韓国SF「わたしたちが光の速さで進めないなら」とキム・チョヨプを読む:「障害」を絡めて(翻訳)

これは12月3日早川書房により刊行された韓国SF、「わたしたちが光の速さで進めないなら」(キム・チョヨプ著)を理解する助けになればと思い、韓国のTwitter上で병리(문)학자(@litterphile6280)(※病理(文)学者)氏によって作成された評論スレッド(https://twitter.com/litterphile6280/status/1330025199903752192?s=20)を翻訳したものです。こちらのツイートスレッドにはテキストの理解に役立つイメージや引用書籍の書影などがありますので、ぜひともご一読ください。

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素人翻訳ですので、ところどころ文章が怪しいところがありますがご了承ください。また、人名や引用の間違いなどもすべて翻訳者の責任です。


わたしたちが光の速さで進めないなら キム・チョヨプ https://www.amazon.co.jp/dp/4152099860/ref=cm_sw_r_tw_dp_x_j0l3FbMGMZ608

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今日はキム・チョヨプを障害と絡めて読んでみたいと思います。


1.技術
20世紀、ニューヨーク州の都市計画を統括していたロバート・モーゼスには悩んでいました。人種差別主義者だった彼は、ジョンス・ビーチ公園に黒人が接近できなくすることを望んでいたのです。
悩みに悩んだ末、彼は画期的なアイデアを思いつきました。経済事情で自家用車を持てない黒人達は主にバスを使用するから、ロングアイランドの高架道路をそもそも低く設計すればいいではないか、ということです。バスが通れないと悪名高い高架道路はそうやって建設されました。
STSの大家であるラングドン・ウィナーはロバート・モーゼスの事例を分析し、技術とは世間の通念とは違い「間欠的にで、制限された、別に問題を起こすこともない相互作用」ではなく、「我々の日常的存在の脈絡に絡みついて(…)我々の人間たるそのものの一部分になった生の形」だと断定します。
言い換えると、技術(techne)とはすなわち政治(politeia)です。それは知らぬままに差別と嫌悪を生産・再生産します。ここでとある小説は思い浮かびませんか?キム・チョヨプの短編集の表題作、「わたしたちが光の速さで進めないなら」のことです。
小説の舞台は「高次元通路を利用して」「時間遅延なく宇宙の端から端まで移動できる」ワームホール航法が開発され、宇宙連邦が経済性を理由にそれまでの古い航法を禁止した未来です。「出発が間に合わずに」「家族や大切な人たちと離れ離れになった人たち」にはどんな社会的配慮もありません。このモチーフは「문학3(文学3、韓国のweb文芸誌。http://munhak3.com/)」で読める「달온의 밤」でも変奏され、繰り返されます。星間移動が大衆的に広まると、「宇宙へ行く」という言葉は「生きている内に1~2回は太陽系旅行でガニメデやイオの奇妙な表面を眺める」一時的旅か、「地球では何もかも手に入らず」「追い出されて」永久定着するかのどっちかを意味することになりました。前者を享受する人たちは後者を選ばされる人たちに対して無関心です。ミュールン惑星とボーア惑星の事態があったのにも関わらず、彼ら外界の災難にはぐずぐずしているばかりです。
キム・チョヨプがエッセイで述べた通り、彼女はどんな技術でも人類をより良い世界へと導いてくれることはできないと信じています。新しい航法が誰かを排除するように、いや、その前に星間移動そのものが誰かを排除するようにです。
これを最も明示的に見せる小説は「巡礼者はなぜ戻ってこないか」です。「顔に消えない痣があって」蔑視されたリリーは人間胚芽施術を完成させ、子どもたちに「素晴らしい特性のみで構成された人生をプレゼント」しようとしました。
しかし彼女の研究は「結果的に(…)世界を排除の層で分けて」「美しく有能で病気もなく寿命も長い」改造人と「自分たちに問題があると信じて疑わない」非改造人に区分しました。意図はともかく、リリーの技術は「軽蔑」と「憐憫」が混ざった「いたたまれない視線」を作ってしまっただけです。
なぜキム・チョヨプは技術に対して懐疑的なんでしょう?韓国のトップクラスの大学で修士号まで取ったのに。ここで我々は彼女が回想した過去を見る必要があります。

