青天乃霹靂(弐)

 10月7日、いよいよ手術前日、入院の日がやって来た。1週間以上の入院になる予定なのだが手術の後はICU(集中治療室)へ直行でそこには歯ブラシと電動ひげ剃りくらいしか持ち込むスペースが無いとのことで、全くの軽装にて娘と病院へ向かう。(一晩だけなのにどちらも必要か?と思ったが何日も入り続ける患者さんもいるのだということを受けてのマニュアルだということが後に分かる)

手術前日とはいえもう検査も診察も無いので、病室に収まり、パジャマに着替えて陰毛チェック(今回鼠蹊部からカテーテルを通すので陰毛を剃って来いとの指示があったのです)をし、翌日輸液チューブを繋いで点滴を落とし始めるための点滴針を左前腕に刺してしまったらやる事はない。翌日の手術開始予定は12時半、家族は11時頃までに来てくれればいいということを確認し、娘は午後の仕事へ向かった。
自分はコーヒーを飲まないと直ぐに眠くなる、言わばコーヒーによって目覚めさせられているような体質なので、朝からノーカフェインのその日はやることが無くなったらあっという間に睡魔が襲って来た。前の検査入院から9日、会社ではやりかけの仕事の仕上げや自分が居ない間の引き継ぎ、家では、自分が入院している間お義母さんが来てくれるとのことで、空巣が入った後の様だった家を片付け、風呂やらトイレやら台所やらを最低限綺麗にし…と、どうせ入院したら寝て暮らすんだからと、ちょっと頑張ったのでさすがに疲れており、はい後はもう寝ます、と素直に眠りに落ちたのだった。

 明けて手術当日、病院の朝は6時に始まる(体温・血圧測定)ので、朝食を食べ終わると昼の手術までが長い長い。
 家族同席至上主義のこの病院、事前に「手術当日、出来れば娘さんだけではなくもうちょっと年齢の高い親族の方、例えば…(提出した入院書類に自分が書いた親族図表を見ながら)この前橋のお兄さんなどに病院へ来てもらって手術の立会いと術後の説明を聞いていただくというのはできませんかねえ」と言われ、はるばる群馬から兄に車を飛ばして来てもらうことになっていた。それは恐らく、まだ22歳の見るからに頼りない小娘にあれこれ説明しても何が何だか良く分からんのではないか?という不信感ではなく、もし術中「困ったこと」になった時にそういう小娘に重大な決断をさせるのは酷であろうという思いやりなのだろうが、その兄が10時頃に到着、おしゃべりをしているうちに、バスの遅れでなかなか到着せず父の出陣に間に合うか際どい状況だった娘が11時半過ぎにようやく到着、それを待っていたわけでは無いだろうが、時を同じくしてついにまな板の上の鯉となりベットに載せられたまま手術室へと向かうこととなったのであった。
 仰向けのまま天井を見ながら移動。娘と兄はエレベーターまでついて来て「それでは親族の方はここまでのお見送りです」と看護師さんに言われ「じゃあ」と手を振る。頷いて応えたが、エレベーターの扉が閉まる瞬間、なんか焼き釜に入る故人を見送る親族っぽいなあとブラックな喩えが頭に浮かんだのはまあ私がブラックだからでしょう。

 手術室は前回造影剤撮影を行ったのと同じ部屋だった。仰向けのままベッドから施術台へモルグ(死体安置所)の遺体を移動するように(いかん、どうしても喩えがブラック)スタッフの人たちによっこらせと丸太ん棒のごとく移動させられ、手早く身体を固定、口にゴーグルを当てられて、早々に全身麻酔の手順に入る。
 前回と同じ部屋ということから、前の駄文をお読みになった方で気になさっている方も居られるかもしれないが、やはりポップミュージックのBGMが流れており、入室して全身麻酔の手順に取りかかっている時に流れていたのは、自分のスマホにも入っている BUMP OF CHICKENの曲だった。スッと名前が出てくるバンド名で良かったなあ、曲名は何だっけか、まあいっか、曲名気にしないで聴いていたから考えても出て来ないだろ、でもなんだっけ
……などと考えているうちに……落ちた。

