだシーズン最終の戦いを繰り広げていた。私たちビールの立ち売り販売の売り子も7月にようやく販売が解禁となり、マスクにメガネにフェイスガード、ゴム手袋をはめた上でお金の受け渡しは金属トレイで…という完全防備のいでたちで6回裏終了までの限定販売ながらもどうにか売り子稼業に励めていた。

 それにしても11月のナイターは寒い。馴染みのお客さんが震えながらも夏期と変わらずビールを買ってくれるのが申し訳ない気がしてしまうが、それじゃあプロ失格。売って売って売りまくらなくてはです。極寒とはいえ、10数kgのタンクを背負って階段を上り下りする重労働の仕事だから球場を2回りほどすれば身体はそれなりに温まってくる。観客数も稼働時間も半減で去年までとは比べようのない寂しい売り上げだが、3月〜5月頃のいつシーズンが始まるのか?そして6月頃の一体立ち売り販売は再開されるのか?という不安を抱えて出勤待機していた時からすればこうやって大好きな売り子のお仕事ができていることは本当に幸せで、一歩一歩その思いを忘れないように噛み締めながら売り歩くシーズン最終が近いナイターだった。ありがたいことに何度目かとなる空のタンク換えのため観客席から外周通路へ出たその時だった。冷たい風に飛ばされた一枚の紙切れが私の足元をスーッと通り過ぎて行った。曲がりなりにも球団から「優良おもてなしスタッフ」の缶バッジを戴いていて周囲の規範となるべき売り子マスターの私であるからして、目についた紙くずを放っておくわけにはいかない。私は飛ばされる紙切れを追いかけてわっしと掴み上げた。
 見るとそれはA4サイズのコピー用紙のようで、全くの白紙のペラ紙だった。ん? いや一行だけ、何かが印字されているか。私はちょっと気になって改めてそのA4のコピー用紙を広げて見直した。A4コピー用紙の一番上には一行、こんな文章が印字されていた。


 また必ず会えると知っているから。


 何?これ。

 紙面から目を外して風上方向を見たが、この紙切れを飛ばしてしまって困っているような人は見当たらない。頭の中に膨れ上がる疑問符。その時の私は、傍から見たらちょっと気持ち悪い笑みを浮かべていたに違いない。これ、楽しめそう…と。


 -2-

 勤務終了後、ヱビスCといつものミニストップで温かい午後ティーとホカホカのあんまんを確保してイートインコーナーに収まった私は、早速バッグから問題のコピー用紙を取り出した。いや、もちろん元の紙は球場の遺失物係へ届けたので、そこで白紙の用紙をいただいて一番上に手書きで同じ文章を書き写したコピー用紙のコピーですよ。ややこしくてすいません。
「これ、これなのよ、ヱビスC」
私はコピー用紙をテーブルの上に広げた。

 また必ず会えると知っているから。

「どう思う?」
私が尋ねるとヱビスCは一瞬の間をおいて答えた。
「書き出しの文章…じゃなさそうだね」
「だよね。文章の最後か、もしくは書きかけの文章の途中か」
「うん、そしてそれは歌詞みたいな短い文章じゃない可能性が高い」
「え? どうして」
しまった、自分は歌詞の最後の一行という仮定で「また必ず会えると知っているから」で終わる一編のラブソングをでっち上げて用意していたのだが…。
「うん、これが歌詞とかの最後のワンフレーズだったとしたらね、作者?というかプリントアウトした人は1行だけ別の紙にはみ出させることはしなかったと思うんだよね」
「ああ…」
「普通は行間を詰めるなりして1枚に収めるでしょ」
確かに5行や10行も溢れていたならキツキツになってしまって1枚に収まりきらないということもあるだろうけど、1行だけをはみ出させることはないだろう。ハイ、負けました。でも大丈夫、これは捨て案…ということにしておこう。渾身のラブソングは例によって門外不出ボックスへの廃棄処分とし、気を取り直して続ける。
「う、うん、私もそう思ってた(ふん笑ったね)。つまりこれは〈また必ず会えると知っているから〉で終わる小説?の可能性が高いということだよね」
「そう考えていいかなあ。とりあえず黒ラベルBも言っていた〈書きかけの文章の途中〉というのは可能性から除外しておくとしてね」
「うん。でね、今日のお楽しみは、もしそうだとしたら、これってどういうお話だったんだろ? ということよ」
と私はいよいよ本題に持ち込む。ヱビスCは小首を傾げながら
「うーん、普通に考えればアレよね。いわゆる…」
ここで声が揃う。
「タイムスリップもの」
私たちはうなずき合った。