2.障害
キム・チョヨプが始めて補聴器をつけた時、彼女は楽観的未来を約束されました。「より高性能の補聴器が、新しい難聴の治療法が、完璧な人工内耳が開発される日を待ちながら」。しかし彼女はすぐに気付いてしまいます。正常への回復を目標に、技術が巧妙に自分を欠陥ある存在として規定していることをです。「完璧な補聴器に助けられ、聴神経を回復し、普通に音が聞こえる未来」を約束しながら、「それで(…)もう何を言ったか聞き返されず、会話を修了させない、誰にも迷惑をかけない(…)未来」を約束しながら、技術は聴人たちのための世界を設計しようとしていることにです。
キム・チョヨプが指摘しているのは、技術が障害を解決してくれると言う時、闇に「正常性」を想定していることです。後術しますが、障害とは社会的に構成され文化的に生成されます。とある構造や機能に問題があって障害になるのではなく、とある構造や機能を問題だと思うから障害になるわけです。アメリカ南部にあるマーサス・ビニアード島はこれに関して興味深い事例を提供します。マーサス・ビニアード島の住民たちは聴覚の喪失を欠陥として認識しません。その理由は、彼らの共用語が手話だからです。「彼らは障害人ではありません。(…)ただ聞けないだけの人だったのです。」オリーヴァー・サックスの言葉のように、手話を使うろう者は「損傷がある患者」ではなく「独創的な少数言語を使用する文化共同体」のいち員です。彼らの身体的特徴が欠陥として認識されるなら、それは彼らの周りの社会や文化が彼らを排除する方式で動いているからです。ここで今年の若い作者賞を受賞した「認知空間」を読んでみましょう。格子状に配列された共同の知識は「足を踏み外さない程度に丈夫な身体」を要求し、「とても小さい体躯に生まれた」イヴは格子に入れずに自然と共同の知識から疎外されます。
共同体はイヴが日常を過ごせるようにと「低い階層にのみ接近できる」「特殊なはしご」を作ってあげますが、「誰かが毎回イヴに長い説明を繰り返すわけにもいかない」というセリフに含まれたようにこの行為の根底にはイヴを「依存的・異常的存在」として設定したのち「自立的・正常的存在」に改造して主流社会へと編入させようとする陰険な計画がありました。誰かはこう思うかも知れません。「それが悪いことですか?なにはともあれ助けているわけだし。」まあ、そう思っていいかもしれません。もしイヴを対等な存在して扱ってくれるならです。
共同体はイヴを下等な存在だと認識します。「最初の物語が消えている」というイヴの発見は、「成長した精神には成長した身体のみ到達できる」という前提のもとで「根拠のない想像」や「妄想に近い(…)ホラ」として扱われます。
「特殊なはしご」に問題がある理由はここにあります。それはイヴの障害を「克服の対象」と明示し、イヴの固有の感覚を「欠乏」に近いものとして片付けてしまいます。そして存在の位階を巧妙に作り、差別と嫌悪を正当化させてもいます。
実はこれはそんなに遠い話でもありません。障害を持っている人たちが毎日のように出くわす不愉快な状況でもあります。一つ例をあげると、誰かが白杖を使っていると周りのひとはこう言います。「手伝いましょうか?」彼らは白杖を媒介した感覚が正常かもしれないという事実を考えずに相手を助けが必要な人間に格下げしています。「記憶する体」で
伊藤亜紗はこれを無礼な言葉だと指摘し、障害の感覚は「少しでも自分に合う身体を作るために奮闘してきた長い時間の蓄積の中でその人の(…)アイデンティティ」として肯定されるべきだともいいます。「キャビン方程式(アンソロジー「シティフィクション」収録)」はこのような認識の転換をはっきりと見せてくれます。「脳が時間を認識する回路に問題が生じた」ヒョンファは「時間感覚が極度に鋭敏になり」「時間の泡を完全に感覚」することができます。
少し話が逸れたので、本筋に戻しましょう。キム・チョヨプは補聴器を着用した経験を通じて技術が正常の障壁を構築して差別や嫌悪を陰険に強固化しているという事実に気付きます。「認知空間」はそれに対する自伝的小説でもあります。
彼女はこれに対して大きくわけて2つのことを言おうとしています。一つ、障害の感覚は欠乏というより充満に近い。これはさっきあげた「キャビン方程式」の結論でもあります。2つ、障害は社会的に構成され、文化的に生成される。これもさっきいいましたが、せっかく障害学を引用したので補足をします。車椅子使用者はいつ障害者になるんでしょうか?それは、車椅子が使えない状況におかれた時です。通路が狭かったり、傾斜路がない場合などです。ならば、手話使用者はいつ障害者になるんでしょうか?それは手話が使いない状況におかれた時です。誰も手話を理解できない場合になります。これはナンセンスに聞こえるかもしれませんが、とても大事な意味を持ちます。すべての場所に傾斜路があれば車椅子使用者には移動の制限がなくなり、手話教育がすべての人にされるなら手話使用者には意思疎通の制限がなくなります。
すなわち、障害とは個人の問題ではないということです。社会と文化の問題です。実際に世界各地で行われた地理学的・文化人類学的研究はこのような視座(position of view;観点を意味するpoint of viewと大別される単語)が正しいことを証明しています。
「자음과모음(文芸誌)」2019年冬号に収録された「ブラウンモーション」はこれに関しての小説でもあります。音声言語を使用する原型人類ジョアンは嗅覚言語を使用する息影人の中で正常から外れた「化け物」と呼ばれます。しかし、嗅覚言語を使用するダンヒが音声言語を使用する地球にいたら正反対を状況が発生したはずです。さて、それならキム・チョヨプは技術を絶対的に不信しているでしょうか?もちろん違います。彼女は障害を克服しようとしない新しいカタチの技術を構想しています。