「……Kさーん、終わりましたよ」
と、記憶が再開した……と思う。「思う」と曖昧なのは、何せ起き抜けの朦朧とした記憶、確信がないからなのであるが、それ以外の言葉がかけられる可能性はほぼゼロであろうから、まあそう声をかけられて目覚めたのであろう。(ちなみに手術が終わったのは開始から7時間近く後の夜8時前だったとのこと)
 最初にまず思ったのは「意外と記憶がつながっているなあ」であった。事前に想定していたのは、目覚めた直後はいわゆる「ここはどこ? 私は誰?」状態なんじゃないか?というものだったのだが、きちんと「全身麻酔の中でカテーテルによる脳手術を行なっていたが今終了した」ということが目が覚めた時から把握出来ていた。それ故にまずは「ほおすげえ」と素直に感心し、そして「まあとりあえず死にはしなかったのね」とホッとしたのであった。 
 そしてそのままICUへ移動。身体全体を固定されたまま移動しながら、記憶と共に覚醒していく自身の身体感覚を確認すると、これといって痛い所などは無いが尿道にチューブが刺さっている感覚に気付く。もちろん事前に聞いていたが、全身麻酔で意識を失っている間に挿入したのであろう。前回のような尿意我慢地獄が回避されているからありがたいがやはり変な感じである。 

 さて、ICUの自分の設置スペースに到着した頃には身体感覚はほぼ戻っていたが、そうすると恐ろしく寒さを感じるようになって来た。身体の上には毛布だか布団だかがかけられているのだが、身体の背中側が寒いのである。あたかも冷たいコンクリートの上に横たわっているようで震える程だ。とてもではないが我慢できなくて「すみませーん、すごく寒いんですけど」と訴えると「寒いですかー?電気毛布の温度をもう少し上げましょうかね」と言う。ほお電気毛布だったのかと思いつつ「あ、上側じゃなくて背中側が寒くて」と更に訴えると身体を待ち上げて毛布を一枚敷いてくれたが、寒さには変わりがない。恐らくこういうものなのだろうと「どうですかあ?」に対して「まだ寒いですけどどうにかなりそうです」と強がる。
 気がつくとベッドの横に医師らしき男性が立っていて「手術は無事成功したそうで良かったね」と話しかけてくる。主治医ではなく見かけない先生だったので引き継いだICU担当の医師なのだろうと、そんなことより寒いんだよと「はあ」「はい」などとお座なりな受け答えをしていると「この後は〇〇ちゃんを送り届けて帰るから」との言葉。はたと「あ、この人兄貴だった」と気付く。眼球を動かしてさらに見れば娘も隣に居る。存在感がなくて気が付かなかった、すまぬ。その後はどうにか意味のあるやりとりが挽回出来て面目を保った。

 娘と兄が去ると、そこからいよいよICUでの戦いが始まった。7時間近くに渡った手術本編は自分にとっては意識を失っていて言わば体験記憶ゼロの時間だったわけで、実のところ何一つここに記せる事柄は無い。意識が戻った後のICUこそが自身の本編となる。

その大きな戦いは二つ。

1.冷暑の戦い

2.身体固定地獄の戦い

である。

 娘と兄が去った頃には背中の冷たさはかなりおさまってきていた。要は麻酔で温度感覚が麻痺していたということなのだろう。ほっとしてうとうととしてふっと目覚める。ああ暑い。暑い。暑い。首筋にタラリタラリと汗が流れ落ちている。目盛「最高」にしてあるであろう身体上の電気毛布が盆休み頃の太平洋高気圧のごとき鬱陶しさで身体全体を熱している。これはたまらんと今度は「すみませーん、暑いんですけど」と声を上げると「暑いですかあ?電気毛布切りましょうかね」と看護師さんが(多分)スイッチを切って去って行った。しかし、暑い。暑いままである。まだ毛布が熱を持っているからであろうかと我慢してみるも、暑さは変わらない。首を回せなかったので確認出来なかったが、ICUには結構な人数の患者さんがいるようで、あちらこちらから患者さんのイビキやら咳き込む声やらが聴こえており、看護師さん達もせわしなく動き回っていたので、たかが寒いや暑いでしばしば声をかけ手を煩わせるのはどうも申し訳なく感じて、せめてほとぼりが冷めた頃(←使い方合っているのだろうか?)お願いをしようと、更なる我慢を続ける。ほんのちょっと毛布を剥ぐだけで済むことなのだが身体が固定されているのでそんなことも出来ない。仕方ないのでどうにか動く背中をグイと持ち上げブリッジ状態に背中の下を空けたり、毛布の端を指でつまみこちらもどうにか動かせる腕から先のみでちょこっと持ち上げたりして空気を通そうとするが、大した効果は無い。疲れるだけである。結局ほとぼりが冷めた?頃にもう一度「すみませーん」と声をかける。今度は「じゃあ毛布剥いでタオルだけにしましょうかね」とスッキリとさせて行ってくれた。よしよしとホッとする。が、汗だくだった上半身が薄手のパジャマとタオルだけとなり、 気化熱を奪いつつ汗が蒸発して……寒い。寒い。さすがに「やっぱ寒いです」とも言えず、恐らく汗が引ききってしまえばちょうど良くなるであろうとしばし我慢。やがてその通りに寒さは収まり、ようやく冷暑の戦いは終戦の時を迎えたのであった。

