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聖徳太子のご命日・日本書紀と天寿国繍帳

2の並ぶご命日

明けましておめでとうございます。今年は、聖徳太子の1400年忌です。2022年2月22日と2が並ぶことから、特に意義深い年となります。とはいえ、世界は新型コロナのパンデミックの収束まだ見通しが立たず、2月は日本はどうなるか懸念されます。大規模なイベントは見送られるかもしれません。

私としては、イベントより、手垢のついた聖徳太子研究を、根本から見直す、内省的な年でありたいと思います。そして、200年後の、2222年2月22日に、人類と地球が調和のとれた、聖徳太子の和の世界であることを、祈ります。

日本書紀の異説

実は、今年が1400年忌にあたる、というのは、後で述べる天寿国繍帳銘文による説です。推古30年2月22日、グレゴリオ暦622年となります。

しかし、日本書紀には、推古29年2月5日、と記録されています。グレゴリオ暦621年です。それにしたがっていたら、1400年忌を昨年に、冬から春のパンデミックで医療崩壊に怯えながら無意味な飲食店たたきにうつつをぬかしていた時期に、むかえたわけです。今年は、科学的に意味のある対策が出来るのか。真の聖徳太子追悼の年にしたいです。

日本書紀の推古29年説が否定されるのには、推古29年から33年にかけて、不可解な混乱がみられるからです。まず、30年の記述がありません。31年は、新羅が任那を侵略するという大事件がおこり、全面戦争の危機に直面しながら、なんとか和平にこぎつけます。その委細をのべた重要な記述ですが、なぜか日付けを示す干支の記載がまったくありません。

続く、32年と33年の干支が、31年と32年のものになっています。

聖徳太子の死後、推古帝は、聖徳太子の第四夫人で未亡人となった、孫娘のたちばな妃のために、天寿国繍帳を創らせました。これは大切な事実です。それは、たちばな妃が聖徳太子の正妃であることを示す、推古帝の重要なメッセージとなります。

上宮王家の家長は、山背大兄である、という前提で、日本書紀のその後の記述はすすみます。しかし、たちばな妃がそこにからむ、上宮王家内部の混乱があれば、歴史記述はかわってきます。

なぜ、上宮王家が消滅したのか。たちばな妃の役割りを考慮すれば、まったく違う意味の物語となるかもしれません。それを、日本書紀は消し去ろうとして、改定に混乱をまねいた、と私は推理します。

天寿国繍帳の銘文

では、天寿国繍帳はどのようなものか。

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現在につたわる天寿国繍帳です。実物は奈良国立博物館に秘蔵され、めったに見る機会はありません。私は、法隆寺金堂修理記念の展示会で見ることができました。刺繍の質感は実見しないとわかりません。

この遺品は、二つの繍帳の断片のパッチワークです。彩色や刺繍の丁寧な部分が古いほう。細工が雑で色あせた部分が、後のレプリカです。

1274年、法隆寺の蔵で繍帳が発見されます。それを京に運び、複数の学者による銘文の解読がおこなわれます。そして、全体のレプリカがつくられました。このとき、銘文の記録は残されましたが、構図など美術品としての記録はのこされませんでした。

新旧二つの天寿国繍帳は、やがてバラバラになり散逸し、江戸時代に残されていた破片を集め、現在に至ります。

銘文に関しては、平安時代初頭にはまとめられた記録集「上宮聖徳法王帝説」のなかに記載されていました。

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上宮聖徳法王帝説注釈と研究。沖森卓也、他2005年、吉川弘文館。

鎌倉時代の発見により記録された銘文。

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聖徳太子への鎮魂〜天寿国繍帳残照。大橋一章。昭和62年、グラフ社。

まず、おそらくほとんどの学者は、法隆寺で発見された繍帳を、推古帝による本物と考えています。それによる鎌倉時代に記録された銘文が原資料とされます。

私もその前提で銘文をにらみました。4文字づつ背中に浮かべた子ガメ100匹は、どのように配置されていたのか。単純に10かける10だろうか。そのうち、聖徳太子の名前、とよとみみのみこ、の8文字が真ん中にあることに気がつきます。

この繍帳は、聖徳太子の位牌のようなものではないか。ならば、お名前は真ん中に大書されるべきだ。しかも、読みやすいように縦書きして。すると、真ん中には子ガメではなく、長円の二つ。あ、亀井と影向井の二つでは。

とすると、両側には49匹の子ガメ。7かける7となる。

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徹夜で作図しました。聖徳太子の名前の右に母后の名前。左にたちばな妃の名前。三尊形式になる。

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ひとつひっかかったのは、聖徳太子の名前は、とよとみみのみこと、の9文字で、最後の、と、がはみだす。

実は、続く文章で、母后の命日の、日、がぬけています。日、をいれて、真ん中を9文字、全体で401文字にすればいい。

すると、鎌倉時代に発見された原資料も、じつは推古帝によるものではなく、上宮家の騒乱や火災などで失われたのち、記録に基づき有力者により寄進されたものではないか。すぐ思いつくのは、光明皇后の母で、法隆寺に信仰の厚かった、たちばな三千代。たちばなつながりで。

しかし、ここまで推理をふくらませると、さすがにノンキな素人としても、たじろぎます。私はまず、亀の図案で聖徳太子となると、どうしても亀井水から発想します。その亀井水が認知されていないのだから、話になりません。

というとこで、天寿国繍帳については、お手上げ。失礼しました。聖徳太子のご命日を確認して終わります。


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