3.サイボーグ
その新しいカタチの技術の輪郭を確かめるためにはweb文芸誌「비유」2019年11月号に収録された「ローラ」を読む必要があります。その小説では世界トランスヒューマン連合に所属された人たちが積極的に「身体を変形、改造して」「人間の人体的限界を越えよう」とします。最先端の機械で身体を埋め尽くせばすべての問題が解決でもするかのようにです。しかし「増強」と「向上」を掲げるトランスヒューマニズムはなんらかの二分法の中で片方を恩恵を受ける人に仮定するところで差別と嫌悪を再/生産する既存の技術の論理をそのまま踏襲しています。トランスヒューマニズムはその本質から新しい種類の搾取を生み出す他ありません。新しいカタチの技術へのヒントは違う接近方式から見つかります。「3つ目の腕を持っているかのように感じていた」ローラは「現実と認識の齟齬をただす」ためになんとしても3つ目の腕を付着しようとします。はたから見ればローラの決定は「身体に何かを(…)追加するという点で」トランスヒューマンと似ているように見えますが、「おぞましい不一致感に耐えられず」「身体に重大な毀損」までも実行するという点では身体同一性障害を持っている人たちに近いです。すでにダナ・ハラウェイは「機械と有機体の雑種」を意味する「サイボーグ」が多くの二分法的体系を瓦解させ、「我らの存在論」になるだろうと言いました。
彼女の表現の借りると、ローラは「共通言語を目指す夢(=トランスヒューマン)」より「異種言語を目指す夢(=サイボーグ)」を夢見ているとも言え、人間と機械の接合により正常にも異常にも還元されない新しいカタチの模型を提示して自分の「欠陥」を「同一性」に確立させようとしているとも言えます。
結局ローラはサイボーグに変貌し、「よく壊疽を流し、醜い痣ができた」のにも関わらずずっと「3つ目の腕を持って生きていく」と言うほど、身体の奇妙な感覚と和解することに成功します。トランスヒューマンとは違って誰も搾取することなく。
キム・チョヨプが構想する新しいカタチの技術とはすなわちサイボーグを経由し、「それぞれ自分の身体と感覚で世界を自由に享受できる」技術です。しかし、これは遠い未来を話しているわけではありません。アンディ・クラークが主張した「拡張された心論」によると、人間の感覚は身体にのみ依存しません。
たとえば、誰かが時計をつけている人に「今何時ですか?」と聞いたら、その人は「知りません」とは答えずに「待ってください」と「知っている」前提で時計を確認するはずです。ここで時計をつけている人がただ「時間をかんたんに確認できる」ではなく、「実際に時間を知っている」と思っているところに注目する必要があります。「なんでもすぐそこにあり、必要ならいつでも安価でかんたんに使用できる情報とセットとして」、すなわち身体の一部として機械を認識している証拠であるためです。通念とは違い、人間は「裸の生物学的有機体」ではありません。「自然的生まれつきのサイボーグ」です。