 -3-

「まあ、そうだよね」
私はそう言って立ち売り販売中に脳内で準備して来た推論を続けた。
「この文章…とりあえず小説ということに決めて考えを進めてみようか…この小説の主観である叙述者は〈また必ず会えると知っている〉と述べているよね。〈きっとまた会える〉じゃない。また会えることを〈知っている〉、しかも〈必ず〉だよ。ここまで断言するということは、未来に起こる出来事を知っているとしか考えられない。つまり未来から現在へタイムスリップして来た人間なんじゃないかということが推論できる」
ヱビスCはうなずいて続けた。
「そういうことだね。で、この彼?だか彼女?だかは、どのくらい先の未来から来たのかと言えば、100年後とか200年後とかいった遠い未来でないことは確か」
おっと、あっという間に一歩先に進まれてしまったがその根拠はすぐに分かった。
「そ、そうだね、そんな先の未来だったら〈会えない〉わけだから」
「そう、この主観者の前にいる人間の寿命の範囲内の未来ということ」
正直その部分には思い至ってはいなかったけど大勢には影響ない。私はさらに仮説を進めることにする。
「たとえば…タイムスリップして未来から現在に来てしまった主観者…って、何かめんどくさいなあ。この人男子にする?女子にする?」
ヱビスCはゴソゴソと財布から50円玉を取り出して言った。
「表なら女子、裏なら男子」
そしてそれを親指でピンと弾いて手の甲でキャッチ。裏。
「ほい、じゃ男子ということで」
「ラジャ。タイムスリップして現在に来た彼はそこで未来の片思いの相手と出会う。未来で叶わなかった恋人同士になるために彼はある行動を取って彼女の未来を変えようとする。何をしでかしたかは分からんけど、しばしの別れが来た時、彼はこう思う。〈サヨナラは言わない。また必ず会えると知っているから〉…ヒュー」
するとヱビスCは小首を傾げた。
「ん? ちょっと待って、ということはだよ、この彼氏はこの後再び元の未来に戻っていくということになってるのね」
「うん、未来から現在にタイムスリップして来たとして、そのまま現在で生き続けることになってしまったのだったら〈また〉会うことはできないもんね」
「じゃあ彼は自分自身がそうやってこの後未来に戻っていくことを現時点で分かっているというわけだ」
ヱビスCの言いたいことはすぐに分かった。
「そか。ということは、タイムスリップというよりもタイムトラベラーということになるのか」
「そう、階段から落ちたとか崖から転落したとかみたく何かのハプニングの拍子に時間移動をしたんじゃなく、自分の意思で現在過去未来の行き来ができる超能力者」
「ラベンダーの香り? ♫と〜き〜を〜かけ〜る〜しょおじょ〜♫ の」
私が調子に乗ってあの曲を口ずさむと、ヱビスBは眉をひそめた。え、そんなに下手だった?
「うーん、でもなんかちょっとおかしいかも」
「え?なにが?」
「うん、この彼がタイムトラベラーで、時間移動ができる超能力者だったとしたら、過去に干渉して未来を変えてしまうことがご法度であるということはよく分かっていると思うのよね。万が一過去に干渉してしまったら予測不能の未来になってしまうことも」
「ああ、確かに〈過去を変えてはいけない〉という命題はタイムトラベラーにとっては基本のキだよね」
「でしょ。もし彼がタイムトラベラーだったとしたら、過去を変えてしまうと本来出会うはずだった二人が出会えなくなってしまう可能性さえも生じてしまうということはよく理解してると思うんだ」
「なるほど、だったら〈必ず会える〉とは断言しないね。というかもしこの小説の作者がタイムトラベラーが過去を変えようとするなんて無謀なプロットで書いていたら読者からツッコミの嵐になっちゃうわな」
浅はかでした。
「うん」
「となるとあれかなあ…」
再び声が揃う。
「予知能力もの」
再び私たちはうなずき合った。