 さて、今回の手術は右鼠蹊部(股間ですね)よりカテーテルを挿入しそこから血管内の 1m程の道のりを延々と旅して脳髄内の患部に到達しコイル様のものを複数患部の静脈内に設置して、問題となっている動脈から静脈へのイレギュラーな血流を遮断するというもの。虫垂炎手術のような切ったり縫ったりという類の手術では無いため身体のダメージは軽微で済むとはいえ、1mもの血管内を異物が貫通するということはどんな障害がその過程にて発生するかも分からず、手術中はもちろんのこと手術後もその健全性が確認されるまでは身体を折ったり曲げたりする事は極力避ける必要があるわけで(←そう説明を受けたわけでなく勝手に想像しただけですが)、全身麻酔が開始されて手術が始まってから手術が終わり麻酔が覚めICUに設置されるまで7時間、そしてそこから更に7時間ほど、計14時間仰向け両手伸ばしに固定されたまま過ごさねばならなかった。これが「身体固定地獄」の戦いである。
 先の「冷暑の戦い」の段で、ICUに到着し身体感覚が覚醒して行くと同時に背中側が猛烈な冷たさに襲われたと書いたが、身体感覚が覚醒ということは冷感温感だけでなく痛感も覚醒するということで、その時点で7時間ベッドに押し付けられ続けていた背中も思い出した様に悲鳴を上げ始めていたのであった。
 「冷暑の戦い」が、押したり引いたりの肉弾戦めいた戦いであったのに対し、同時進行していた「身体固定地獄の戦い」はまさにジリジリとした籠城戦であった。何しろ「動けない」というのは文字通り「動かせない現実」。看護師さんの「午前3時頃になったら一部拘束を外しますからねー」の言葉を唯一の希望としてひたすら堪えるしか無いのである。時間を過ごす一番有効な手段と言えば「眠る」ことであるが、痛いのは言わずもがなで、そこに「冷暑の戦い」の冷たいや寒いや暑いが重なって眠るどころでは無い。ああ、せめてここにこそポップミュージックのBGMが流れていれば名前思い出しで時間つぶしが出来るのに…とも思ったが、そうなったらそうなったで眠るどころではなくなったであろうからまあ流れてなくて良かったです。
 それでも恐らく日付けが変わる頃に冷暑の戦いが終戦を迎えたことにより、眠りを妨げる要因の半分が消え、10分15分ほどウトウトとしては痛みで目覚めるという繰り返しとなり、少しずつでも解放の時である午前3時に向かって進んでいることが実感出来ることで、それを心の支えに戦いを乗り切れるのではないかというささやかなモチベーションを維持できるようになったのであった。
 それにしても…である、自分の父も母もどちらも脳梗塞で倒れ、晩年は病院にてかなりの期間寝た切りとなって最終的には病院で逝ったのだったが、看護師さんや介護士さんにベッドの角度を調整してもらったり多少の寝返りをさせてもらっていたとはいえ、同じ姿勢で横になり続けることがこれほどまでに過酷であるとは自身が体験するまで全く理解していなかった。日本中いや世界中の看護・介護に携わる方には本当に心よりの感謝をせねばならないし、また自身もこの「身体固定地獄の戦い」を繰り返さないためにも健康に留意し自由に寝返りが打てる人生を全うしたいものだと改めて痛感自戒したのであった(これを「2019年10月不戦の誓い」と名付けることとする)。
 待ちに待った午前3時(多分)、ついに「左足外しますねー。曲げてもいいですよ」と来た。……って、へ? 左足? 左足だけ?「右側はもうちょっと待って下さいねー」とな?とりあえず左膝を曲げてみる……が、戦線にほぼ変化無し…である。痛い。苦しい。そのままである。ああ「横になりたい」というささやかな夢はここに叶わず、戦いは2時間の延長戦となったのであった。
 そして朝5時(多分)、今度こそ本当の「ついに」看護師さんが右足の拘束を外してくれた。ゆっくりと両膝を曲げ横向きになる。カテーテルの刺し口だった鼠蹊部に痛みは無く問題はないようだ。横になって初めてICUの全貌を目の当たりすると20m×10mほどの結構な広さのスペースの2/3ほどに10人ほどの患者さんのベッドがあり、残りの1/3にMRIやCTの画像が映るパソコンのモニターが並んだ医師の机や医療器具棚や書類棚が配置された、病室と施術室と診察室が一緒になったような空間であった。
 膝を折り横向きになって痛み切った背中を解放すると、今までの苦痛が嘘のように消えて行った。じんわりと穏やかな気分に満たされて来る。ふと気が付いたのだが己のその姿勢はまさしく母親の胎内に眠る胎児の姿。何か妙に納得する。
 横向きのまま目を上げれば遠方の壁に掛けられていた時計が目に入り今が朝の5時(確かそのくらいだったと)だということが分かる。手術に向かう時から眼鏡は外していたのだが、この時ばかりは近視ではなく遠視(老眼ですね)である事を幸と感じる。横向きになれたことに加え、以降時間の経過がリアルに分かることで、ICUでの時間は格段に楽になったのであった。