「館内紛失」と「感情の物性」はどのように身体と機械が交接するかを見せてくれる小説です。「館内紛失」に登場する図書館に出入りする人たちは「故人の記憶や行動パターン」をデータに転換する電子的補綴を通じて「他人の死が私達に残す質問」を解消します。一方、「感情の物性」に登場するエモーショナルソリッドの製品を購入する人たちは「中枢神経系に特定な方式で作用する」情緒的補綴を利用し、憂鬱などの感情を「実在する感覚」として感じます。2つの小説の人物たちはしらずしらずの内にサイボーグになり、認知的・心情的に拡張された領域を体験しているわけです。
結局「我々は技術との共生者であり、生命と機械の混合種体」です。人間と機械をお互いから分離することは事実上不可能です。手を洗うという単純な行為ですら洗面台、蛇口、配管、給水施設などの数え切れないほど多くの機械が関わります。これは先程軽く言及した「自立的・正常的存在」と「依存的・異常的存在」の区別が恣意的であるという事実を意味します。人間と機械の密接な連結の前で、純粋な自立という概念は虚像に過ぎないからです。
キム・ドヒョンは障害の概念がどのように形成されたを考察し、次のように言います。「働ける身体を選別するために働けない身体を明確に究明しようとし、ここから「障害者」という概念が「発明」されたのだ。言うなら近代社会への転換期にできた障害者という範疇は新しい形態の資本主義的労働体制から排除された人たち、すなわち「不認定労働者(unrecognized worker)」集団を指す概念とも言える。ナンシー・フレイザーもこれに近い指摘をしています。「産業社会への転換期の前までは、依存は異常とは反対の正常的条件であり、個人的特徴ではない社会的関係だった。(…)依存にはどのような倫理的な烙印もなかった。」ならば、「自立する正常人間」も「依存する異常人間」も存在せず、ただ「連立するサイボーグ」があるのみだと言ってもいいのではありませんか?だから我々は存在を再設計しようとせずに世界の方を再設計するべきだと。
小児麻痺を患った建築家ロナルド・メイスはこのような認識の延長から、普遍性に基づいた新しい考え方を提案しました。特定の存在に配慮した設計が究極的にはすべての存在を配慮する設計であると。普遍設計(universal design)と言います。例えば低床バスは車椅子使用者の利便性を極大化させつつ、同時にベビーカー使用者の利便性も極大化します。「認知空間」のスフィアや「ブラウンモーション」の意味合成機もそうです。スフィアは共同体の一員なら誰でも「世界のすべての記憶を残しながら」「より多くの種類の真実を作」れるように手伝い、意味合成機は「老いぼれて(…)自ら粒子を合成できない人たち」も会話に参加できるように手伝います。しかし「神聖冒涜を糾弾するかのように」スフィアに憤怒する共同体の姿や、「人たちが私のためにその「会話」を止めたことがあるのか」というジョアンの反問からも確認できるように、このような再設計は莫大な認識改変が続かない限り失敗するしかありません。
しかしキム・チョヨプはサイボーグに内蔵されたなんらかの本能が我々をいつか明るい未来へと導くだろうと確信しています。