 -4-

「確かにそっちの方がしっくりくるかな」
「また必ず会えると知っている…と。うんうん、確かにそれっぽい」
それにしてもこの〈予知能力もの〉説、実は多少は考えてはいたのだが…。
「予知能力のエスパーものかあ。何つうか、タイムトラベルものよりもプロットが難しい気がするのよね」
「うん、そうだね。タイムトラベルものよりも作品数が少ないし、多くの作品が予知能力を持ってしまったことの悲劇みたいなことを描いている印象だよね」
「未来が見えるってことは全然いいことはないと」
「そう、未来がわからないから人生は面白いし、安寧に生きていられる」
「だね。ということはこの小説もダイナミックなエンターテインメントじゃなくて、どちらかと言えば悲劇の影をまとった暗い作品の可能性が高いということかな」
「そういう気がするね」
「…たとえば…主人公の彼は…って、今度は女子にするか…彼女は図らずも予知能力を持って生まれてしまった超能力者。見たくもない未来のビジョンが時折襲ってくることを隠しひっそりと目立たぬように人生を送っていた」
「うんいいね」
「ある日、一つのビジョンが彼女に訪れる。そうだなあ…彼女の近しい人間が何かの災いに襲われるというビジョンかな」
「まあ物語的にはそうなるよね」
「予知能力ものがタイムトラベルものと違うところは、タイムトラベルものは歴史を変えてはいけないという縛りがあってタイムトラベラー自身の行動がすごく窮屈になっちゃうのが常なんだけど…」
「バック・トゥ・ザ・フューチャーみたいにやりたい放題ってのもあるけどね」
「あれはもうあそこまで徹底してれば許しちゃうけどね、まあとにかく基本的に歴史は変えないようにしようというのがお約束。だけど未来予知の場合はまだ起こっていない未来だから堂々とそれを変えようとする」
「だけど…」
「そう。だけど…なのよね。良かれと思って未来を変える行動を選択するのだけど、大体が思った通りの良い結果を得られない。そういう構造のお話になっちゃうのでどうしても暗い結末になりがちだよね」
「ああでもさ、この〈また必ず会えると知っているから〉っていうエンディングは、何かちょっと明るい未来を感じない?」
「そだね。切なさの中にほのかに見える未来の光…みたいな?」
 話に夢中になっている間に、午後ティーも半分かじったあんまんもすっかり冷めてしまった。予知能力を持って生まれてしまった少女。彼女はどんな未来のビジョンを見てしまったのか。そしてどんな行動を取り、どんな結末を迎えたのか。〈また必ず会えると知っているから〉で終わる結末とは。でもそこまで推理するのはやはり困難である。
「どんなエンディングだったんだろうなあ…」
私のそのつぶやきに、ヱビスCは黙って立ち上がると、熱いコーヒーを2つ手にして戻ってきた。
「ほい、じっくり考えるよ。明日は休みだし」
おお、望むところだよ。


 -5-

 やる気に火がついたらしいヱビスCは、熱いコーヒーを一口すすると「よし」と口を開いた。
「もう一度整理しよう。このラストの一文、〈また必ず会えると知っているから〉のポイントは何と言っても〈知っている〉の部分だよね」
「そう、そこ」
「〈また必ず会えるから〉じゃなく〈また必ず会えると知っているから〉。〈知っている〉という1フレーズがあるために、この文章の伝えたいことの重心が〈会える〉じゃなくて〈知っている〉の方に移っている」
「だから私らはこのお話は〈知っていること〉がテーマとなるタイムトラベルものや予知能力ものなのだろうと推測したわけだね」
「そゆこと。大体において私たちってさ、何者かといえば…」
「マリンのちょっと可愛いビールの売り子コンビ」
「いやいや、そゆことじゃなくて、私たちを結びつけているものっていうか、私たちの絆の根源というか…言ってて恥ずかしいけど」
「ああ、そっちね。それはもちろん、ミステリマニアってことでしょ」
「それ。脳細胞のミトコンドリアまでミステリに頭を毒されている私らが、アリバイ崩しやら一人二役やら密室トリックやらに発想が向かず、ハナから『タイムトラベル説』とか『予知能力説』といった方向に思考が向いてしまったのはひとえにこの〈知っているから〉のワンフレーズに原因がある」
「そうなのよ。できればうちらの得意分野のそっちで考えたかったんだけど、どうしても行けないんだよ」
「〈必ず会えることを知っている〉と断言できるようなことは、主人公がラプラスの悪魔でもない限りありえないこと。例えば頭脳明晰な犯人がどんなに狡智なトリックを弄して〈必ず会える〉ように画策したとしてもそこには何かしらの見落としや想定外の偶然の介入があってうまくいかないというのが常だし、最初期の古典ミステリはさておき、現代のミステリはその想定外の偶然の介入こそが面白さを生む重要な要因になっている」
「犯人側もそうだけど、名探偵が生きづらい時代だとも言えるね」
「だね。要は〈必ず会えると知っている〉という文章は、ミステリ文法になっていないのよ」
「うまいこと言うねえ。ミステリ文法…確かにそうだわ。〈必ず会えると知っていた〉なら、ミステリのラストになる。たった一文字の違いなのにね」
「そう、〈知っていた〉なら結果論だからいいのよ。ということでとりあえずこの小説は予知能力がテーマの小説ということでいいんじゃないかな」
「あ、でも、こういうのも考えられるんじゃない? 予知能力を持った人間の犯罪のお話という、ミステリと超能力ファンタジーのハイブリッド的な?」
ヱビスCはちらりと上目遣いになると
「というのは、えーと〈また必ず会えると知っているから〉の前段を〈今は引き金を引かない〉にするとか? 〈今は引き金を引かない。また必ず会えると知っているから〉」
私も続ける。
「…〈今日のところは見逃してやる。また必ず会えると知っているから〉」
ヱビスCはもう一つ付け加える。
「…〈この毒薬はカバンの底に潜ませておく。また必ず会えると知っているから〉」
私たちは中空に視線を向けたまま「うーーーーーーーん」とたっぷり1分間ほど唸った。そして同時に視線をお互いに戻し、手をひらひらと「…ないないない」。
「だよねえ」
「復讐とか殺意とかを〈また会えるから〉と先延ばしにしてめでたしめでたしとなる中途半端な結末っていうのは流石にあり得ないよねえ」
「じゃあ予知能力を持った人間の犯罪のお話という、ミステリと超能力ファンタジーのハイブリッド的な?説は却下ね」
「うん、予知能力がテーマ、切なさの中にほのかに未来の光が見える結末…という方向で決定」