 かくして世界が夜明けを迎えるのと時を同じくして自分の二つの戦いも終わりの時を迎えたのであった。その後昼の12時半に娘が訪れるまではひたすらに胎児の姿勢にて身体を休めた。その時心に誓ったのは「もう一生…そう、棺に入れられる時まで、仰向け両手伸ばしの姿勢では眠らない」ということだったが、まあ3日経った今日辺りだと一眠り中数秒くらいは仰向けになっています。

 さて、二つの大きな戦いはどうにか乗り切ったが、戦後もいくつかゲリラ的な局所戦はあった。その一つが「尿道チューブ引き抜きの戦い」である。順調にICUでの時を過ごし、異常無しということで一般病棟に戻ることになったのは午後の2時半であったが、その1時間ほど前のこと、看護師さん(♀)が寄ってきて曰く「Kさん、一般病棟戻ったら歩いてトイレ行くんですよね。チューブあちらで抜きます? それともこちらで?」と来た。自分も気になっていたところだったのだがまさかあちらとこちらの選択肢を提示されるとは思っておらず、思わず「あ、はい、ではこっちで」と答える。「あー分かりましたあ。ではもうちょっとしたら抜きに来ますのでね」と答え、立ち去る看護師さん(♀)。その言葉の通り、15分ほどすると先刻の看護師さん(♀)が戻って来て「じゃあやっちゃいますねえ」とやおらカーテンを閉めると、テキパキとパジャマをはだけ「すみませんねえ」とオムツを外し「ではいきまあす」と、一気に、ズリっと、チューブを、引っこ抜いた。もちろん自分はその悲惨な局所戦を直視することなど出来ず、戦争映画のヘタレ脇役のごとく顔をそむけ目を閉じ歯を食いしばっていたのであるが、チューブが抜け出るその0.5秒ほどの瞬間「うひゃー」というマンガの吹き出し内のような声を発してしまったのは恥ずかしながら嘘偽りない事実である。
 さて本来それはここに記すに当たって「××が〇〇を引っこ抜くように」と何かしらに喩えるのが相応しい看護師さんの引き抜きぶりであったのだが、ごめんなさい、喩えを考えようとその瞬間を思い出そうとすると「ブルブルうひゃー」となってしまうので無理です、一種のトラウマです、はい。申し訳ありませんが××と○○は読者の方の想像力にゆだねさせていただきます。

 ということで、さっさとここから離れる。

 かくして、前日昼12時過ぎに一般病棟から手術へと向かい、26時間のあれやこれやの時を経て再び一般病棟に戻って来て、ようやくスマホを手にして、関係各位の皆さんに「外界に戻ってきました〜」と色々な経路でご報告、とりあえずは、青天の霹靂のようだった「硬膜動静脈瘻手術」は一段落となったのであった。