4.共生
1967年、リン・マーグリスは20世紀初期の文献をもとに葉緑体やミトコンドリアのような細胞内小器官が元々は別個の細菌であったが融合を経て細胞の一部になったという「連続細胞内共生理論」を発表しました。彼女は「私は種という概念そのものが共生を前提にしていると信じている」と言うほど「共生」を進化の主要な推進力だと信じていました。「共生仮説」でキム・チョヨプは「人間性だと信じてきたものが実は外界性」かもしれないというアイデアをもとに、マーグリスの理論を事実の次元から当為の次元まで引き下げる自然主義的誤謬を意図的に起こし、自分の信念を読者に突きつけます。小説の中で研究陣は一連の演繹と帰納により、「個別に始まった2つの種が(…)共生し」進化して来なかったら人類は「ただ欲望のためだけに行動」して今のような「知性の進化と文明の誕生」は渡来してなかったはずだと推定します。これは人間の起源=本質が「自己完結的で自律的個体」にあらず、「他の生物と物質やエネルギー、情報を交換する共同体」にあるという事実を示し、さらにそれが「古くから存在する懐かしさ」を呼び起こすリュドミラの絵のように人間の理想になるべきだという事実を示します。我々が共生から生まれたから共生しながら生きるべきだという結論は「문학동네(文芸誌)」2020年春号に収録された「古い協約」で惑星レベルまで発展します。大気中に分布するクロフォニウムの毒性を中和するためにはオーブを食べないといけないけど、ベラータの人々はこれを宗教的禁忌とみなします。はるか昔彼らの祖先が「惑星そのものとして機能」するオーブから「惑星の時間を分け与えられる」代わりに「個体中心的思考から脱却し」彼らとともに生きる協約を結んだためです。「すべての生物のために自然に適正な物理化学的環境を造成できるようフィードバック装置やサイバネティックスシステムを構成できる巨大な総合体」である「ガイア」の中で共生は当たり前の義務かのようにです。(余談ですが、共生理論のマーグリスとガイア理論のラブロックは親睦があり、お互いに交流して影響を与えていたと知られています。)
キム・チョヨプは信じています。「スペクトラム」でヒジンが生まれつきの限界で「ルイが「違う」と表示する多様な赤色のち外を」全く区別できなかったのにも関わらず最期には色彩言語を少しずつ解読できたように、共生を目指す人間の本能が我々を正常の障壁が崩れ去った不可能の未来へと導いてくれると。そういえばキム・チョヨプが創造した人物はみんなそれを証明しています。彼らはいろんな資料を参照して疎外された存在の視座を内面化し、進んで世界に立ち向かうための「命がけの跳躍」と「暗闇の中の跳躍」を文字通り実行します。そしてそれは「最期のライオーニ」が見せてくれるように、美しい瞬間に帰結します。「SF」の語源になる「サイアンティフィクション」を最初に提示したヒューゴー・ガーンズバックは、「今日の虚構」と「確固たる未来」が科学小説のモットーだと言いました。「仮想の世界を探求する科学小説」を通じて「最もユートピア的な技術」から「ディストピアを考案」し、絶え間なく思考実験を繰り返すキム・チョヨプの小説を読みながら私達が障害の脈絡を熟考し続けたら、彼女の小説が描く美しい瞬間はもう「空想」ではなくなると思います。
長い文章を読んでいただき、ありがとうございます。

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