 -6-

 どうやらヱビスCには何かしらの道筋が見えているらしい。
「でね、この小説の結末を推理しようとするにあたって、これが小説のラストの1行であるとしたならば、構造として〈知っている〉というフレーズで読者がハッとさせられたり、だよねそうだよねと思わされたりするような仕掛けになっているんじゃないかなあと思うのよ」
なるほど。
「要は〈知っている〉が何らかの伏線の回収となるフレーズになっているということだね」
ヱビスCは「そう」とうなずいた。
「例えばさっきの黒ラベルBが言いかけた予知能力者の話だけどさ、彼女は100%の未来を見通せるような能力を持っているわけじゃないという設定だったでしょ」
「うん、ある種のビジョンみたいなものが脳裏に閃くような感じ」
「ある時、何かの予知ビジョンが彼女に閃いたと。それが彼女にとって望まない未来のビジョンだった。で、それに対して何かの行動を起こす。起こるはずの未来を書き換えるためにね。でも、それが結果どういう未来になったかということは実際にその時が訪れないとわからないじゃない」
「まあ100%の未来を見通せるという設定じゃなかったからね」
ヱビスCはうなずいて「ただし」と人差し指を立てた。
「ただし、そこで改めて“書き換えられた未来のビジョン”が彼女に訪れれば…わかる」
うわ、やられた。
「そうか! このラストシーンの直前に書き換えられた未来のビジョンが閃いて、それによって彼女は〈また必ず会える〉ことを〈知った〉んだ」
悔しいがさすがヱビスCである。
「そう、さっきのストーリーでいうと、彼女はこれまで何度か予知ビジョンを覆すため何らかの行動を起こしたことがあって、でもそれは大体においてうまくいかなかった。だから運命に抗うようなことはやめようと予知ビジョンの閃きをスルーするような人生を送ってきた。でも今回は、今回だけはどうしてもスルーできないようなビジョンだったということだったよね。そして何かの行動を起こした。さてその結果はどうなったのか? 本人もそして読者も不安に思っている。そしてそこに書き換えられた未来のビジョンが訪れ、それが最後の1行で明らかにされるという構造」
なるほど…。


