インプットの質が高すぎる
最近の教理勉強に関するインプットの質が高すぎて、自分の器の小ささゆえに取りこぼしている気がしてならないkamekayoです。
先日も秘密の勉強会があり、新しい視点や視座を与えてもらいました。
ここにアウトプットすることで、少しでも体得できるようにしたい。
しかしながら、すべてを網羅するには、時間と知力が足りないので
潔く3つまでに厳選することにします。
1.教理をわかりやすく伝えようとすると人間思案が入る
あの二代真柱様をして「わからないのは、自分が未熟だからである」と言わせしめた教理ですから、私ごときがすぐに「わかった」なんて眉唾もの。
わからないことが「わかった」としか言うまい。
教理勉強は究極の無知の知やね
とは尊敬する師匠、お道のソクラテスの言です。
2.きれいな鏡に自分の姿を写して直す
この道はつけるべき道と違って向こうからついてくる道。
銘々の信仰を徹底させる。
天秤棒のようにこちらの信仰が強いと向こうが上がる。
自分の腰が上がらないように信仰を強める。
人間は自惚れがあるから、鏡を見ても自分の顔がよいように思っている。
たとえ悪くてもよい所だけを見ている。
曇った鏡ではっきり写らない。
きれいな鏡の前に行くと、気が引けてかなわないというようでは、自分の心がわからない。
3.教祖を背景にしていけば皆理になる
一番肝心なことは、神様に心に浮かばさしていただくようになること。
あちらの本を覚えこちらの本を覚えたり、それで人を助けようなんて駄目。
神様に入り込んでもらえるだけの理を作る。
人を助ける理に、心をもっていく。
山を描いて笹を入れるとみな、富士山の絵になるように、教祖を背景とすれば、みな理になる。
例えば一言はなしても、相手の心に何か湧いてくる。
それを自分が一番に行う。
一度聞いた話を我が身を通してきたものは本当の教理。
動かすことのできない事実。
自分の心を通したものは相手に響き、ぴったりはまる。
まとめ~自分の行いに変換してみる
1.教理をわかりやすく伝えようとすると人間思案が入る
→わからなくても、わかるように努力する
2.きれいな鏡に自分の姿を写して直す
→おやさまという綺麗な鏡に自分の心を写す
=いつもおやさまならどうするかを自らに問う
3.教祖を背景にしていけば皆理になる
→教理を自分の身に行う
以上です。
読んでいただきありがとうございました♡♡♡
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