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古代の姿を残す亀井堂石垣


飛鳥時代の工法をのこす石垣
真ん中の巨石の下に金堂からの導水口がある

普通は見ない亀井堂の石垣。この石垣の素朴でいて強固な姿に気がついて、亀井水の歴史への確信がうまれました。

短歌を読めば、創建時から平安時代末までお堂はなかった。すると、この石垣は亀井水の重要な構成要素となります。

そこから、亀井水の幾何学的設計の意図が分析できる。

石垣の上から見下ろすと、どうなるか。
東の朝の太陽を礼拝する水鏡。


聖徳太子信仰のなかで、幼児の姿である南無太子像は重視されてきました。父が毎日東の空を礼拝するのを真似た乳幼児が、熱心に東の空を礼拝するようになる。

四天王寺は、必ず西への夕陽礼拝の彼岸信仰の名跡であると紹介されます。

いや、本来は、亀井水に見られる、東への信仰が基本ではなかったか。朝日があり、夕陽がある。その発想は、あの、日出ル国、という認識に結びつきます。


そして、父用明天皇は、血なまぐさい権力闘争の混乱に巻き込まれ、無念の死をとげます。

政敵物部守屋討伐の祈願により四天王寺は創建された。四天王寺の縁起は、普通はそう説明されます。

私には、違和感がありました。政敵殺戮のために企図されたというのは、仏教にはふさわしくないのでは。

権力闘争が社会と政治の基礎であると、多くの歴史学者は前提します。

だから四天王寺は勝者の記念碑であると。

しかし、谷川健一先生が「四天王寺の鷹」で、驚きとともに明らかにしたのは、四天王寺を維持してきたのは、物部守屋の遺民たちであった。ごく近年まで、物部の民の子孫を誇りとする人々が、四天王寺の祭祀を支えてきた。

四天王寺は、和解のための、平和のための記念碑である。従来語られてきた、歴史は、片面の物語にすぎない。


西があれば東がある。

争乱があれば和平がある。

ものごとは、もっと複雑なのかもしれません。

すくなくとも、四天王寺を語るためには、かたち定めぬ、水のイマジネーションがすべての底流に不可欠です。

それは、いまだ語りきれていない。


猛暑の季節の到来を告げる、深夜の雷の咆哮のなかで記す。

虚飾と欺瞞の現代社会の混迷の夏にむけて。

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