 -7-

 となれば、私がさっきのプロットを完成させなくてはね。 
「主人公は一人の目立たぬ女の子。彼女はどこにでもいる全く普通の女の子のように見せて生きているけれど実は予知能力を持って生まれた超能力者だった。彼女は時折襲いかかるように閃いてしまう未来の予知ビジョンに悩まされていた。例えば…幼い時、お父さんが交通事故に遭って大怪我をする瞬間のビジョンを見てしまい、泣きながら家を飛び出して外出した父を止めようとしたら、自分が車に轢かれそうになって追いかけてきた母が轢かれて死んでしまったり、そのほかにも些細なことでも重大なことでも予知ビジョンを覆そうとすると思った通りにならないことが続き、やがて彼女は自分の能力を封印して無いものとして生きようと決心する。そんなある時、彼女に一つのビジョンが閃く。それは…自分が想いを寄せる青年の死のビジョン。えーと、どんなのにしようか…うん、犯罪に巻き込まれて殺されてしまう未来だった。彼女は自分に禁じていた未来への干渉を解禁することにする。彼女は彼を救うためにその殺人者を先に殺してしまう。もちろん彼女はその罪から逃れるつもりはなく、自ら警察に通報する。逮捕され、パトカー乗せられようとする彼女。その時、警察車両を取り囲む野次馬たちの中に彼を見つける。サヨナラあなた。もう会えないね。幸せになってね。その時だ、彼女に一つの予知ビジョンが訪れる。〈警察官に連れられる私に彼が気づき一歩、二歩と歩み寄って来る。「どうしたの? 何があったの?」と声を上げる。しかし私は振り向かない。サヨナラも言わない。だって、また必ず会えると知っているから〉…って、あれ?」
なんか変…というか、収まりが悪い。
「どうした?」
「う、うん、なんかここまで滔々と述べたてて来てなんなんだけど、なーんか納得できないんだよね」
「そう?」
「手錠をかけられ、警察車両に乗ろうとしたその瞬間、彼女の脳裏に一つのビジョンが閃いた…でしょ」
「書き換えられた未来のビジョン。彼女のおかげで殺されることを免れた彼が何年か先に自分と再会するビジョンだよね。それならばさっき黒ラベルBが言っていた〈切なさの中にほのかに見える未来の光〉も感じられるし」
「そう。そうなんだけど、ねえ、それって面白い? っていうか感動する?」
「そりゃ刑期を終えるまで彼は彼女を待っていて…」
「いやいや、それって、彼にしてみたらすごい重荷だよね」
「あ」
「彼女は殺人の動機については絶対に本当のことは言えないから正当防衛にもならなくて純粋な単なる殺人。情状酌量無しで初犯でも懲役10年以上は確定でしょ。彼の人生にそんな重荷を背負わせてしまう未来のビジョンが見えたとしたら、ハイめでたしめでたしってなるかなあ」
「…なんないね」
「でしょ。大体において物語の読者って見返りの無い無垢の愛とか自己犠牲に感動するものじゃない?」
「だね」
「一度の自己犠牲で誰かを救ったとして、そのご褒美としてその誰かが重荷を背負わなければならないという物語じゃあ感動できない」
ヱビスCは「うーん」と唸り
「というか、この助けられた彼って、彼女が予知能力を持っているってこと知らないんだよね」
「そうだった」
「だから彼女が何故殺人を犯さなければならなかったかという理由も分かっていないわけで、ということは彼女のことはただの殺人者と思っているし、多分彼女の方だってそれでいいと思って殺人を犯したと思うよ」
ああ、全然ダメじゃん、というか…
「…あのさ、大体において(ってもう何回目の大体においてだ?)私の個人的な趣味になっちゃって申し訳ないんだけど…」
「いいよいいよ」
「〈会えるのが分かる〉のより〈会えないのが分かる〉方が切ないよね」
ヱビスCは目をぱちくりさせた。
「…そこからかい」
「すまぬ。だからね、なんかどうしても〈また必ず会えると知っているから〉で終わる切ない物語が想定できないんだよね」
「まあ確かにそう言われてみればそうだなあ」
と、ヱビスCも憮然とした表情で腕を組む。
 難しい。簡単なことかと思ってホイホイ始めてみたもののこれは意外と難物である。ひねり出す案ひねり出す案がことごとく収まりが悪く当てはまらない。私は冷め切ってカピカピになっている最後のあんまんのかけらを口に放り込んだ。一方、ヱビスCは人差し指を眉間に当ててブツブツとつぶやいている。
「会えないほうが切ないかあ…会えないほうが……会えないほうが…会えない…」
と、ハッと顔を上げた。
「ねえ、やっぱ、彼女は〈会えない〉のよ。〈会える〉のは彼女と彼じゃなくて別の人と彼なんじゃない?」
「え?」
何を言っているのかわからないんですけど。
「私たち、〈また必ず会えると知っているから〉って文章を見た時に、当たり前のようにそれはその主観者である主人公と誰かが会うことだと思っていたけど、この文章だけじゃそれは確定していないよね」
「…なんとなく言わんとするところは分かる」
「例えば私が〈また必ず会える〉って述べた時に、それは私と君が会えるということなのかもしれないけど、そうじゃなく、君と氷結Aが会えるということを私が述べているのかもしれない」
あ、何かが見えた…気がする。
「彼女が最期に見た未来のビジョンで〈会っていた〉のは、自分と彼ではなく、彼が愛する誰かと彼。彼女はそのビジョンで彼の幸せな未来を確認して…」
「…安心して」

そして私とヱビスCの言葉が重なる。

「…死んだ」


-----------------------


 冷たい風が頬を刺す。ああ今年もどうにか1年間生き永らえてきた。12月30日、仕事納めの今日は午前中に業務を終え、午後は事務所の大掃除、その後に新型コロナウイルス禍のため出来なかった忘年会代わりのお疲れ会を事務所で軽く行い、今ようやく暗く冷え切った自分のアパートにたどり着こうとしている。
 お疲れ会は、事務所の後輩のKが、婚約している同僚のSを両親に紹介するために明日実家へ連れて帰るという話題でかなり盛り上がった。Sはいつもの天真爛漫な笑顔で場を幸せな空気でいっぱいにし、私には永遠に手にすることのできないであろうその笑顔を半ばうらやみ、でも半ば救われ、「おめでとう」と祝福した。うまく言えたろうか。大丈夫。そうやって30年近く生きてきたんだから。
 部屋に入ると、シャワーも浴びず化粧も落とさずベッドに倒れ込んだ。もし1年があと数日長くて1年370日ほどだったらここまで私は生き永らえてこられたろうか、などと下らないことを思いながら身体をベッドから引き剥がし、冷蔵庫から缶ビールを取り出す。プルトップを開けて、いつものように睡眠薬をそれで流し込む。あとはひたすら眠る、それだけ。