 さて、今は手術から5日後、巨大台風が過ぎ去った日の午後で、刺さりっ放しだった点滴針も前日に外れ、今や無職の全くの平常人がただ食って寝るだけのために滞在しているような状況で、リハビリに励む入院患者の方などを見ると申し訳ないくらいなのであるが、改めて思う。
 今回の手術のきっかけとなったのは、今から3週間ちょっと前のあの「漢字が読めない」という30分間だけの認知の異常なのだが、結局その異常は以降発生することなく手術の時を迎えることとなった。それ故に、自身の体調感覚は、平常→(手術→いくつかの戦い)→平常、という流れであり、病気や怪我を治療する一般的な手術と異なり「痛い」や「苦しい」や「不自由」を取り除くものではなかった。実際、手術後にICUで主治医の先生に「どうですか、何かスッキリしたような感じありますか?」と声をかけられたのだが「いやいや先生、手術前もこれといった違和感無かったので正直変わってませんよ」と答えて「ああそうでしたね」と苦笑いされたものだ。実は自身の思いとしては、もしや術後には長らく悩まされていた偏頭痛がスッキリ治っていたり、脳内に停滞していた人名がすぽんすぽん出てきたり、若い頃のように面白いアイディアがグルグル浮かび上がってきたり……するようになってるんじゃないか? などと淡い期待をしていたのだが、その全てがビフォーアフター変化無く、なんだか「苦労した割に得たものの実感がないなぁ」というのが正直なところなのであった。
 そもそも、ネット上で「硬膜動静脈瘻」を調べてみた時にその症状として「血流に押されて眼球が飛び出る」や「眼が充血する」や「視力が落ち場合によっては失明する」や「(イレギュラーな血流による)何かが流れるような耳鳴りが聴こえる」や「けいれんが起きる」等々出て来たが、「漢字が読めなくなる」やそれに類する症状は自分が見た限りでは見当たらず、今回この病気が発覚したのもぶっちゃけ「とりあえずMRIを撮ってみたらおかしな部分があった」ということで、心の底には「もしかしたら『漢字が読めない』と『硬膜動静脈瘻』とに因果関係はないんじゃないか?」そして「『漢字が読めない』という認知異常がまたいつかあるかもしれない」という可能性と覚悟のようなものが1%くらいは残っていたのだった。
(もちろん発見してくれた医師の先生と病院には本当に本当に本当に感謝してます。さらに「とりあえずMRI」などと書いてますがそうではなく「まずはMRI」という流れが脳神経外科診療のベストの入口であるということも我が身を持って実感しております)
 だからこそ…とも言えるが、あの「漢字が読めない」という30分間が「1年に10%程度の確率で起こる出血クライシス」というリスクを自身の脳内に抱えていたということを知るきっかけとなり、それが本当に突然のクライシスとなって自身を襲う前に、取り除くための手術が出来たということは、まあラッキーな出来事と言えるのだろうなあと思うのである。言ってみれば「瓢箪から駒」と「禍福は糾える縄の如し」をハイブリッド化したような出来事であったということなのかもしれない(間違っていたらごめん)。

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 さて、今回このような長駄文を延々と書き連ねて来たのは、元を正せば、各方面の自分の知人友人達に自分の置かれた状況を説明するのに、一本文章を書いてネット上にアップしそのURLを伝えれば時間と手間が省けて楽なんじゃね? と思いつき始めたものだったのですが、思いのほか時間がかかり(←それは自分が悪いです)、長文が苦手な人に苦痛を与えてしまい、結果、はて?良かったのか悪かったのかよくわからなくなってしまったというのが正直なところです。
 読むためにいらぬ時間を使わせてしまったということは本当に申し訳なく思いつつも、もし多少でも暇つぶしなったという方がおられたならばそれは望外の喜びであります。
 さらに手術後の後編については、とりあえず「ちゃんと脳の機能は働いているか?」という検証のために書き続けたという意図もありました。なので、もしも文章中おかしな…いや、文章自体がおかしなものであったとしても、それはまあ手術の後遺症なんだなあと優しく判断していただければと切に願うものであります。

と、逃げを打つ。

いや、ホントに長文失礼いたしました。長々読んで下さった方、本当にありがとうございました。

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