 その時、そのビジョンが訪れた。

 幼い頃、それが初めて私に訪れた時に自分がどう感じたのかよく覚えていない。おそらく「怖い怖い」と大泣きしたのであろう。なぜならそれはほとんどの場合恐ろしいイメージのビジョンだったからだ。死のイメージだったり、破壊のイメージだったり、悲嘆のイメージだったり…。ごくまれに誰かが笑っているような穏やかなビジョンが訪れることもあったが、それは100回に1度くらいしかない。昨年亡くなった父に私は「お前は本当によく泣く子だったなあ」とことあるごとに言われていたが、それは当たり前のことである。今でも私は電車の中やショッピングモールで、公園で、道端で…大声で泣きじゃくる子供を見ると、ああもしかしてこの子は私と同じくあの恐ろしいビジョンに襲われているから泣いているんじゃないかと思ってしまうのだ。

 私に訪れるそれが未来に起こることを予知するビジョンであるということがわかったのは小学校の低学年の頃だ。飼い犬だったポラリスが何者かに毒入りの肉団子を食べさせられて亡くなる前日、私はそのビジョンをハッキリと見た。吐瀉物に顎を浸して地面に横たわるポラリス。ぐったりとして身動きしないポラリス。「ポラちゃんがポラちゃんが」と突然泣き出した私を祖母がギュッと抱きしめ、耳元でこう囁いた。
「お前も見えてしまうのかい。そうかい。かわいそうに」
「おばあちゃん、ポラちゃんが死んでるよ。ポラちゃんが」
と泣く私に祖母はこう言った。
「いいや、まだ死んではいない。けど死ぬんだよ」
「まだ? 死んでないの? じゃあ助けなくちゃ」
「だめだ。助けられないんだよ」
私は祖母の言っていることがよくわからなかったけれど、見ればポラリスは庭で元気に飛び回っており、声をかければいつものように飛びついてくるその頭を撫でて安心したのだった。しかしその翌日、私が見たビジョンは現実になった。
「おばあちゃん、どうして? どうしてポラちゃんを助けなかったの?」
祖母は幼い私に「見えてしまってもそれには触れてはいけない。無かったことにして心の中にしまっておかなくちゃならないんだ」と諭した。もちろん幼い私にはその時その言葉の意味することはほとんど理解できていなかったけど、祖母はその後死ぬまで私に繰り返し繰り返し諭し続けたのだった。「未来を良い方向に変えることはできない。何かを良い方向にしたらどこか別のところが絶対に悪くなってしまう。プラスマイナスゼロ。この世界はそういうふうにできている」
 その意味を本当に理解したのは私が小学校5年生の時である。父がトラックに轢かれるビジョンが私に訪れた時だ。父はその直前に「ちょっとコンビニ行ってくる」と家を出たばかりだった。私は祖母の教えも忘れて父を追いかけて玄関を飛び出した。私が血相を変えて家を飛び出たちょうどその時外出していた母が帰宅した。裸足のまま我を忘れて路地を走っていく私を母がびっくりして追いかけてきた。そして家からすぐの交差点で、父が轢かれるはずだったトラックに轢かれたのだった。父は助かったが母が死んだ。ほんと、プラスマイナスゼロになった。
 祖母は言いつけを破ってしまった私を怒ることはせずいつものようにぎゅっと抱きしめ「わかったかい。こういうことなんだよ」と優しく言った。たぶん、祖母も同じようなことをやってしまった過去があったのだ。この能力を持って生まれてしまった者が一度は通り抜けなくてはならない悲劇。
 その日から私は「未来を良い方向に変えることはできない。何かを良い方向にしたらどこか別のところが絶対に悪くなってしまう。プラスマイナスゼロ。この世界はそういうふうにできている」改めてその祖母の教えを心に刻み込んで生きていくことを決心したのだった。
 私と同じ能力を持っていた祖母が自分が中学生になるまで生きていてくれたことは本当にありがたかった。もし祖母がいなかったら私は小学生のうちに何らかの理由で命を無くしていただろう。まあそれはそれでその方が良かったかもしれないが。
 さすがに普通の人生を送る個人の周辺に訪れる災厄は限られているから、自分に訪れるそれは、自分のあずかり知らぬところで起こる何かであることがほとんどだった。事故や火事や天災や時には殺人や、そんな恐ろしい現場のイメージ、新聞やTVニュースの報道紙面や画面のイメージが突然訪れ、のちに新聞やTVニュースで同じものを目にして「このことだったのか」と再認識することがしばしばあった。そのイメージを無いこととする、見なかったことにすると決めていたとしてもそれは否応なく何度も何度も訪れる。遮断することなんてできない。誰かの死、脱線する列車、流される車、燃え盛る家屋、殴られる女、裏切りの涙、悲嘆に暮れる人、人、人…世界には悲鳴と涙が溢れている。もうやめて、もう嫌だ、耐えられない、私は何度も死んでしまおうと思った。どうしてこんなに悲しく怖い未来のビジョンばかり見えてしまうのだろう。世界には悲しみや苦しみや悪意と同じくらい喜びや楽しみや善意があるはずではないのか?どうせならあの100回に1度訪れるような楽しく幸せな未来のビジョンがいつも見えればいいのに。悪夢にうなされる日々。私の日常に睡眠薬は欠かせないものとなっていた。

 不思議なことが一つある。自分に時折訪れる恐ろしい未来の予知ビジョン、それを無かったようにすること、見なかったようにすること、そうやって日常を過ごすために私は自分自身を偽り続けて生きることを余儀なくされてしまったわけで、誰にも心を開けず、心の底の恐怖を笑顔の仮面で覆い続けなくてはならない人生を送っていた。そんな生き方をしていれば「暗い子」「付き合いづらい子」「得体の知れない子」と皆に思われて、いわゆる「ハブられ」てしまうようになるものだと思っていたのだが、どういうわけか、子どもの頃は「いい子」と言われ、大人になってからは「いい人」と言われている。もちろん仲の良い「親友」と呼べるような相手も、もちろん「恋人」も作ることなく私の人生は30年ほどになっていたが、それはこれもまた幼い頃から祖母に言われていた「目立たず、静かに、穏やかに、他人に絶対意地悪なんぞしないで生きなさい」を守り続けたことが大きな原因であるのだろう。まあこの世の中で「いい人」でいるには仮面をかぶり続けていることが一番の近道ということなのかもしれない。おかげで私は「好きな子に意地悪」もできず思春期を通り過ぎてしまったのだが。


 仕事納めのその日に襲われたビジョン、それはこのようなものだった。無残に捻れ引きちぎれたガードレール。散乱するガラス。うめき声を上げながら横たわる人、人、人。そのうちの一人がKだった。そして死にゆくKの横で呆けたようにぺたりと腰を落としているS。その事故の新聞記事のビジョンには「高速バス谷底へ転落」「死者1名重傷者15名」とある。その1名は…Kだ。
 それが、Kが妻となるSを紹介すべく自分の実家へ帰省するために明朝乗ると言っていた高速バスでの事故であろうことは容易に想像できた。

 彼は、彼だけは救わなくてはならない。たとえそれがどのようなマイナスで相殺されようとも。

 睡眠薬で混濁しつつある意識を振り絞って私はスマートフォンの目覚まし時刻を5時に設定し、眠りに落ちた。


 翌日大晦日の早朝、新宿発長野行きの高速バス乗り場。私は当日乗車券を購入し出発を待つバスに乗り込んだ。当日に乗車券が入手できるか心配だったが、コロナ禍で都内からの移動がはばかられる状況下で座席は2割ほどしか埋まっていなかった。前から2列目の窓際の指定席に座っていると、KとSが乗り込んで来た。私の顔を認めるとぽかんとした顔で歩みを止める。
「…先輩?」
「ふふ、びっくりした?」
「…はあ。一体どうしたんですか?」
「ふと思い立って新年は温泉に浸かって過ごそうかと」
「そうなんですか?」
「うん。知人の温泉宿がコロナで予約キャンセル入っちゃって困ってるって聞いたから。ごめんね。お邪魔はしないから私はいないものと思って」
「そんなあ。座席もいっぱい空いているし、せっかくだからお話して行きましょうよ」
Sははしゃいでそんなことを言っているが、Kの方は微妙な表情である。分かっている。私は「お邪魔虫にはなりたくないからね」と片手を振った。

 高速バスが関東平野から山間部に入ろうとする頃、私は自席を立って二人が座る座席に歩み寄った。
「K君、ほんとに申し訳ないんだけど、ちょっと席代わってもらえるかな」
「はい?」
「Sちゃんにちょっとお話があるの」
「はあ…」
「ごめんね。来年の仕事始めにいきなり取りかかって欲しい案件があったこと忘れてて」
「仕事の話ですか? 先輩も正月休みくらいのんびりしてくださいよ」
「K君、いいじゃない。私も休み明けの心の準備必要だし」
Sのとりなしに、Kは「だね。ご苦労様です」と私と入れ替わって立ち上がった。
 私の席に座ったKを見届けると、私は「あ、そうだった」とわざとらしくつぶやいて、再び自席に戻った。「ちょっとごめんね」とKの足元に置いたバックから用意していた偽仕事の書類を取り出し、ついでにといった風情でKの肩からシートベルトを引っ張り出してカチリとホルダーにはめた。
「交通法規は守らなくちゃね」
「はいはい」
「Sちゃんを取っちゃったお詫びに熱いコーヒー」
と保温ポットに用意していたコーヒーをカップに注いで渡す。Kはにこりと笑って「ありがとうございます」と頭を下げた。そうか、この笑顔が最後に見るKになるかもしれないのか。
 そして私はSの元へ戻ると、どうでもいい仕事の話を始めた。Kが睡眠薬入りのコーヒーをすする様子を横目で見ながら。

 いよいよ来たか、と感じたのはそれから30分ほど経った頃だったろうか。バスは県境の峠を越えて下りのカーブが連続する山中の自動車専用道路を走行していたのだが、スピードが異様に速くなっていた。カーブに入る前には減速するはずなのだが全くスピードを落とさないままカーブへ突っ込む。速度超過でカーブを曲がるために身体に大きな遠心力がかかり、身体が振り回されるように座席に叩きつけられる。
「先輩、なんか、運転が乱暴ですね」
「…そうね」
後ろから運転席を見れば、運転手は明らかに慌てふためきブレーキを思い切り踏み込んでいるように見える。恐らくブレーキが焼き切れて全く制動が効かなくなってしまっているのだろう。他の数少ない乗客たちも異変に気付いたのか、立ち上がり「どうしたんですか?」と運転手に向かって叫ぶ声が上がる。Kはと見れば頭をガクリと垂らし、シートベルトに拘束された身体はカーブの遠心力のなすがままに右へ左へ蹂躙されている。熟睡していることは間違いない。シートベルトを外して立ち上がろうとするSを私は「立ち上がると危ない」と押し留める。そして、私もシートベルトを外す。
 何度目かのカーブ。大きく車体が揺れ身体が遠心力に引っ張られるように窓ガラスに押し付けられる。バス全体が大きく傾き車内に悲鳴が上がる。ガードレールに車体が擦れる激しい音と衝撃。視界が錐揉み飛行のようにぐるぐると旋回し、次の瞬間窓ガラスが割れて私の身体は車外へ放り出された。

その時、私の脳裏にビジョンが閃いた。そう、わかったよ。

そして私の身体はアスファルトに叩き付けられる。

「…さん、大丈夫ですか?」
Sの小さな顔が私を覗き込んでいる。一緒に放り出されたSは髪は乱れコートも泥まみれのひどい有様だがどうやら軽症で済んでいるようで口調もしっかりとしている。そうだ、あのビジョンで私が見た、横たわるKの横で死にゆく彼に必死で声をかけていたあの姿と同じだ。良かった、私はうまくあのKと入れ替われたのだ。
「…あなたは?」
「私は大丈夫です。でもK君が…」
彼女は心配そうに辺りを見渡した。そうだね、あなたは私じゃなく彼のことを心配しなくちゃいけない。いっぱいいっぱい心配しなくては。私は言葉を振り絞る。
「彼は…死んだわ」
彼女の瞳孔がすっと広がった。
「彼は死んじゃった。バスと一緒に谷底に落ちて」
彼女の顔が悲嘆に歪む。ほら、もっと、もっと絶望の淵に落ちなさい。
「もう会えない、彼には」
私のだめ押しの言葉に彼女はいやいやをするように首を振り「かわいそうに」と口が動いた。
「…会えないんだよ、彼には」
これが私の最期の言葉になるようだ。意地悪だね、私。でもね、最後なんだから、ちょっとくらい意地悪していいじゃない? 遠ざかる意識。ごめんね。許される意地悪。だって、私、あなたが彼とまた必ず会えると知っているから。


 先輩は死んだ。K君の身代わりとなって。申し訳ないし悲しいが先輩自身が選んだ道だから私は受けとめるしかない。恐ろしいビジョンばかりが訪れる日々、どれほど辛く苦しい人生だったでしょうね。かわいそうに。先輩の苦しみの100分の1くらいしか私は理解できませんけど、“普通の人”よりは理解できます。最後の私の悲しみの姿をK君を失った悲しみだと思いながら逝った先輩。違うんです。あれは先輩の人生を思っての悲しみだったのです。ごめんなさい。今も私は彼のことは全く心配していません。だって、私、彼とまた必ず会えると知っているから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?